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螺旋・本文

十返舎警部シリーズ 第一話
         螺旋
                                         ニョッキ ゲタ                                                                                 

         一

 横浜横須賀道路、通称『横横』の佐原ICを出て、京急野比駅の前を通過して右折すると直ぐに海岸通りにでる。冬の日差しにキラキラと輝く水面を左に見て進むと、細長い駐車場と一年を通して建てたままの海の家が数百メートルに渡って見えてくる。ここは、夏は三浦海岸海水浴場として賑わい、今はウィンドサーフィンのメッカとして多くの人を集めている。海の家が切れたところで道路は三方向に分かれる。一番右を行くと武方面へ、真ん中の道は三崎、油壺方面である。一番左の道は海岸線に沿って延びていて、金田漁港から剣崎に通じている。砂浜には数基の足場が組まれ、初冬には三浦大根がびっしりと掛けられて天日干にされ、沢庵漬けに出荷されるのを待っている。金田漁協前を過ぎると上りとなり、やがて緑いっぱいの葉っぱをつけた白い大根が覗く畑が広がる丘陵地帯が目に飛び込んでくる。剣崎への入り口を通り過ぎて下ると江奈湾から、毘沙門バイパスのトンネルに入る。
 市川章造はトンネルを出たところで、警察官にバイクを停車させられた。
「お急ぎのところすみません」
 バイクの前に立ち塞がった警察官に、ヘルメットのゴーグルを上げて市川はぶすっと応えた。
「何か違反をしましたか」
「いや、そういうことではなくて。この先のところで事件がありまして」
「どういう事件ですか」
「それはちょっと」
「それじゃ、どういう用件ですか」
「この道路はよく通りますか」
「どういう事件か教えてもらえなくても話す必要がありますか」
「自分は下端なんでちゃんと聞いていないんですが、集団自殺ということです」
「ここは時々ツーリングで使います。寒くて遠出できない季節には三浦半島は手軽なコースなんです」
「今日は、ここは初めてですか」
「ええ、そうですが」
「分かりました。お手数をおかけしました。気を付けて安全運転をお願いします」
 市川は警察官に敬礼されると、アクセルをふかして走り出した。畑の中で、十数人の警察の人間が白いワゴン車の周りでせわしく動いているのを見ながら、毘沙門湾を過ぎた坂を上ると、二基の風力発電のプロペラがゆっくりと回っているのが見えてくる。宮川公園の駐車場は、いつもと違って大勢の人がガヤガヤと騒々しく動いている。テレビ局の中継車が二、三台停まっている。公園の方では、どこかのテレビで見たことのあるレポータが海を背にカメラに向かってマイクを握っている。市川はいつもの様に公園でのんびりと休むことが出来ないとわかると、そのまま通り過ぎた。
 夕刊からは大きな活字が飛び出していた。
 『同時多発集団自殺』『全国五ヶ所で18人死亡』
 そして、夕方のニュース番組は、一斉に特番を組んで、同時多発集団自殺を報道している。
 集団自殺したのは、北海道苫小牧市で、男2人(51才、21才)と女3人(26才、26才、21才)の計5人、青森県鯵ヶ沢町で、男1人(38才)と女2人(39才、17才)の計3人、神奈川県三浦市で、男3人(53才、25才、19才)と女1人(21才)の計4人、広島県尾道市で、男1人(33才)と女2人(41才、18才)の計3人、佐賀県唐津市で、男1人(29才)と女2人(23才、16才)の計3人である。
 五箇所の事件現場は、主要道路からは離れているものの、地域の生活道路から少し農道や林道に入ったところで、比較的発見され易い場所であった。警察庁は各都道府県警察本部に対し、同種の事件車両の捜索を指示した。五箇所での事件で共通しているのは、死亡推定時刻が発見前夜の12時頃であること、死因が一酸化炭素中毒と推定されること、練炭七輪が車内に置かれていたこと、使われた車はレンタカーで白色のワンボックスカーまたはRV車であることなどである。加えて、死亡した18人全員が首から名札を掛け、そこには名前、住所、年令、連絡先が書かれていた。
各所管の警察がそれを元に身元確認と死因の特定、自殺の動機などの調査を進める一方、前代未聞の事件に警察庁はIT犯罪対策室に連絡チームを設置し、各県からの情報を一元化し分析をすすめ、インターネットの自殺サイトが何らかの役割を果たしたと思われることから、この点の捜査を担当し事件の解明にあたることになった。
 市川は、翌日の朝刊に目を通した。紙面の大半は同時多発集団自殺事件の続報である。昨日、遭遇した三浦市での事件では自殺した4人について、名前を伏して報道されていた。
 53才の男は、住所が千葉県浦安市、職業は会社員、上場企業の課長をしていて、家族は、奥さんと成人した長女、次女の二人いる。家族の話では、最近仕事上の問題で悩んでいたようだが自殺するような人ではないという。インターネットは仕事を持ち帰った時に利用していた様だという。死亡した日は、何時通りに出社し、帰りは用事があるからと千葉駅で同僚と別れたという話である。
 25才の男は、川崎市高津区のアパートに住むフリーターで、家族は山梨に両親と兄夫婦がいる。アルバイト先の仲間の話では、相当なネットおたくで、アルバイトの時以外はアパートに引篭もってパソコンに向っていたという。自殺の動機は、「彼ならありうる」というのが仲間の話であった。死亡した日にはアルバイトはなく、誰も彼を見た人は見つかっていない。
 19才の男は、東京都渋谷区に住む浪人生で、両親が歯科医をしている裕福な家庭で、高校生の妹との四人暮らしである。二回、大学歯学部の受験に失敗していて、この春位から家で暴力を振るう様になって、自分の部屋に立てこもり、二、三日部屋から出てこないで、パソコンに向っていることがあったという。両親は、必ずしも歯医者にならなくても別の道を探したら話していたが、本人にはそれが逆にプレシャーになっていたのかも知れないと涙を滲ました。死亡した日は、夕方に両親が住居に戻ると部屋に姿はなかったという。
 21才の女は、住所が横浜市中区で、職業は会社員、両親と弟二人の五人家族で暮らしている。家族や同僚の話では、自殺する動機は分からないと言い、死亡した日は、夕刻の6時過ぎに汐留のオフィスを同僚と一緒方に出て、新橋駅で別れたという。特に変ったことはなかったと話した。

         二

 警察庁IT犯罪対策室に連絡チームが設置された。
 連絡チームは先ず、5箇所の警察署に対して、自殺した18人のパソコン及び携帯電話に残されている電子メールの送信記録と受信記録の収集と提出を求めた。18人の内、5人の記録は自殺を覚悟したのか消去されていたが、13人分については、自殺サイトとのやり取りと思われるものが残っていて、相手のメールアドレスは三つに限定された。更に、サイトへのアクセスログが残っていた二、三のパソコンから、自殺サイトが浮かびあがってきた。メールアドレスとアクセスログから、裁判所に捜査令状を請求、プロバイダからサイト契約者の情報を入手した。
 自殺サイト『天国への道』を運営するのは、年が37才、住所が東京都八王子市、職業は大学で助手をしている独身の男であった。この男の事情聴取、『天国への道』の掲載情報、自殺者とのメールのやり取りから等から、同時多発集団自殺の仕組みが明らかになってきた。
 サイト運営の男は、『天国への道』に自殺者の募集と自殺サポータの募集を掲載し、以後、募集してきた人とのやり取りは、一対一のメールで行われた。従って、死ぬ日の夜まで18人はお互いに接点、面識はなかったことになる。
 自殺志願者に対しては、20万円の参加費用と称した金を振り込ませ、身辺の整理を周囲に気付かれずにしておく様に指示、Xデーの連絡を待たせた。
 自殺サポータは10万円の報酬で雇われ、レンタカーの手配、練炭コンロの準備、自殺志願者のピックアップを行い、全員が集まると、練炭に火を起こし自殺場所をカーナビに設定して、キーを自殺志願者の一人に渡して役割を終えるというものであった。
 自殺幇助教唆と自殺幇助の容疑で、自殺サイト『天国への道』の運営者が逮捕され、4人の自殺サポータが自殺幇助の容疑で逮捕された。

