風雪・本文
鬼無里警部シリーズ 第一話
風雪
ニョッキ ゲタ
一
県警本部の四階にある取調室の鉄格子の窓から、赤レンガ倉庫が見える。現在は横浜観光名所となっていて、明治、大正時代に保税倉庫として使用された建物が、歴史的建築物に指定されている。テレビドラマ「あぶない刑事」のエンディングのロケに使われたことで、全国的に有名になった。昭和の終わりにはその役割を終え放置されていたが、平成十四年に商業施設、公園として整備された。
鬼無里は、少年捜査課の係官と少年の取調べをはじめた。
「名前は?」
「………」
「名前を教えてくれるか」
「………」
「里中亘でいいかな」
「分っているなら聞かないでください!」
「間違いのない取調べをするために大切なことなんだ。歳はいくつかな」
「………」
「十七でいいな」
「………」
「自分の名前と歳を言わないといかんな。鬼無里(きなさ)という少し変わった苗字だ。歳は五十一だ」
「………」
「話たくなければ話さなくてもいい」
「………」
「そうか。いろいろと聞きたいことがある。一方的に話すから、何か言いたいことがあったら、いつでもかまわないから言ってくれ」
「………」
「住所は、横浜市中区山手×××だな。もっとも、最近は家に戻っていないようだが」
「………」
「家族は、父親、母親、妹と亘くんの四人だ」
「………」
「お父さんは有名私立大学の医学部の教授で付属病院の副院長、お母さんは」
「親のことはどうでもいいです」
「そうか。妹さんはお嬢様学校で有名なF学園中等部の二年生だ」
「………」
「亘くんも県内一の進学校のH高校だ。ただ、二年生になってからほとんど行っていない」
「………」
「ここまで間違いないかな」
「………」
「まず、事件の事実関係なんだが」
「………」
「今朝六時前、盗んだ小型ワンボックスを運転、コンビニ店頭に突っ込んだ。店内にいた客と店員の三人をはねとばし、怪我を負わせた。それにいっしょに乗っていた男が意識不明の重体となっている」
「………」
「小型ワンボックスは、事件の五時間前、別のコンビニのパーキングにエンジンをかけたまま駐車していたものを盗んだ」
「………」
「ここまでは事実だ。コンビニ店頭に突っ込んだ直後、ワンボックスから降りてきたところを目撃されている」
「………」
「ワンボックスのドア、ハンドルから君の指紋が検出されている」
「………」
「分らないことが二つある。一つは、運転していたのが君なのか、もう一人の男なのか。もう一つは、運転を誤っての事故なのか、故意にワンボックスを突っ込んだ事件なのかだ」
「………」
「目撃者の話では、道路から左折してコンビニパーキングに入り、スピードを落としたと途端、急加速して突っ込んだという」
「………」
「大事なことなんだ。事故だとしたら業務上過失傷害という罪で、故意にやったとしたら殺人未遂という罪で裁判になる」
「………」
「………」
「………」
「もうすぐ昼だ。午前中はこれで終わりにしよう。食べたいものはあるか?」
「カツ丼」
「分った」
「刑事さん。カツ丼をご馳走になっても何もしゃべりませんけど、いいですか」
「カツ丼には不思議な力があるようで、食べた後、何か話したくなるようだぞ」
「………」
少年は、鬼無里が出前でとったカツ丼をペロリと食べた後、父親が選任したという弁護士と十分程面会した。普通は面会を認めないが、容疑者が少年であることを弁護士が強く主張した。午後の取調べはその後に始まった。
「カツ丼はうまかったか」
「………」
「お父さんがつけた弁護士さんは、凄腕(すごうで)だそうだ」
「………」
「弁護士さんと話はできたのかな」
「………」
「カツ丼の効果はまだのようだな」
「………」
「悲しい知らせが入った。重体だった男が死んだ」
「………」
「まだ、身元が分っていない。君の友達だろう、教えてほしいんだ」
「………」
「………」
「坂上透、磯子の方に母親と」
「磯子のどのあたりか知っているか」
「確か、以前には横プリがあったそばだと言っていたことがある」
「分った」
「透さんはどうして死んだんだ」
「コンビニ店頭に突っ込んだ時、頭部を強打して、脳内出血を起こした」
「俺のせいか」
「これから調べていかないと分らない」
「………」
「透くんとは友達か?」
「うん。友達というより兄貴と思っていた」
「すると、君より年上ということか。いくつか知っているか?」
「歳は同じ十七だ」
「透くんとはどのように知り合った?」
「ザキの裏通りで、喝あげされ、ボコボコになっているところを助けてもらった」
「それから兄貴分として付き合っていた?」
「そうです」
「午前中に聞いたことだが、ワンボックスを運転していたのは、どっちだ?」
「自分です」
「コンビニの店頭に突っ込んだのは、わざとか?それとも運転を誤ってか」
「ブレーキとアクセルを踏み間違えました」
「では、別のコンビニの駐車場からワンボックスを盗んだのは、どっちだ?」
「自分です」
「どうして?」
「昨日は、昼からいろいろあってむしゃくしゃしていて、ドライブに行こうと透さんを誘いました。たまたま、キーが付いたままのワンボックスがあったので盗んで、あのコンビニで飲み物を買おうとして」
「ワンボックスを盗んだのは亘くん、無免許で運転したのは亘くん、ブレーキとアクセルを踏み間違えてコンビニ店頭に突っ込んだのは亘くん、そして、同乗していた透くんを死なせ、店の人に怪我をさせたのは亘くん、で間違いないかな?」
「はい」
「業務上過失致死、傷害、窃盗、無免許運転ということか、未成年でも罪は重い」
「そうですか、仕方ないです。刑事さん、透さんに会えますか?」
「んー、難しいな」
「そうですか」
「今日の取調べはここまでだ。これから、亘くんの話の裏付け捜査だ」
鬼無里は、看守に両脇を押えられて取調室を出ていく里中亘の横顔に、寂しげな翳(かげ)が走るのを見逃さなかった。
二
鬼無里が取調べから自席に戻ると、鶴居刑事が駆け寄って来た。
「警部、坂上透の母親のマンションで男が殺されていました!」
鬼無里は立ち上がると大きな声を出した。
「どういうことだ?」
「はい、今、磯子署から連絡が入ったところですが、坂上透の母親の住むマンションを突き止め」
「それで」
「坂上透が死んだことを連絡しなければと、管理人に立ち会ってもらって部屋に入り、男が死んでいるのを発見したそうです」
数時間後、磯子署から、鬼無里のもとに、事件のあらましがはいった。
磯子区森町の坂上みどりのマンションで殺害されたのは、能勢仁、四十五歳である。三LDKの和室でうつ伏せに倒れ、刃物で刺されて大量に出血していた。死亡時刻は、深夜、一時からニ時と推定された。職業は、消費者金融「山不二」の社員である。
行方の分らない坂上みどりは、三十九歳、息子の透と二人暮らしで、東京、横浜に付き合いのある親戚はなく、小樽にある実家とようやく連絡がついたという。
以上の報告に対し、鬼無里は鶴居刑事に話かけた。
「鶴居さん、能勢仁が殺されたのが、今朝、一時からニ時?」
鶴居刑事は鬼無里の意図を直ぐに掴むと、反応した。
「里中亘と坂上透がワンボックスを盗んだのが一時頃、運転してコンビニに突っ込んだのが、六時前です」
「盗んだ車で、坂本のマンションに行き、能勢仁を殺害、動揺していて、コンビニに突っ込んだ」
「考えられますね」
「磯子署に連絡しておいてください」
「分りました」
「今夜はこれくらいで上がりますか」
こういう鬼無里の言い方が、お酒の誘いであること鶴居刑事は心得ていた。
「はい。その前に一つお話しておきたいことが」
「分った」
「コンビニの監視カメラの映像です。まず、ワンボックスが映っていますが、運転していたのが、里中亘なのか、坂上透なのか判別できませんでした」
「分った」
鬼無里は、だいぶ喉が渇いてきたようで、答えが早くなっていた。
「もう一つ、前日の昼頃のテープに、坂上透らしき男が映っていました」
「えっ、ほんとうか」
「はい、それも三十分近く、二人の店員と何か言いあっている様です」
「明日、里中亘の取調べの前に、コンビニで話しを聞く必要があるな」
「そう思います。オーナーとその時の店員に会えるよう連絡しておきます」
鶴居刑事が連絡を取り終わるのを待って、二人が部屋を出ようとすると、島牧巡査が来て、少し甘えるような声を出していった。
「お二人にお話したいことがあるんですが」
「なんだ?あらたまって」
「ごいっしょしてもいいですか?」