         三

 年が明け、立春を過ぎた頃、市川は一本の突然の電話を受けた。相手は、十数年前まで、近くに住んでいた根本という家族の絵美という娘さんからであった。子供同士が同じ年で同じ幼稚園、小学校ということもあって家族ぐるみのお付き合いをしていて、家族が仕事の関係で千葉の方へ引っ越されてからも交流が続いていた。暫くのご無沙汰を詫びる挨拶の後、重たい声が市川の耳に響いた。
「父が亡くなりました。市川さんには直ぐにお知らせしなければと思ったのですが、父の死を内密にするよう会社から言われまして、家族、親戚のごく限られた者で葬儀などを済ませました」
「ええ、ほんとうですか。どうして」
 市川は驚きを隠しきれなかった。
「ええ、先日四十九日の法要と納骨を済ませましたので、ご連絡いたしました」
「それで、どうして亡くなられたのですか」
「それが」
 暫くの沈黙の後、絵美が続けた。
「自殺です。去年の12月の同時多発集団自殺という事件で死んだ内の一人です」
「三浦半島ですか」
「そうです」
 市川は、その日に事件のあった直ぐ傍を通ったことを言いかけて飲みこむと、
「電話ではなんですから、一度お線香をあげに家にお伺いしたいのですが」
 と言うと、
「そうしていただけると父も喜ぶと思うのですが」
 絵美は困ったような言い方をした。
「なにか」
「先程も申しましたが、父が勤めていた会社から内密にするよう言われていまして、今でも家の者が四六時中見張られている様な気がします。私とか妹が外出すると、いつも誰かに尾行されているようで」
「そうですか。それは心配ですね」
「こんなお願いをするのはご迷惑かと思いますが」
「どんなことですか」
「はい、私共、母も妹も私も、父が自殺したとは思えないのです。それで、少しお話を聞いていただきたいのですが」
「わかりました」
「ありがとうございます。尾行されているといけませんので、仕事の帰りに少し雑踏をグルグル回ってから行くようにします」
 二日後の夜、7時に日本橋近くの市川がよく利用する日本料理店で会うことになった。
 市川には、根本絵美がこの半年位の間に随分と大人になった様に映った。父を失った深い悲しみを胸に秘め、毅然とした態度をとらなければという気持ちが良く分かった。
「絵美ちゃん」
 市川の言葉に涙をこらえて、
「市川さん、お忙しいのにすみません」
「いや、電話でお父さんが亡くなられたと聞いて驚きました。お母さんと妹さんはどうされていますか」
「はい、母は父の葬儀が済むと過労か悲しみのためか入院してしまいました」
「それは心配ですね」
「でも不思議なもので、これまで喧嘩ばかりしていた妹がいっしょに母を看病し、私を助けてくれます」
「それは良かった。で、お父さんが亡くなったことについて」
 市川の問いに、絵美が話し始めた。
「あの日、父は普段通り家を出ました。母が見送っていますが、特に変ったことはないと言っています」
「お父さんは、確か大手のガス器具のメーカーにお勤めでしたね」
「はい、タニイ工業のサービスセンターに勤めていました。勤務先が千葉市に転勤になったことで、十数年前に市川さんの家のご近所から引越しました」
「その日のことですが」
「いつもは夜7時過ぎには帰宅しますし、残業等で遅くなる時は必ず連絡がありましたが、その夜は何もないまま10時を過ぎてしまい、会社に連絡を入れましたが、定時に帰宅したという話でした。二、三の父の知合いの方に電話しましたが、父と連絡はとれません」
「それで」
「そのうち日付も変ってしまって、朝を待つことにしました」
「それは心配でしたね」
 絵美は続けた。
「朝8時30分になるのを待って会社に電話しましたが、まだ出社していませんでした。何かあったのかと、警察に行って捜索願を出しました」
「そうですか」
「昼過ぎでしょうか、会社の上司の部長さんから電話を頂きました。父が自殺したと」
「んー」
「それも、三浦半島で集団自殺したと」
 絵美の凛とした言葉に対して市川は言葉を失っていた。絵美は、その後の状況を含めて警察からの説明と会社の対応を話した。
 絵美の父である根本正は自殺サイト『天国への道』へアクセスし、20万円の参加費用を振り込んで、同時多発集団自殺に参加した。三浦半島で他の三人と練炭コンロを使って、一酸化炭素中毒で自殺した。死因は一酸化中毒であるが、根本正は睡眠薬も大量に服用していた。名前、住所、年令、連絡先が名札に書かれていたが、根本正の名札の連絡先には会社の上司の部長の名前と電話番号が書かれていた。
 池上秀男という部長は、警察から遺体を引き取るときから家族に付き添い、葬儀等の面倒を親身になってみたが、その中で、根本正の死を出来るだけ内密するよう家族に要請したという。理由は、亡くなった原因が自殺で、会社の対外的な対面を考えてということで、家族もそのことを考えて同意したという。
「「父は自殺するような人ではないのですが」、と部長さんに言うと、「自分もそう思う」、と言います。「仕事のことで、何か悩んでいるようところもあったのですが」と聞きましたが、「仕事は順調で思いあたらない」、との答えでした」
 絵美の話に、
「私も、お父さんが自殺するような人には思えません。お父さんを思う気持ちの他に何か気になるようなことがありますか」
 と市川は質問した。
「そう言われると、はっきりしたことはないのですが」
「なんでも構いませんよ」
「ええ、一つは父だけが睡眠薬を飲んでいるということ」
「それに対して警察はなにか」
「はい、4人のなかで一人だけ年をとっていて、自殺する気持ちを他の三人となかなか共有できなくて、睡眠薬を飲んで眠ってしまったと」
「そうですか。他には」
「自殺サイトに振り込んだ20万円ですが、父がどこからお金を用意したかということです。お金の管理は全くの母まかせで、ヘソクリ等する様な人ではありません」
「そうですか」
「それに、先日お話しました様に、いつも誰かに監視されているような気がすることです」
「ああ、そうでしたね。今日は大丈夫でしたか」
 ようやく、絵美は悪戯っぽい笑顔を見せると、
「完璧に巻いてきました」
 市川は少し安心して、
「絵美さんの気持ちは分かりました。たぶん警察に再捜査を申し入れても難しそうですね」
「ええ、それで市川さんに話を聞いてもらいました」
「どれだけ力になれるかわかりませんが、出来ることをしています」
「よろしくお願いします」
「そろそろ尾行に見つかっているかもわかりません。気をつけて帰ってください」
 市川は優しく言うと、絵美と別々に店をでた。

         四

 海岸通りに聳える本部庁舎の神奈川県警捜査一課で、十返舎警部は、もたもたした手つきでパソコン画面と睨めっこをしていたが、パソコンがうんともすんとも動かなくなって、
「島牧くん、すまん」
 と捜査一課内で一番のIT通の島牧巡査を呼んだ。
「警部、どうしました。フリーズしましたか」
「えっ、外は寒いけど部屋の中だから凍りついてはいないと思うんだが」
「いやだ、警部、フリーズというのはパソコンが全く動かなくなったこと、デッドロックとも言うんですよ」
「フリーズだか、デッドロックだか難しいね。警察庁のIT犯罪対策室が出している広報を見たいんだが」
「ちょっと席を代わってもらっていいですか」
 と島牧巡査は言うと、パソコンのキーボードとマウスを何やらカチャカチャ、カチカチやって、
「警部、これでいいですか」
 と、警察庁T犯罪対策室が出している年度上半期の『ネット犯罪検挙状況等について』という画面を見せた。
「ああ、これこれ。いつも助かっているよ」
 と言って再びパソコン画面を睨み始めた。そこには、ネット犯罪の検挙状況、相談状況が一般市民向けに掲載されていた。

 【警察庁広報資料】
 警察庁広報資料『平成19年度上半期のサイバー犯罪の検挙状況等について』から一部を引用。
 平成19年上半期のサイバー犯罪(情報技術を利用する犯罪)の検挙件数は1,808件で前年同期(1,802件)とほぼ同数。
 罪種は不正アクセス禁止法違反、コンピュータ・電磁的記録対象犯罪、ネットワーク利用犯罪に分類される。それぞれの主な検挙事例。
○ 不正アクセス禁止法違反
 被疑者(会社員・男・31歳)は、インターネット証券会社の他人の証券情報を見るため、総当りによりID・パスワードを検索するプログラムを自作し、使用して利用権者の識別符号を入手し、同会社のコンピュータに不正アクセス行為を行った。
 ○電子計算機使用詐欺
 被疑者(鉄筋業・男・36歳)らは、高速道路の正規の通行料支払いを免れるため、軽自動車向けのETC車載器を大型トラックに設置し、ETC使用料金算出・徴収の事務処理用電子計算機に虚偽の情報を与え、不実の電磁的記録を作り、財産上不法の利益を得た。
 ○電子計算機損壊等業務妨害
 ○詐欺
 被疑者(無職・男・40歳)は、消費者金融会社がインターネット上に提供する「借入れ申込みフォーム」により、他人に氏名や生年月日を入力して、返済の意思もないのに借り入れを申し込み、現金を騙しとった。
 ○著作権法違反
 被疑者(無職・男・43歳)は、著作権者であるアニメーション会社の承諾を得ずに、アニメーションを複製したDVD98枚を作成の上、インターネット・オークションに出品して落札者に販売し、著作権を侵害した。
 ○商標法違反
 被疑者(無職・男・37歳)らは、偽ブランドの鞄等をインターネット・オークションに出品して販売し、商標権を侵害した。
 ○わいせつ図画公然陳列幇助
 携帯用インターネット掲示板の管理者である被疑者(派遣社員・女・32歳)は、投稿されたわいせつ図画を放置して、わいせつ図画公然陳列を容易にさせた。児童買春・児童ポルノ法違反幇助でも検挙。
 ○特定電子メール送信適正化法違反
 被疑者(会社役員・男・47歳)らは、出会い系サイトの広告又は宣伝を行うため電子メールを送信する際、国外に設置した128台のパーソナルコンピュータを遠隔操作して送信し、自己の営業につき広告又は宣伝を行うための手段として、送信者情報を偽って約2ヶ月間で45億通の電子メールを送信した。
 ○ストーカー規制法違反
 被疑者(無職・男・34歳)は、被害者に対する好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的で、インターネットカフェから、被害者の勤務先にわいせつな画像を送信するなどした。
 ○侮辱
 被疑者(中学生・女)は、自己所有の携帯電話から、インターネット掲示板サイトを利用し、被害者(中学生)を誹謗する内容を書き込み、公然と侮辱した。
 ○携帯電話不正利用防止法違反
 ○薬事法違反
 被疑者(健康食品販売会社役員・女・71歳)らは、酒酔い状態を解消できるなどとうたった未承認薬品をホームページ上で広告、販売した。
 【ここまで】
 十返舎は、一通り読み終わると島牧巡査に話かけた。
「この資料は見ましたか」
「はい、IT関連で警部から何か言われたら、何でも応えられる様にといつも心がけていますから」
「それはすごい。何でも島牧くんが教えてくれるから、いつまでたってもIT初心者なんだよな」
「そんなことはありません」
「ここにいくつかの犯罪例が載っているが、よくも悪いことを思いつくね」
「そうですね。多分、摘発されているのは氷山の一角だと思います」
「被疑者の年令が一部を除き、三十代が多いようだが」
「そう思います」
「まだ、昨年暮れの同時多発集団自殺については触れられていないが、あの三浦半島の事案では、確か53才の男が入っていたと思うが」
「あの事件の前にも、ネットを介した集団自殺が発生していますが、53才というのは年令が高いほうだと思います」
「53才というと私と同じ年代、いつも島牧くんに世話になっている IT初心者の自分と違って」
 島牧巡査は笑いながら、
「警部、大丈夫ですよ。私の父親も同じ年代ですが警部といっしょですから。あっ、ごめんなさい」
「その通りだから。すると、自殺した53才の男のほうが我々とは違っていた」
 この時、十返舎は、自殺した53才の男の事件に関わるとは思ってもいなかった。