鬼無里は、赤提灯のかかる居酒屋から、急遽、関内の天麩羅に場所を変えた。
三人が向かったのは、関内駅近くの天麩羅屋である。個室がいくつかあって、カウンターに座った客の目の前で、板前が季節に合わせて、魚介類、山菜、きのこなどを揚げて、熱々を食べさせる。カウンターに座ると、鬼無里が、島牧巡査に聞いた。
「乾杯の前に話しを聞いたほうがいいかな」
「いえ、喉を潤してからで。私もそのほうが」
グラスの生ビールで乾杯すると、三人それぞれ一息つくことが出来た。最初に出された銀杏の天麩羅を塩をつけて口に放り込むと、もじもじしている島牧巡査を見て、鶴居刑事が助け舟を出した。
「警部、島牧さんが言いたいこと分りました」
「自分も分ったけど、こういうことは自分から話さないと、幸せが逃げていってしまうと聞いたことがある」
島牧巡査は鬼無里のことばに励まされたように口を開いた。
「警部、媒酌人をお願いしたいのですが」
鬼無里は、島牧巡査の唐突な言い方に驚かされた。
「いつも冷静沈着な島牧さんらしくないですね。うれしいのは分りますが」
「すみません。何だかそわそわして、今度彼といっしょにお家にお邪魔して正式にお願いします」
「よく分らないが、鶴居さん、乾杯しましょう!」
三人はいつの間にか空になっていたグラスの生ビールのおかわりをして、
「どうやら、島牧さんが結婚するらしい」
「乾杯!」、「乾杯!」
グラスを置くと、少し冷静になって島牧巡査が話し始めた。
「あたふたしてすみません。十一月の終わりに婚約をして、来年には式を挙げたいと思っています」
「それは、おめでとう」
「はい、それで警部ご夫妻にご媒酌人をお願いしたいと思いまして」
「島牧さんのためなら、何でもするよ」
鬼無里のことばに、鶴居刑事がことばをはさんだ。
「警部、相手が誰か知らなくて引き受けていいのですか」
「ああ、そうだ」
「すみません」
と言って、島牧巡査はようやく落ち着きを取り戻してきた。
「お相手はどんな人かな?」
「警部も鶴居さんも知っている人です」
「鶴居さん、心当たりはありますか」
「いや、警察関係の人ですか」
と鶴居刑事が、そろそろいったらという目を島牧巡査に向けた。
「すみません。北海道の小樽警察署の清川さんです」
「えっ、ほんとうですか!」
鬼無里と鶴居刑事は、同時に大きな声をあげた。天麩羅を揚げていた板前の手が一瞬とまった。
清川刑事は、小樽から苫小牧、倶知安を回り、今は再び小樽勤務となっていた。どこの警察勤務となっても、『まむしの清(きよ)』と呼ばれ、体内にまむしの血清を持っていると言われる。犯罪を憎み、一端犯人の尻尾を掴むと絶対に離さないという。鬼無里が警察学校で教官をしたときの教え子である。
「いつからつき合っているんだ?」
鬼無里の質問に、鶴居刑事がいった。
「警部、取調べではありませんから」
「そうだな」
鬼無里は黙って話を聞くことにした。島牧巡査の話では、一年半程前に、清川刑事が出張で横浜に来たとき、鬼無里が、鶴居刑事と島牧巡査を連れて、中華街で食事をした。その時に知り合って、遠距離の交際を始めたという。積極的にアプローチしたのは自分の方だとはにかみながらいった。
鬼無里は、自分の教え子と娘のように可愛がっている子が結婚すると聞いて、嬉しくなっていた。グラスの生ビールのお代わりも増えてきた。
「マムシに噛みつかれたかと思ったら、マムシに噛みついた。マキちゃんの毒は、マムシの血清には効き目がなかった」
鬼無里は少し酔った。鶴居刑事が、その場を上手に仕切ってくれた。最後にかき揚げをご飯にのせた天茶をすすって、おひらきとなった。
三
日の出の時刻もすっかり遅くなって、朝早くには吐く息も気持ち白く見える。鬼無里と鶴居刑事は、修復中のコンビニを訪ねた。コンビニのオーナーと事故の前日の昼ごろ、パートで勤務していた四十代の女が店の前で、出迎えてくれた。二人から聞いた話はつぎのようである。
当時、店内にはパートとアルバイトの二人の店員がいて、パート店員が商品を陳列棚に並べていると、若い男の客が、男性用化粧品の小さい箱をポケットに入れるのを見つけた。そのまま、男を目で追っていると、ペットボトルの飲み物、おにぎり、サンドイッチをカゴに入れ、レジで支払いをした。男性用化粧品の小さい箱はポケットにはいったままである。パート店員は、レジ前から出口への通路に立ちふさがり、男にポケットのものを出すようにいった。男は「そんなものはない」と言い争いになり、ついには、男は上着とTシャツ、ズボンを脱いだ。オーナーが駆けつけたのは、その後だった。上着とズボンから何もでてこなかった。オーナーとパート店員は土下座して謝り、一万円の入った茶封筒を男に渡すと、男はそれと先ほど買ったレジ袋を投げ返すと黙って店を出て行ったという。
鬼無里が坂上透の写真を二人に見せると、その時の男だと曖昧に答えた。念のため、里中亘の写真も見せると、その時の男のようにも見えると言い出した。鬼無里は二枚の写真を見ながら、里中亘と坂上透が良く似ていると思った。県警本部への帰路、鶴居刑事も同じことを思っていたようで、
「警部、よく似ていますね」
といった。
「どちらが、万引きと間違われコンビニでトラブルになったか、重大な鍵になりそうですね」
「今日中に、里中亘を送検するか、釈放するか決めなければなりません」
「どちらにしても、物的証拠が欲しいな」
「わかりました」
鶴居刑事は言ったもののあてがあるわけではなかった。
県警本部へ戻ると、磯子署に置かれた、能勢仁殺害の捜査本部で鬼無里は現場指揮をとることになっていた。鬼無里は里中亘の取調べを終わってからということにし、鶴居刑事が先に磯子署に向かった。
鬼無里は、昨日と同じ少年捜査課の係官と里中亘の取調べを始めた。
「夜は眠れたか」
「はい」
「新たなことが出てきた。ワンボックスを突っ込んだコンビニで、一昨日の昼、万引きをした、しないというトラブルがあった」
里中亘は何も反応せずに黙ってきいている。
「店の人の話では、その客は、亘くんのようでもあり、坂上透にも似ていると言っている」
「自分じゃありません」
「では、坂上透から何か聞いたか」
「いえ、何も」
「では、ワンボックスを盗んだ後、あのコンビニへ行ったのは」
「湘南方面に行く途中だったから」
「………」
「嘘じゃありません」
「分った」
里中亘がもじもじとして何か言いたそうな目を向けた。
「何か言いたいのかな」
「すみません。昨日いったことですが、嘘を言っていました」
「どういうことだ」
「はい。ワンボックスを盗んだのは透さんです」
「なんだと」
「すみません。ワンボックスを運転して、コンビニ店頭に突っ込んだのも透さんです」
「では、昨日はどうして自分がやったといったんだ」
「透さんが死んでしまって。自分が運転していたことにすれば、親父が怪我をした人の病院代やコンビニ建物の修理代、ワンボックスの修理代など」
「お父さんが出してくれると」
「ほんとうか」
「はい」
鬼無里は里中亘が前日の供述をひるがえしたことに不自然さを感じていた。今朝の取調べの前に里中亘に面会した弁護士が、知恵を授けたと思われた。鬼無里は、後を少年捜査課の係官に任せ、磯子署の捜査本部に向かった。
その日の午後、里中亘は釈放、父親がつけた弁護士が、不当逮捕だと言い残して、里中亘を引き取っていった。
四
磯子署におかれた『消費者金融社員殺人事件・捜査本部』で、全体会議が開かれた。昨日からの初動捜査で判明したことの報告が、各捜査員からあった。
殺害されたのは、能勢仁、四十五歳、殺害場所は、磯子区森町×丁目××番地、メゾン磯子1001号で、坂上みどりが借りていた三LDKの和室である。司法解剖の結果、死因は失血死。胸、腹を三箇所、左利きの強い力で刺した傷跡であった。死亡推定時刻は、一時半から、二時半の一時間に絞られた。凶器は見つかっていない。
被害者の職業は、消費者金融「山不二」横浜支店の支店長で、今年になって、小樽にある本店から転勤になっている。坂上みどりには、「山不二」からの借金はないという。能勢は、殺される前日の夜九時すぎに支店を出て、その後の足取りは分っていない。
坂上みどりは、三十九歳、息子の透と二人暮らしである。横浜馬車道にある会員制高級クラブで、雇われママをしている。色白、小顔で色気があり、それに歳のわりに若く見え、店にはママを目当てにくる客も多いという。