         五

 市川章造は根本絵美に出来るだけのことをしますと言ったものの、どうしたものか逡巡していた。十返舎という高校の同級生が神奈川県警にいることを念頭に安請け合いをしたが、絵美の父親が自殺ではないという具体的な証拠は何もなかった。そんな時、絵美から電話がかかってきた。
「何か進展がありましたか」
 絵美の問いに、市川はまだ何もしていない後ろめたさを覚えつつ応えた。
「すみません、まだ具体的には何も進展していません」
「こちらこそ、お忙しいところお手数をおかけします。電話しましたのは、今日の夕刊に出ていた事故のニュースについてです」
「といいますと。どこの新聞ですか」
「私が見ているのは毎朝新聞で、社会面です」
「ああ、それなら家も同じです。ちょっと待っていてください。新聞を持ってきますから」
 二、三分の間待たせて、市川は社会面を広げながら受話器を耳にあてた。
「お待たせしました。ええっと、どの記事かな」
「左下の方に、『榛名湖で一酸化炭素中毒死』という見出しがあると思いますが」
「ああ、わかりました。ちょっと、目を通しますので」
 その記事は、群馬県の榛名湖でワカサギ釣りをしていた男が、氷の上に張ったテントの中で死亡しているのが見つかったというものである。亡くなったのは、横浜市戸塚区に住む会社員、池上秀男(55才)で、前夜から伊香保温泉に宿泊し、早朝から一人榛名湖に来て、テント、火鉢、ドリルなどワカサギ釣り用具一式を借り、密閉されたテントの中で釣りをしていて、炭火の不完全燃焼による一酸化炭素中毒により死亡したものと思われるという短い記事であった。
「で、この事件が何か」
「そこに出ている池上秀男さんという方は、前に少しお話しましたが、父が亡くなった後、いろいろと面倒を見ていただいた、会社の部長さんです」
「ああ、そうですね。思い出しました」
「それはそれだけなのですが、父の死因と同じ一酸化炭素中毒ということが気になりました。そして、話が前後しますが」
「いえ、かまいません」
「今日、池上さんから私宛に手紙が届きました」
「どんなことが」
「はい、短いものですので、今、読んでみます。

根本絵美様
皆様、寒さ厳しき折、お元気でお過ごしですか。お母様の具合はいかがですか。
さて、絵美様におかれましては、お父様の死に疑問を抱かれ、なにか動かれているようですが、お父様の霊が静かに天国に昇られる様、静かに見守られるのがご家族の幸せになるのではと思います。
 皆様には受け入れがたいことかも知れませんが、お父様は自殺されました。
 ○月○日 池上秀男

 以上です」
 市川は、絵美が手紙を読み終えると、市川が言った。
「なんとなく、脅迫している様にもとれますね。絵美さんが私に相談されていることなど知っているようだ」
「ええ、それにこの手紙は父は自殺ではないということを敢えて言っているように思えてなりません」
「そうですね。手紙を貸してもらえますか」
「分かりました」
「後、お父さんの遺品の中に、日記とか手帳があったら、それもいっしょに。明日、知合いの警察の人間に話しをしてみます。絵美さんは、いつも通りにしていて下さい」
「わかりました。よろしくお願いします」
「では、夕方会社の方へ、手紙を受け取りに寄ることにします」
 市川は電話を一旦切ると、直ぐに十返舎に電話を入れ事情を話した。

         六

 関内の天麩羅屋の個室に、十返舎と市川は肩を並べて座った。今の季節、天麩羅の素材は意外と少ない。それでも、宍道湖で水揚げされた白魚をかき揚にしたもの、榛名湖のワカサギ、季節には少し早い蕗の薹などが出された。
 市川は、事の成り行きを掻い摘んで説明した。
 同時多発集団自殺で知合いの根本正という男が自殺、長女の根本絵美から父親は自殺したとは思えないと相談を受けた。理由は父親が自殺するような性格の人間ではないということの他に、三浦半島で死んだ四人の内、一人だけが睡眠薬を飲んでいたこと、自殺サイトに振り込んだ20万円の出どころが分からないこと、葬儀など父親の死が極端に秘密裏にされ、家族が今でも誰かに監視されているような気がすることなどである。
 市川は、新聞記事の切り抜き、一通の手紙のコピーそして一冊の手帳を十返舎の前に置いた。
 じっと聞いていた十返舎が口を開いた。
「あの事件については、直接の担当ではなかったが、捜査一課で検死を行い自殺として処理した。自殺幇助容疑の自殺サイト関係者は、警視庁が扱っている」
「それで、次にこの新聞記事なんだが」
「これは、ワカサギ釣りのテントの中で一酸化炭素中毒で死亡したという昨日の記事かな」
「そうだ。問題は死んだ池上秀男というのは、絵美さんのお父さん根本正の会社の上司だ。父親が死んだ後、親身になって世話をしてくれたと言っていた」
「この事故とどんな関係が」
 十返舎の問いに、市川は手紙を渡した。
「これは池上から根本絵美さん宛に昨日届いた。ちょっと読んでくれ」
 十返舎は手紙を読み終えるとちょっと考えた上呟いた。
「んー、何ともいえないが脅迫状のようにも受取れるな」
「それで、十返舎に相談したんだ」
「それで、この手帳は」
「絵美さんから借りてきた根本正の昨年の手帳だ。まだ中は見ていない。日記みたいなものは付けていなかったと言っていた」
「随分と用意がいいな。これでは、根本正の死について再捜査しないわけにはいかないな」
 十返舎は、市川の顔を見ながら、半分呆れ顔で言った。
「いや、すまん」
「これは中を見てもかまわないか」
「もちろん」
「生前は随分と忙しかったようだな。会議とか、訪問で予定がびっしりだ」
「近所に住んでいたときも、温厚で真面目な人だった。絵美さんは家の次男と同級生だ。絵美さんや入院してしまった奥さんの気持ちを晴らしてあげたい」
 市川の頼みに、十返舎は応えた。
「わかってるよ」
 十返舎は市川の頼みがなくても、根元正の死の真実を明らかにしなければならないと、とっくに胸の内で決めていた。
 捜査一課長に了解を貰うと、他の事案を抱えながらであるが、昨年の春に鎌倉署から転勤となり、十返舎の元で動いている滝沢刑事と二人で捜査を開始した。

         七

 その日の午後七時から横浜市戸塚区の斎場で、池上秀男の通夜が営まれた。十返舎と滝沢は黒のネクタイを島牧巡査に出してもらうと、地下鉄の関内から戸塚に向った。
「池上の事故死は、根本の自殺と何かつながりがあるのですかね」
 滝沢の問いに、十返舎が応えた。
「まだ、これからだ」
「ええ、自分が一つ気になっていることがあるんですが」
「どんなことですか」
「二人の死因です。自殺と事故死ですが二人共一酸化炭素中毒、しかも二人が勤務していたのはガス器具のメーカです」
「確かに滝沢さんに言われてみればそうです」
「それに、タニイ工業とガス器具のシェアを争っているP工業では、ガス湯沸器の不完全燃焼による一酸化炭素中毒が社会問題となっています」
「そうですね」
 会話はここまで、地下鉄が戸塚駅に着くと、二人は歩いて斎場に向った。
 斎場入り口から、タニイ工業代表取締役社長、役員一同、サービスセンタ一同、取引先と思われる会社名などの多数の花輪が、受付まで並んでいる。会社が取り仕切っている葬儀の様で、礼服に身を包んだ社員が要所に配置され弔問客を慇懃に案内している。十返舎はその中の一人に声をかけ警察手帳を見せて、受付に根本という人が来たら声をかけるように頼んだ。
 受付係りの合図を受け、女が焼香を済ませ、お清め所に寄って戻って来るのを待って、声をかけた。
「あの、根本絵美さんですか」
「いえ」
 女は曖昧な返事をした。十返舎は、この時女の顔に走った動揺を見逃さなかった。
「神奈川県警の十返舎といいますが」
「人違いです」
「それは失礼しました。済みませんでした」
「いえ、それでは」
 と言うと、女は出口に向って歩き始めた。
「滝沢さん」
「わかりました」
 滝沢はその女の後を追った。
 十返舎は、二、三人後を歩いてくる女に同じように声をかけた。
「あの、根本絵美さんですか」
「はい、根本ですが」
「神奈川県警の十返舎といいます」
「お名前は市川さんから聞いております。この度は無理なお話をしまして申し訳ありません」
「いえ、だいたいの話は市川から聞いているのですが、少しお話を聞かせてもらえますか」 
 十返舎はしばらく待つように頼むと、お焼香の列に並んだ。祭壇には、花輪と同じ様に社長、役員をはじめ取引先会社の名札がついた生花が溢れていた。遺族席には、五十前後の奥さんと思われる女性、二十才位の礼服の男性、高校の制服を着た男性等家族の他に、親族、会社の幹部と思われる人達が並んで座っていた。お焼香を済ませ待ってもらっていた根元絵美と歩きながら話はじめた時、携帯電話の呼び出し音が鳴った。滝沢からで、女は地下鉄の関内駅で降りると、常磐町にあるマンションに入ったという。郵便受けから部屋番号と佐橋という苗字が確認できたとの報告で、本部に戻るというものであった。
 改めて絵美から聞いた話は市川からの情報と違いはなかったが、証拠はないものの、父親は自殺ではないと強く思っていることがよくわかった。十返舎と別れる時に絵美はこんなことを言った。
「葬儀は大きければ良いというものではありませんが、多くの人に見送られる方が」
 十返舎は言葉に詰まったが、
「人数ではなくて、見送る人の心だと思います。今夜の葬儀の参列者は、ほとんどが取引先ですから」
 と訳のわからないことを言って絵美と別れ、滝沢が待つ県警本部に向った。

         八

 県警本部に戻った十返舎は滝沢刑事と夜遅くまで、同時多発集団自殺事件、特に根本正に関する捜査記録を入念に検討した。
 先ず、自殺の動機について、遺書めいたものは何も出てきておらず、根本正の家族は仕事のことで悩んでいたようだと言っているが、会社の上司である池上秀男や同僚は仕事は順調でトラブルは何もないと答えている。家族と会社で話に食い違いがあるものの明解な自殺の動機は不明のままとなっている。県警では、死亡の状況から自殺と断定したと記されていた。
「滝沢さん、この動機の点についてどう思いますか」
 十返舎は、立場上は部下でも、たたき上げの年上の滝沢刑事を先輩として接している。滝沢にとっては、数々の難事件を解決してきている十返舎警部は憧れの的で、今はいっしょに仕事を出来ることを誇りに思っている。
「警部、県警の判断は妥当だと思いますが」
「自分もそう思います。ただ」
「ただ、会社が根本正の死をひた隠しにしたりしたことを考え合わすと、池上も同僚も口裏を合わせているようにも思えます」
「滝沢さんもそう思いますか。別の角度から、動機の点を調べてみましょう」
 次は、自殺サイト『天国への道』との関係である。根本正の自宅にあるパソコンおよび会社で使用しているパソコンからは、自殺サイトへのアクセス記録は見つかっていないが、メールサービスを提供するプロバイダのログには、根本正のメールアドレスとサイト運営者が用意したメールアドレスとの間の送受信記録が残っており、自殺さサイトからの20万円の振込み指示、根本正からの振込み完了の連絡、サイトからの決行日の連絡や待ち合わせ場所の連絡の記録が残っていた。
「滝沢さん、このあたりは自分は苦手なんですが」
 という十返舎に対して、滝沢は申し訳ない顔をして、
「すみません。私も全く」
「そうですね。島牧巡査はまだ残っているかな」
 滝沢はあたりを見回して、帰り支度をしている島牧巡査を見つけると、
「島牧くん、ちょっと」
 と声をかけると、島牧巡査が二人のところへ来ると、
「はーい、何か。寒いのでおでんにでも誘って頂けるのですか」
「うん、分かった。おじさん二人と一緒でもよければ付き合うよ」
「まあ。うれしい」
 と笑顔で答えると、直ぐに真顔になった。
「ここのメールのやり取りのところなんだが」
 と十返舎は資料を示した。
「根本正が自殺とされた理由の一つが、ここにあるメールのやり取りなんだが」
「そうですね。根本正のメールアドレスと自殺サイトが用意したアドレスの間のメールのやり取りですね」
「何かおかしいところはありますか」
 十返舎の問いに、島牧巡査はちょっと考えた上で答えた。
「根本正に代わって、別の人が根本正のメールアドレスを使ってやり取りすることも」
「それは」
「はい、根本正のメールアドレスはメールのやり取りをすれば直ぐにわかります。後はパスワードが分かれば、根本に代わって」
「パスワードというと」
「警部も滝沢さんもメールを使う時にはパスワードを入れますよね」
「いや、そんなことは」
 十返舎の答えに、島牧巡査はちょっと怒った顔をして続けた。
「それは、最初にメールを使った時にパスワードを記憶させて置いたから、二度目から入れる必要がなくなっているんです」
「そうですか」
「ただ、他人が警部や滝沢刑事のパソコンを勝手に使って、メールのやり取りをすると、あたかも警部や滝沢さんがメールをやり取りしたと見えます」
「ということは、根本正のパソコンを誰かが勝手に使った」
「そういうこともありますし、以前はパスワードの扱いがルーズでした」
「例えば」
「そうですね。パスワードを生年月日にしていたり、パソコンの画面にパスワードを書いた紙を張っていたり、皆で同じパスワードを使ったり、それに何年も同じパスワードを使ったりしていて、何のためのパスワードか分からないことがありました」
「そう言われると頭が痛い」
「しかし、今は違います。パスワードの文字数を8文字以上と決めたり、3ヶ月に一度は変更しないといけないようにしたり、いろいろと対策がとられています」
「というと、誰かが根本に代わってメールをやりとりすることは不可能に」
「いえ、そんなことはありません。いたちごっこの様なことになりますが、いろいろとパスワードを盗み出す手はあります」
「そうですか。これ以上は頭がこんがらかってしまいそうです」
「はい、私もこれ以上のことは」
 十返舎は話をここまでにして、明日、警察庁IT犯罪対策室への同行を島牧巡査に依頼した。
「滝沢さん、今夜はこれ位にして、おでんに行きましょう。島牧さん」
 三人は、ライトアップされた三塔、キング、クイーン、ジャックを背に、コートの衿を立てて、野毛の入り口にあるおでん屋に向った。
 その店は、先代が戦後の闇市から屋台でおでん屋を創め、今では数階建てのビルにお店を構える横浜の隠れた名店である。一週間以上煮込んだと思われる汁の滲みこんだ大根は絶品である(作者注:ちょっと高い、おでんと焼酎は安くなければ)。