三年前までは、小樽で生命保険の外交員をして、息子を育てていた。夫とは五年前に離婚している。その元夫は小林宣(のぶ)雄(お)といい、業務上過失致死の罪で、懲役七年の実刑判決をうけて服役、仮釈放中である。
坂上みどりの息子は、透、十七歳、正しくは享年十七歳である。昨日の午前六時頃、盗んだワンボックスでコンビに突っ込み、重体となっていたが、同日昼ごろ、死亡した。母親と小樽から横浜に来て、私立高校に入学したが、ほとんど学校へはいかず、暴力団の使い走りみたいなことをしていたという。
犯行時刻と思われる二時過ぎ、マンションの住人が帰宅した時、黒っぽい車が走り去ったのを目撃している。そのほか、物音を聞いたとか、坂上みどりの姿を目撃したものはいない。
概略の報告が終わったところで、鬼無里が口を開いた。
「坂上みどりの行方は、まだ掴めませんか?」
先に捜査本部にはいっていた鶴居刑事が答えた。
「まだ分りません。横浜での付き合いはほとんどないようです」
「小樽と生まれ故郷の洞爺湖の方は?」
「小樽署に捜索を頼みました。清川刑事がやってくれるそうです」
鬼無里は、つづけ聞いた。
「確か「山不二」の本社は小樽、被害者も今年のはじめまで小樽本店に勤務していた」
「そうです」
「被害者と坂本みどりの関係は、横浜に来てからですか?それとも」
「そのあたりは、これから調べてみます」
つづいて、鬼無里は、坂上透の足取りについて、自ら説明した。
「一昨日の昼ごろ、コンビニで、万引きと間違われトラブルとなった。その夜一時頃、里中亘という少年と、別のコンビニの駐車場からワンボックスを盗み、六時頃にトラブルのあったコンビニに突っ込んだ。二つのコンビニ間は、車で十分位の距離、一時から六時まで何をしていたのか分っていない」
鶴居刑事が確認した。
「一時に、ワンボックスを盗み、磯子区森町のマンションに行き、二時に能勢仁を殺害、六時にコンビニに突っ込むことも可能です」
「もう一度、里中亘から話を聞く必要があるな。これまでのいきさつがあるので、自分がやることにします」
「分りました。周辺の聞き込みを徹底するほかに?」
鬼無里が捜査員の顔を見渡しながら、指示をあたえた。
「横浜での能勢仁と坂上みどりの関係を調べてくれ。小樽で関係があるかどうかは、小樽署の清川刑事に追加でたのもう。それに、坂上みどりの元夫の事件についての資料も取り寄せておいてくれ。もう一つ、坂本透が犯人だと仮定して、犯行を裏付ける証拠がでてこないか?」
「分りました」
鶴居刑事が答えた。
「予見は禁物ですが」
と鬼無里は自分にも言い聞かせるようにいった。
*
翌日、事件は急速に解決に向かった。
鬼無里は、再び里中亘から、弁護士を同席した上、話を聞いた。里中亘は、事前に弁護士から、想定質問に対する答えを教えられていたようで、何の感情も表さずに、淡々と質問に答えた。前の取調べでは、透さんと呼んでいたのを、坂上透と呼び捨てにした。
コンビニで、万引きと間違われ、トラブルになったのは、坂上透である。むしゃくしゃしているので、ドライブに行こうと里中亘を誘った。坂上透が盗み、運転してきたワンボックスに拾ってもらうと、坂上は用事があると磯子区森町のマンションに向かい、里中亘を助手席において、マンションにはいっていった。二時頃であったという。直ぐに、ワンボックスに戻ってきて、慌てた様子で車を発進させた。しばらく走り回った後、坂上は飲み物が欲しいと、コンビニ駐車場にはいり、そのまま店に突っ込んだという。
能勢仁が殺害された時刻に、坂上透が現場にいたことは間違いないと考えられた。また、坂上透が左利きであったことも証言した。
夕方には、小樽署の清川刑事から連絡がはいった。
能勢仁の妻は、呆れ顔で、「自業自得!」とはき捨てたという。5年位前、坂上みどりが小樽で保険の外交員をしていた時に、不倫関係となり、それがばれた。坂上みどりが横浜に転居したことで、関係は切れていたものと思っていたと、妻は話した。能勢仁の遺体の引き取りには、能勢仁の実兄が向かったという。
清川刑事は、報告を終わると、
「警部、あのー」、「警部、あのー」
と口ごもった。鬼無里は、清川刑事が何を言いたいのかすぐ分った。
「喜んで、引き受けるよ」
清川刑事の緊張している様子が受話器越しに伝わってきた。