         九

 翌日十返舎と滝沢の二人は、早朝から事件の日の根本正の足取りについて捜査記録の読み直しを行った。
 その日の朝、根本正は普段と変った様子はなく、奥さんに見送られて出社している。仕事場の何人かの同僚の話しでは、会社ではいつもと同じ様に変った様子もなく仕事をしていたという。そして、退社時刻になって、同僚の一人と千葉駅に向かい、そこで別れたという。この時も特に変った様子はなかったという。
 そして、その後の行動は、自殺サイト『天国への道』の運営者で、自殺幇助教唆と自殺幇助の容疑で逮捕、起訴されている大学の助手をしていた男、角井康男(37才)の供述によるものである。この角井という男は三浦半島の集団自殺では、サポータの役割も果たしている。
 角井は、集団自殺した25才の男から事前に手に入れた免許証を使って、午後2時頃、横浜市内のレンタカー営業所で白いワンボックスカーを借りている。これは裏づけがとれていて、店員は提示された免許証を確認したが別人のものであるとは気付かなかったという。その後、保土ヶ谷にあるホームセンターで、携帯ガスコンロ、ガスボンベ、練炭火鉢、練炭を購入し、車に積み込んで約束の時刻になるのを待ったという。
 先ず、夜9時、品川駅で約束した根本正をピックアップし、横浜駅に向かった。二列目の座席を後ろ向きにして向かい合わせにしておいた三列目の座席に座った根本は、しばらくすると車を運転する角井に、睡眠薬を飲んでもいいかと聞くので、「お好きな様に」と答えたという。どの位の量を飲んだかは不明であるが、後の三人をまとめてピックアップする横浜駅東口に着いた時はウトウトとして、三人を紹介している時も寝ているようであったという。
 角井は、集団自殺志願者の4人を乗せたワンボックスカーを京浜急行の三浦海岸駅まで運転すると、キーを25才の男に渡し、自らは京浜急行で横浜駅へ行き、横浜線で八王子に戻ったという。取調べ段階では、練炭の火の起こし方とワンボックスカーを停める場所をカーナビにセットしたと供述していたが、裁判では、それを否定しているという。自殺幇助教唆の罪は明らかであるが、ただ車を運転して、自殺の道具を用意しておいただけで、自殺幇助の罪にあたるかどうか裁判所の判断が待たれているところである。
 一通り捜査記録を読み終わると、十返舎が口を開いた。
「滝沢さん、どこか引っかかるところはありますか」
「そうですね、自殺幇助の罪になるかどうかは興味がありますが」
「根本が千葉駅で同僚と別れたのが、確か」
「午後6時頃です」
「角井が根本を品川駅でピックアップしたのは午後9時ですね。千葉駅から品川駅まで、いろいろなルートがありますが、どんなにかかっても1時間です」
「すると残りの2時間、根本は何をしていたのか」
「滝沢さんだったら、死ぬ前に何をします」
「まだ、死のうと思ったことはないので。私だったら、死のうかどうか迷って、山手線を回っているかも知れません」
「この空白の2時間を調べる必要がありそうですね」
 十返舎の論理的な思考に感心して、滝沢は頷いた。
「分かりました。警部は、根本の手帳を借りてこられていると思いますが」
「これですが、その日の予定は、午前中は課会、午後は1時から4時まで、品質対策会議となっています。夜の欄には、KYと書いてあるだけですね」
「KYって何のことでしょうか」
 十返舎は、少し考えて言った。
「去年の流行語になったKYで空気を読めないということではないだろうし,それとも角井のK、康男のYでKYかな」
「そうかも知れませんね。でも、角井は自殺志願者に対して本名を明らかにしていたのでしょうか」
 時計を見ると、島牧巡査と約束していた時刻になっていた。三人は警察庁IT犯罪対策室に出向き、パスワードを盗んで他人になりすます方法について尋ねた。
 銀行のATMにカメラを取り付けて盗み見する方法は、よく知られている。パソコンを操作している人の肩越しから盗み見する方法、システム管理者に本人を装って電話をかけ「パスワード忘れちゃったので教えて」と言って聞き出すこと、それに一番厄介なのは、システムの開発する人や保守、管理する人は、その気になれば簡単に他人のパスワードを知ることが出来ることなどを教えてくれた。パスワードによるセキュリティの限界を克服するため、ここ数年の間に、指紋認証、静脈認証、虹彩認証など人間固有の特徴を利用した認証方法が普及してきているとの話であった。根本正の件についても、他人が根本のメールIDとパスワードを使って根本になりすまし、メールをやり取りした可能性は十分にありうるという話であった。

         十

 榛名湖での池上秀男が変死した事件について、渋川署は一酸化炭素中毒による事故死と断定、現在、最終的な捜査記録のまとめ中で、十返舎は、出来次第写しの送付を依頼した。また、根本絵美から預かった根本正の手帳からも、事件当日の夜の欄に記されたKYというアルファベットの他は、何も浮かんでこなかった。
 十返舎と滝沢は、根本正の自殺の動機、事故死または他殺の可能性、事件当日の空白の2時間、そしてKYが意味することの解明に取り掛かった。
 根本正の自宅のある千葉市郊外の住宅街は、ここ十数年の間に開発が進んだ東京のベットタウンである。ご近所の話では、根本正はご近所付き合いもよく、町内会の行事などにも進んで参加する明るい家庭であった。従って、ご近所とのトラブルは一切聞いたことがないという評判の一家であったという。
 家族の間に何のトラブルも見受けられない上、根本正の両親や兄弟、また奥さんの両親、兄弟との間にも何のトラブルもなかったようである。
 つぎに根本正が勤めていた会社の上司、同僚への聞き込みでも、人間関係のトラブルや仕事上のトラブルは何もなかったと口を揃えて話した。そんな中で、根本正が死んだ後、昨年の暮れに会社を退職した男から、会社の従業員からの話とは正反対の話が飛び出してきた。男は、相馬一貴(33才)で、千葉駅近くの珈琲店で話を聞くことが出来た。
「お忙しいところ済みません」
 十返舎と滝沢が話しを切り出すと、相馬は皮肉っぽく、口元に笑いを浮かべて言った。
「失業中ですから暇ですよ。何時間でも構いませんよ」
「そうですか。相馬さんは、昨年の暮れにタニイ工業を退職されていますが、どんな理由で」
「一身上の都合っていうやつです。会社の勤労に退職願にそう書くよう言われました」
「書くよう言われたというと」
「いや、一身上の都合というのは、自己都合で退職する場合すべてに当てはまる。会社都合というと、退職金などが自己都合に比べて数倍になりますので、どんなケースでも一身上の理由と書かせるのでしょう」
「今日は相馬さんが退職される前に亡くなった根本正さんについてお伺いしたいのですが」
「ええ、なんでもいいですよ」
「会社の人に聞きましたが、仕事上のトラブルや人間関係のトラブルは何もないと言っていましたが」
「それは。それは会社が緘口令を出して、口裏を合わせているからです」
「と言うと」
 十返舎の問いに、相馬は口をまげ笑いを浮かべて言った。
「実は会社を退職するとき、会社で知りえたことはすべて秘密裏にし、口外しないという誓約書を書かされています。違反したときは退職金を返納することになっています」
「大丈夫です。もちろん秘密にしますので安心して下さい」
「会社よりも十返舎さんを信用します。根本さんは私の上司でした」
「そうですか」
「刑事さんもご存知だと思いますが、昨年来社会問題にもなっているP工業によるガス湯沸かし器の事故です」
 【P工業の事故】
 P工業製のガス湯沸かし器による一酸化炭素中毒で、80年代から21名の人が死亡した。P工業は、82年頃には安全装置部品のハンダが割れる不具合を把握、接触不良を回避するために安全装置の働きを抑制する改造を協力業者に指導した。P工業は当初、改造は協力業者がかってにやったことと責任を回避していたが、昨年になって、ようやく事故を把握していたこと、協力業者の研修会で改造を説明したことを認めた。P工業は200億円を超える事故損失を計上、従業員やパートの解雇、役員の賞与カットなどが続いている。
 【ここまで】
 相馬は続けた。
「ガス湯沸かし器のメーカーはトップシェアを持つP工業、第二位のタニイ工業、他に二、三社あります」
「はい」
「今回のP工業の事故をキッカケに、経済産業省はP工業の指導をした他に、各メーカーに対し、同種事故の調査と報告を求めました」
「新聞で読んだことがあります。確かタニイ工業は一件も同様の事故はないと報告し、タニイ工業製ガス湯沸かし器の安全性をPRして、今年度はシェアトップを目指すとか出ていました」
 十返舎の話に対し、相馬は口をまげ笑いを浮かべた。
「それは真っ赤な嘘です。根本さんと自分達のサービスセンターというところは、お客様がタニイ製品をご使用いただいて、使い方が分からなかったり、故障が起きたり、不具合があったときにご相談いただき、故障不具合であれば修理をする部署です。ですから、P工業のガス湯沸かし器と同じ事故が、件数こそ少ないですが、タニイ工業の製品でも起きていることを一番良く知っています」
「本当ですか」
「ええ、本当です。ただ、違うのは」
「P工業との違いですか」
「タニイ工業では、事故が起きて製品の不具合ではないかとサービスセンターに話が持ち込まれると、多額の解決金を支払って、事故が外部に漏れるのを徹底的に防いできました」
「それでも漏れるのでは」
「いや、被害者は多額の現金を積まれると、100人中100人が会社の誠意を認めて納得します」
「そうですか。誠意がないとよくもめますが、誠意とはお金のことなんですね。ところで、相馬さんは会社を辞められたので、告発してもと思いますが」
「それが人としての正義でしょうが、自己都合で退職したのに、通常以上の退職金をもらっています。会社の誠意を認めたわけです」
「そのことに対し根本さんは」
 十返舎は、根本正の死の要因がそのへんにあると直感した。いっしょに話を聞いて、メモをとっている滝沢も同じであった。相馬はちょっと逡巡した後に口を開いた。
「根本さんも自分も、会社のこのやり方に反対していました。特に、経済産業省から調査、報告を求められた時には、事故を公表したほうが、同種の事故を防ぐ意味からも大切であると主張しました」
「それで」
「上司の池上部長やその上の担当役員の平林専務からは、公表するなという指示がおりてきました」
「そういう経緯がありましたか」
「その一ヶ月位後です。根本さんが亡くなったのは」
「そうですか」
「私は、人の道にも反する会社のやり方に我慢できずに退職しました」
「繰り返しになりますが、それなら内部告発すれば」
 相馬は、情けなさそうな顔になって呟いた。
「私も退職金の割増しに目が眩んでしまいましたので、勘弁して下さい」
「分かりました。良く話しをしてくれました。秘密は守りますから安心していて下さい」
 と十返舎が言うと、相馬は十返舎の顔を覗き込んで言った。
「根本さんは、本当に自殺したんですか」
「それを調べ直しています」
 十返舎と滝沢刑事は、相馬に礼を言って珈琲店を出た。

         十一

 二人は、千葉駅から総武・横須賀線逗子行きの電車に乗ると、車内はガラガラで4人掛けの席に向かいあって座ることができた。
「警部、お疲れ様です」
「いえ、滝沢さんこそお疲れさまです」
 二人はKIOSKで買った350mlの缶ビールのプルトップを空けると、どちらからとなく一寸だけ上にかかげた。
「今日は収穫がありましたね」
 と嬉しそうに言う滝沢に対して、十返舎もビールを一口喉に流し込んで言った。
「そうですね。根本の死について、会社でのトラブルが関係しているのは間違いなさそうです」
「これは、相馬が教えてくれたタニイ工業のガス湯沸かし器の事故のリストになります」
「相馬が覚えている範囲で、この他にも数件あったようですが、だいたいの日時と被害者の名前が分かりますので、これをもとにタニイ工業のガス湯沸かし器事故の調査をすることが出来ます」
「警部、それは分かるんですが、どんな容疑で調べるんですか」
 滝沢は困ったような表情を浮かべて聞いた。
「そうですね。既に事故の被害者に対して解決金が支払われて示談が成立していると考えられますので、難しそうですね」
 十返舎自身もこれをどう扱っていこうか困っていた。しばらくの沈黙の後、十返舎が続けた。
「検察の方と相談してみます。監督官庁である経産省による立ち入り調査という手もあります」
「はい、分かりました」
 横浜駅に着くと二人はそこで別れ、久しぶりに早い時間、といっても7時を回っていたが帰宅することにした。
 翌朝、十返舎が海岸通りの神奈川県警本部に出勤すると、捜査一課長に呼ばれた。
「おはよう」
「おはようございます。何か」
 昨日は早く帰って、ゆっくりと風呂に入り、久しぶりに菜穂子夫人の手料理でくつろいだだけに、気分爽快にいつもより元気の良い声で答えた。
「警部、今日は何かいいことがあったのですか」
「いえ、別に」
「そんなところ何なんだが、相馬一貴が死んだよ」
「ええ、ほんとうですか」
 滝沢刑事も十返舎の声を聞いて、課長席にきた。
「昨夜、9時過ぎに千葉市の自宅近くで乗用車にはねられた。即死で、はねた車は一旦停車したものの直ぐに逃げ去ったという。後続の車の運転手や歩行者ら二、三人の目撃者がいるが、本降りになった雨と暗闇で逃げた車のナンバーは分からず、検問をはって逃げた車を追っているということだ」
「千葉の交通事故が何故」
 十返舎の問いに課長が答えた。
「警部と滝沢刑事の連絡先が書いた紙を持っていたそうだ」
「それで千葉暑は連絡をしてくれたんですね」
「君たちと、そのひき逃げされた相馬という男とは」
「はい、今滝沢さんと二人であたっている同時多発集団自殺で死んだ根本正の件で聞き込みをかけていました。昨日、貴重な情報を聞き出すことが出来たばかりです」
 十返舎は、相馬は誰かに殺されたと思った。滝沢も同じであった。これからの捜査で重要な人物だけにがっかりと肩を落とした。
 地検と経産省に寄って、それから千葉署に行ってきますと言って、二人は飛び出して行った。
 タニイ工業のガス湯沸かし器の事故の調査は、経産省が監督官庁として行政調査を行い、検察はしばらくは調査を見守るということで落ち着いた。
 千葉署の交通課では、まだ逃げた車を特定出来ていなかった。十返舎は、故意に被害者をはねた可能性も考慮に入れての捜査を依頼して、捜査経過を見守ることにした。

         十二

 数日後、十返舎の元に相前後して、千葉署から相馬一貴ひき逃げ事故の犯人逮捕の連絡が、渋川署から池上秀男事故死の捜査記録の写しが、そして経産省からはタニイ工業に対する立ち入り調査の一報が届いた。
 千葉署からの連絡では、千葉市内の自動車修理工場に出されていた乗用車のウインカーランプのガラスが、事故現場から採取したガラス片と一致、車の持ち主を追求したところ事故を認めたので、ひき逃げと業務上過失致死の容疑で元暴力団員の男を逮捕、引き続き事故の裏づけ捜査を行っているというものであった。
 渋川署の資料は、司法解剖の結果、テントや練炭火鉢等を貸出した榛名湖の釣り具屋主人の調書、それに前日宿泊した伊香保温泉旅館の従業員の話で構成されていた。
 池上秀男の死亡原因は一酸化炭素中毒死、死亡推定時刻は午前11時前後である。
 釣り具屋の話では、その日の朝、8時ごろに池上は他の客二人と小屋に入ってきて、一人用のテント、練炭火鉢、ワカサギ釣りの道具一式を半日分借りた。いっしょに入ってきた二人も二人用のテント等を借りて、氷に穴を開けるドリルを持ってポイントまでいっしょに行き、それぞれ好きな場所に穴を開け、テントと練炭火鉢をセットした。換気に十分注意するように念を押して小屋に戻ったという。12時前に二人客が上がってきたので、もう一人はと聞くと、知合いではないので分らないという。12時半過ぎに二人客のテントなどの片付けと、一人客の様子を見に行くと、テントの中で池上が倒れているのを発見し、直ぐに救急と警察に連絡した。
 つり具屋を業務上過失致死で立件するかについては検討中であるという。
 つぎに旅館の女将と仲居の話から、前日に来館したときから、早朝榛名湖に出かけるまでの様子が判明した。前日に池上から二名で二泊の予約があり、池上は夕方の5時頃に、二人連れで車で来て、チェックインしたという。宿泊者カードには、池上秀男他一名、住所は東京都渋谷区○○と書かれていたが、該当する住所はなく、池上秀男という名前だけが正しいことになる。女の名前は分らない。夕食のときに給仕をした仲居によれば、夫婦でないことは明らかで、妙にベタベタとしていたという。翌朝は、早くに榛名湖に釣りに行きたいので朝食を早くとのリクエストがあり、6時半頃に食事をして、7時には二人で出かけたという。もう一泊の予定で荷物は部屋に残されていたが、池上のものだけであった。
 いっしょに泊まった女の身元は分かっていないが、旅館のロビーに設置された防犯カメラに池上と腕を組んでいる女が写っていた。間違いなくいっしょに泊まった女であるという従業員の証言がある。資料には、動画から切り出した斜め前と横顔が写った二枚の写真が添付されていた。
「旅館を出るときは二人で釣りに行くといっていたのが、榛名湖の釣り具屋にきた時は池上一人、女はどうしたんでしょう」
 十返舎は、二枚の写真を取り上げながら滝沢に向って言った。十返舎は滝沢刑事といっしょに仕事をするときはいつも滝沢の意見を先ず聞くようにしている。
「そうですね。寒いので車の中で待っていたのか、あるいは榛名湖に向うときに、JR渋川駅あたりで車から降りて電車で一人帰ったのか」
「いずれにしても気になりますが。この顔何処かで見たことありませんか」
 十返舎はもう一度写真を覗き込んで、滝沢に渡した。
「警部、この女は池上の通夜のときに、根本絵美と間違えて声をかけて女です」
「自分もそう思います。確か」
「通夜の後、関内常磐町のマンションに入っていった、郵便受けから佐橋という苗字ではないかと思われる女です」
 一つの手がかりを得た二人は、続いて経産省の立ち入り調査の資料の検討に入った。
 資料には、タニイ工業がガス湯沸かし器の事故を認め謝罪したこと、7件の事故の報告(発生時期、事故概要、簡単な事故原因、被害者の住所、氏名、示談書等)、詳細な事故報告と対策について1ヶ月以内に再度報告する予定であることが含まれていた。
「警部、明日、常磐町のマンションに行ってみましょう」
「それにタニイ工業ガス湯沸かし器事故の被害者と根本正および池上秀男の間に何かないか調べる必要があります」
「忙しくなりますね」
「それに、ひき逃げ事故の裏についても。課長に応援を頼みますので、滝沢さん、大変ですがよろしくお願いします」
 十返舎は、自殺あるいは事故死と断定、そして交通事故として捜査されている三つの事件、根本正の自殺、池上秀男の事故死、そして相馬一貴のひき逃げ事故死が、一つの螺旋のように繋がっているのではと考え始めていた。

         十三

 十返舎と滝沢は、関内常磐町のマンションを訪ねた。管理員の話では、住んでいたのは佐橋という名前の三十前後の女で、何でも関内の高級クラブのママで、午後になると美容室に出かけ、夕方には粋な着こなしの着物姿で出かけていたという。十返舎が訪問したいと管理員に言うと、一時間ほど前に出かけ、二、三日留守にするので、新聞を片付けておいてと頼まれたという。管理員は行き先は聞いておらず、また高級クラブの名前も知らなかった。十返舎と滝沢は、暗くなるのを待って、佐橋がママをしているという高級クラブを探すことにした。
 タニイ工業ガス湯沸かし器事故の被害者の遺族に会って話しを聞いていた鶴居刑事から、報告が県警本部に戻った十返舎に入った。
 被害者の遺族は、既に示談が成立しいて、今後事件を封印する旨の誓約書を書いていることから、口が固く、事件について話を引き出すことは容易ではなかった。そんな中で、タニイ工業の対応が明らかになってきた。事件が起きたとき、まず、サービスセンターの根本正が対応窓口となり、示談の交渉になると池上秀男が顧問弁護士を伴ってあたり、最終的な決着のときは、専務の平林光行が出てきたという。解決金の決め方は、アタッシュケースに詰め込んだ100万円単位の束を面前に積み上げ、被害者遺族が唖然としている間に、示談書に実印を押させてしまうといったやり方であったという。解決金の金額も相応のもので、後から不満に思うようなことはなく、タニイ工業の誠意が十分に伝わるものであったという。
 鶴居刑事は続けて、
「ちょっと気になることがあるので、うろ覚えなものですみません」
「どんなことですか」
 十返舎は、長い間自分の右腕となって働いている鶴居刑事を信頼している。何か掴んだと直感した。
「解決金の額なんですが。三年前の事故の被害者遺族から見せてもらった示談書には、3,000万円とあるんですが、昨日見せてもらった経産省の資料には、4,000万円となっていたような気がするんで」
「今、資料を出しましたので、被害者の名前を言ってもらえますか」
「はい、細井勇三です」
「経産省の資料には、4,000万円となっています」
「本当ですか。誰かが中抜きした」
「多分、部長の池上秀男か、専務の平林光行」
「他の6件の事故についても、調べましょうか」
「頼む」
 十返舎は鶴居刑事に言うと、鶴居が続けた。
「分りました。それにもう一つ、気になる名前が出て来ました。
「まさか、佐橋という名前では」
 十返舎はかまをかけたつもりで言ったのだが、鶴居が反応した。
「警部、そのまさかです」
「ほんとうですか」
「ええ、二年前の事故です。横浜市神奈川区白楽のアパートに住んでいた大学生の久保田哲、当時21才が、タニイ工業製ガス湯沸かし器によると思われる一酸化炭素中毒で亡くなっています。経産省の資料にも出ていると思いますので」
「ああ、ありました。埼玉県所沢に母親が住んでいて、示談書に判を押しています」
「ええ、それで所沢に行って母親に話しを聞いたところ、久保田哲の上にはお姉さんがいるそうで、哲の大学の学費や生活費は姉が面倒を見ていたそうです。母親が、積まれた現金に目が眩み、池上や平林の言いなりになって示談書に判を押したことに対し、母親は姉から厳しく叱られたそうです」
 鶴居の話のちょっとした途切れに、十返舎は待ちきれないように言った。
「その姉の苗字が佐橋」
「そうです。佐橋洋子といいます。離婚していますが、結婚していたときの姓を使っているそうです」
「ガス湯沸かし器事故の被害者遺族の一人でしたか」
「母親に示談書を見せてもらおうとしましたが、佐橋洋子が昨年の秋頃に来て持っていっているそうです」
「解決金の金額は」
「母親ははっきりしたことは言いませんでした」
「分りました。そうすると解決金の金額というと、後5件になりますか。鶴居さん、お疲れでしょうがよろしくお願いします」
 十返舎と鶴居の長い電話のやり取りはようやく終わった。いっしょに聞いていた滝沢も思いがけない進展に思わず、
「根本正の手帖に書かれたKYは、久保田洋子」
 と言って十返舎の顔を見ると、大きく頷く自信に満ちた目が光っていた。

         十四

 佐橋洋子がママをしている高級クラブは直ぐに見つかった。従業員の話では、暫く旅行に行くからと行く先は言わずに後を頼んでいったという。チーママから聞いた番号に電話したが、電波の届かないところとの機械的なアナウンスで繋がらなかった。
 翌日、県警本部では十返舎と滝沢それに鶴居が集まって、鶴居刑事が持ち帰ったタニイ工業ガス湯沸かし器事故の被害者遺族が受取った解決金の額と経産省から入手したデータを電卓で叩いていた。
「7件の内、遺族が受取った金額がはっきりした6件について、合計で1億3千万円の開きがあります」
 鶴居が電卓を見せて言った。
「根本正は、このからくりを知ってしまった」
 十返舎が呟くように言ったとき、
「警部、根本さんという方からお電話です」
 と島牧巡査の声が聞こえた。
 根本絵美は、同時多発集団自殺という前代未聞の事件で、自殺幇助教唆および自殺幇助の罪で起訴された角井康男の初公判を東京地裁で傍聴した。
「十返舎さんですか」
 絵美の声は上ずっていた。
「十返舎ですが、どうかしましたか」
「いえ、お忙しいところすみません。今、東京地裁に来ています」
「今日は、同時多発集団自殺事件の角井康男の初公判でしたね」
「ええ、それで」
「何かありましたか」
「裁判を傍聴するのは初めてで良く分からないのですが」
「大丈夫です。何でも言って下さい」
 十返舎の言葉に安心した絵美は裁判での出来事を話した。
「まず検事さんが、角井康男が自殺サイトを運営、18人の自殺志願者を募集し、集団自殺を遂行させる手順を同サイトを通じて募集したサポータに教唆、三浦海岸での集団自殺では自らサポータの役割を担ったと、起訴状を読み上げました」
 絵美は、少し間をおいて続けた。
「その後、罪状認否というのですか、裁判官が検察の起訴事実を認めるかどうか、被告の角井康男に聞くと、「一部事実とことなります」と」
「一部と言うと」
 十返舎が話しを促した。
「その後の裁判官の質問に対して、父のことを話し出しました」
「どんなことですか」
「はい、三浦半島の事件では当初5人の自殺志願者がいたそうです。最初に品川駅で父の根本正ともう一人の男をピックアップ、横浜駅へ着くと、その男は「気が変った。これでなかったことにしてくれ」と、200万円の札束の入った封筒を渡したそうです」
 十返舎は絵美の話に聞き入った。
「その時お父さんは」
「途中で睡眠薬を飲んだらしく、ぐっすりと眠り込んでいたという話です」
「それで、法廷は」
「弁護士は角井の話をやめさせようとしていましたが、裁判官が検事と何か話して閉廷を告げました。満員の傍聴席はざわめいていました」
「それは、もし横浜駅で降りたという男が、お父さんに無理やりあるいは騙して睡眠薬を飲ませ、その後に起きる集団自殺の一人として死ぬことを予期していたら、角井康男は自殺幇助の罪だけではなく、嘱託殺人の罪に問われることになるかも知れません」
「それで傍聴席がざわめいていたのですね」
「お父さんは自殺ではないという絵美さんの言うことが証明されるかもわかりません」
「そうですか。よろしくお願いします」
 絵美の言葉に答えようとしていた十返舎に島牧巡査が「課長が呼んでいます。地検から連絡」と書いたメモ帳を見せた。
「失礼しました。角井について調べ直すことになりそうです」
「ありがとうございます」
「まだ悪い奴は捕まっていません。ご家族を含め周囲には十分注意して下さい」
 十返舎は電話を切ると、いっしょに聞いていた滝沢、鶴居と課長席に急いだ。

         十五

 宮崎のフェニックスカントリークラブ・ハイビスカスコースのアウト1番ホールのティグランドには、タニイ工業の平林専務、宮崎支店の支店長に女性二人のパーティがスタート順を決めるくじ引きをしていた。平林は、前日開催されたタニイ工業九州支社の販売会議に出席した後、宮崎支店がセットしたゴルフコンペに参加した。女の内一人は、会議の後、平林に合流した佐橋洋子、もう一人は、西橘通りにあるクラブのママである。
「支店長、混合ダブルスといことで一つ握りましょうか」
「はい、組合せは」
「僕とママのペア対、支店長に、えー、ニシタチのママだ」
「ママが二人ですね。そうだ、専務。どちらかが「ママ」と一回言ったら、一ペナというのはどうですか」
「賛成だ。それでいい、ママ」
「専務、一ペナです」
「もう始まっているのか」
 くじ引きでオナーになった支店長がティグランドに上がり、洋子が平林と二人になった時、
「専務、ダブルスとは別に私たちで握りません」
 と誘った。
「今度は何が欲しいんだ」
「私が勝ったら、そうね、横浜の港の見えるマンション」
「俺が勝ったら」
「何が欲しい。私の肉一ポンドでどう」
「何かブェニスの商人みたいだな」
 洋子が手を差し出して握手、ティショット三番目の平林がティグランドに上がっていった。続いて、洋子がティショットを打ち終わると、4人は南国の春の太陽が降り注ぐフェアウェイを第二打地点に向った。
 勝負の結果は、ダブルスは支店長ニシタチ組の勝ち、平林と洋子の戦いは平林の勝ちとなった。コンペのパーティが終わると、洋子はゴルフ場に乗ってきたレンタカーで、少しお酒の入った平林をドライブに誘った。サボテン公園の近くを少し山の方へ入った高台の原っぱに夕日を背に車を停めた。遠く日向灘を望む南の海はキラキラと輝いていた。
 洋子は助手席の平林にしなだれかかるようにして、甘い声を出した。
「負けちゃった。私のどこの肉が欲しい」
「何処って。全部」
「約束は一ポンドよ。全部だと、100ポンド以上になっちゃうけど」
「お釣りはマンションで払うよ」
「ほんと。うれしい。昨日の夜、やっと二人になれたので、マンションのお礼を先払いしておこうと思っていたのに、直ぐに寝てしまって。寂しかったわ」
「すまない、すまない。例の事故の件でいろいろと忙しくて」
 洋子は、脇のバッグから魔法瓶を出すと、
「クラブハウスでコーヒーを入れてもらったの。飲む」
「うん、もらおうか」
 平林は、洋子から手渡された魔法瓶の中ふたに入った熱いコーヒーを啜った。
「事故って、もともとはP工業の製品のガス湯沸し器でのことですか」
「もうばれちゃったけど、うちの製品でも事故が起きていたんだ。だけど隠してきた」
「平林さんも関係していたの」
「まあ、でもどうしてそんな事を聞くの」
 平林は生あくびを始めた。
「解決金は全部でいくら掠め取ったの」
「どうしてそんなことを」
 洋子には、平林の目がトロンとしてきた様に見えた。
「一酸化炭素中毒で死ぬのって苦しいの」
「………」
 平林は頭をうなだれ、かすかに寝息をたて始めていた。
 洋子は車から降りると、トランクに隠しておいたジャバラのホース取出し、マフラーに繋いでガムテープで固定した。ホースの一方の端を後部座席の窓ガラスに挟み込んだ。そして窓ガラスの隙間をガムテープでしっかりと目張りをし、後部ドアをロックした。前に回り、運転席のドアを開けて、キーに手をかけた時であった。平林の右腕が洋子の首に巻きついてきた。
「お前にやられるような男じゃない」
 と言った声を遠くに聞いた様な気がした。
 どの位の時間が経過したか。何十年もたっているようで、数分しかたっていないようでもあった。
「佐橋さん、洋子さん」
 十返舎の呼びかける声に洋子が目を開くと、夕日の最後の光が大海原に輝いた後、海は漆黒の闇となった。
 平林専務の行く先を会社から聞き出した十返舎は、滝沢と共に宮崎に飛んだ。ゴルフの後ドライブに出かけたという二人の乗るレンタカーを宮崎県警の協力で見つけだすことが出来、殺人を未遂で済ますことが出来た。

         十六

 逮捕、起訴された平林光行と佐橋洋子の供述と裏付け捜査の結果、事件の全貌が明らかになった。
 二年前、横浜市神奈川区白楽のアパートに住んでいた大学生の久保田哲が、タニイ工業製ガス湯沸かし器による一酸化炭素中毒で亡くなったことから始まっていた。タニイ工業では、当初サービスセンターの根本正が対応、示談交渉は部長の池上秀男と最終的には専務の平林光行があたり、埼玉県所沢に住む母親に示談書に判を押させた。それを後から知った久保田哲の姉の佐橋洋子は、形振り構わず金で解決しようとしたタニイ工業に激怒したが後の祭りであった。
 昨年の夏、P工業製のガス湯沸かし器による一酸化炭素中毒事故が社会問題となったとき、経産省からの同種事故の調査に対して、タニイ工業は一件も同様の事故はないと報告し、タニイ工業製ガス湯沸かし器の安全性をPRして、今年度はシェアトップを目指すというニュースが流れた。
 これを知った佐橋洋子は、タニイ工業の窓口となった根本正に会って、何故事故を公表しないのかと迫った。根本正は部長や専務に事故の公表を具申しているが却下されていること、被害者遺族に支払われた解決金と社内決済の額に差があることを調べているので少し時間が欲しいと話をした。
 集団自殺のあった日の七時頃に、佐橋洋子が根本正に会うと、根本は、平林と池上による解決金の横領は間違いないという証拠を掴んだといい、これから平林と池上に会うということであった。
 平林と池上は共謀して、ガス湯沸かし器事故の被害者遺族への解決金を横領することを計画、稟議書へ添付する示談書を改ざんし、7件で計1億5千万円を着服した。昨年の秋このことを部下の根本正に知られると、根元正を自殺に見せかけて殺すことを計画した。IT戦略本部の本部長を兼務していた平林は情報システム管理者から、根本正のIDとパスワードを聞き出すと池上に伝え、池上は自殺サイト「天国への道」へアクセス、自分のIDと根本正のIDで自殺志願し、別々に20万円づつの参加費用を振り込んだ。
 根本は、佐橋と別れた後に品川駅で池上と会い、二人は迎えに来た自殺サイト「天国への道」の運営者である角井康男の運転するワンボックスカーに乗り込んだと思われる。横浜駅に着いた時、根本が眠っていて、もう一人の男、池上が200万円の札束の入った封筒を渡して降りたというのは角井の供述である。角井康男は、嘱託殺人の罪で再逮捕、起訴された。
 佐橋洋子は、根本正が殺されたと直感し、弟の死を無駄にするどころか食い物にして私腹を肥やしている平林と池上を許すことが出来なかった。洋子は関内の高級クラブでママをしていたが、タニイ工業が接待に使う銀座のクラブにホステスとして勤め、平林と池上が洋子に興味を示すと二人を自分のクラブの客として迎えた。
 池上が洋子を温泉旅行に誘ってきた。伊香保温泉の夜は飲みすぎて気分が悪いと池上から逃れた。最初から池上に抱かれるつもりはなかった。つぎの朝早く、ワカサギの穴釣りに二人で出かけたが、まだ気分が悪いと車の中で待った。テントの設営が終わり釣りを始めた頃、コーヒーを入れた魔法瓶を持って池上のところ行き、狭いテントに入ってコーヒーを池上に飲ませた。池上がうとうとし始めた時、テントの換気口となっている布製の蓋を閉め、車から自分のバッグを取り出し路線バスで渋川駅に行った。一酸化炭素中毒で池上が死ぬかどうかは半分賭けであったが、運よく目的を達することが出来た。
 平林光行は、根本の部下で会社を辞めた相馬一貴に警察が接触しているのを知ると、知り合いの暴力団組員に相馬を脅す様に頼んだ。組員から頼まれた元暴力団員は、車で相馬を追いかけ、すんでのところで急ブレーキを踏んで脅しをかけるつもりで、殺す気はなかったということであるが、折から振り出した雨に急ブレーキで車がスリップ、撥ねて死亡させてしまった。元暴力団は、殺人の罪で逮捕、起訴された。
 今度は平林が洋子を宮崎のゴルフへ誘ってきた。洋子はレンタカーを借り、ジャバラのホースにガムテープをトランクに隠して殺害の機会を待った。平林に睡眠薬を飲ませ、排気ガスを車内に引き込む準備をしてキーに手をかけた時、平林の腕が洋子の首を絞めた。平林は、佐橋洋子がガス湯沸かし器事故で死んだ久保田哲の姉であることを知っていて、洋子が池上秀男を殺したのではと疑っていた。今度は、自分の番ではと用心、洋子の動き次第で逆に殺してしまおうと考えていたという。
 平林光行に対し無期懲役の判決が、佐橋洋子に懲役3年執行猶予付きの判決が出たのは、木枯らしが吹き始めたその年の初冬であった。

         十七

 関内の天麩羅屋の個室には、市川章造と根本絵美、それに十返舎と滝沢の姿があった。お花見の季節も近くなると、天麩羅の材料も賑やかになる。海のものでは、キス、穴子にギンポウが、山のものでは蕗の薹、新筍にタラの芽がてんぷら鍋で踊るようになる。
「警部、ひとつ分らないことが」
「なんだ、かんだ、一つ先は御茶ノ水」
 警部は、旧友と若い女性といっしょで、一杯のジョッキでごきげんであった。
「今度の事件では他人がかってにIDを使っていますが、直ぐに分ってしまうのではと思うのですが」
 滝沢が聞くと、十返舎が答えた。
「それは。署に帰って島牧君に聞いてくれるか」
 滝沢も少し酔いが回ってしつこくなっていた。
「警部は分らないのですか」
 と言った時、
「あっ、いいですか」
 と絵美が助け舟を出してくれた。
「本人が朝と夕の二度位しかメールを使用しないのであれば、その間にメールを受信し、受信したメールを削除、また送信したメールはその都度削除すれば、本人が気付くことはほとんどないのではと思います」
 絵美の明快な説明に頷きながら、市川が口を挟んだ。
「絵美さんは、IT企業でお客様の研修教育を担当しておられる。十返舎、いつまでもIT音痴と言っていないで、絵美さんのところで勉強したら」
 十返舎は、
「このタラの芽、ホクホクしていて、美味い」
 と市川の言うことに聞こえないふりをした。

                   おわり

四百字詰原稿用紙換算・111枚

 

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