「近いうちに二人でお願いに上がりますので、よろしくおねがいします」
「妻の菜穂子もはりきっているよ」
鬼無里の優しいことばに、安心したように清川刑事は話を付け加えた。
「お会いしてから、お話したほうが良いかと思うのですが」
「なんだ?」
「はい、島牧さんには内緒にして欲しいのですが」
「結婚する前から秘密はいかんぞ」
「いえ、そうじゃないんです。警部から依頼されたもう一つの件」
「坂上みどりの離婚した夫、小林宣雄が起こした交通事故の件?」
「はい、事故で死亡したのは、牧ちゃんのお父さんなんです」
鬼無里は、島牧巡査から父親の交通事故の件は聞いていた。札幌地検特捜部の検事をしていた島牧順平は、早朝の散歩中にひき逃げされ死亡したという。
「それなら、秘密にする必要はないのでは?」
「はい、ただ、少し気になるところがあって」
清川刑事は、電話では話しづらそうであった。
「何に噛みついたんだ?その件も、含めて待っているよ」
と鬼無里は、電話を切った。
そして、翌日には有力な物的証拠があがってきた。
坂上透の衣服に付着していた血液の鑑定の結果、坂上透自身の血液の他に、袖口から、能勢仁の血液が検出されたのである。
捜査本部は、死亡した坂上透を、能勢仁殺害の有力容疑者と断定、後は、事情を知っていると思われる坂上みどりの捜索に的を絞った。それに伴い、捜査本部の看板は残したものの、捜査体制を縮小した。
五
一週間位経った金曜日の夕方、鬼無里の元に、島牧巡査がつぎの日曜日に家に来たいと言ってきた。鬼無里は家に電話を入れ、妻菜穂子の都合を確認して、快諾した。島牧巡査が退署した頃を見計らったように、小樽署の清川刑事から電話がはいった。日曜日に来る旨繰り返した後、明日土曜日に、先に鬼無里に会って、島牧巡査の父、島牧順平さんの交通事故について、相談したいと言ってきた。鬼無里は、島牧巡査には内緒で会うことを承諾した。
土曜日の昼過ぎ、清川刑事が、県警本部に鬼無里を訪ねてきた。この日は、島牧巡査は非番で、本部が二人にとって一番いい場所であった。清川刑事は、仲人の依頼を照れながらしたあと、島牧巡査の父親、島牧順平の事故について、つぎのように話した。
島牧順平は、当時四十六歳、札幌地方検察庁特捜部の検事であった。横浜に、妻と大学生の長男、高校生の長女(島牧巡査)と中学生の次女を残して、札幌に単身赴任していた。
札幌といえども寝苦しい夜が続いた八月四日、島牧順平は、いつもとおり、朝五時前に官舎を出て、豊平川の堤防に向かった。歩行者用信号が青に変わって一歩踏み出した時、信号を無視、猛スピードで走ってきた小型乗用車にはね飛ばされ、十数メートル宙をまって、路面に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。はねた車は一旦停止するかのように、スピードを落としたが、再び、加速して猛スピードで走り去った。事故を目撃した後続の車の運転手が救急車を呼んだが、到着した時には既に死亡していた。事故の目撃者は、この運転手の他、散歩中の人など数人いた。その中の一人が覚えていたナンバーから、一台の白いカローラが緊急手配され、三十分には、事故現場から2キロ先で、縁石に乗り上げ、電柱に助手席側をぶつけ、フロントガラスを割った、同車が発見された。
運転手の姿は車内になく、付近を捜索すると、数十センチに葉を伸ばし、水をはった田んぼに男が落ちているのが発見された。救急車が呼ばれ、病院に搬送されたが、手にかすり傷があるだけであった。搬送中に、救急隊員が、男が酒臭いことに気づき、警察で検査、呼気一リットルあたり、0・6ミリグラムのアルコールが検出され、男の呂(ろ)律(れつ)が回らないことから、酒酔い運転と断定した。
酒酔い運転に加え、ひき逃げ、業務上過失致死の容疑で逮捕されたのは、小林宣(のぶ)雄(お)、当時、三十八歳、道立小樽医科大学で、お抱えの運転手をしていた。事件当日、小林宣雄は、医学部部長を、午前二時頃に小樽にあるマンションにおくった。そこで、自分のカローラと入れ替えて、札幌の自宅に帰る途中、事故をおこした。
裁判では、普段からお酒を飲まないし、お酒を飲んだ記憶はないと主張したが、ワンカップの容器が車内から発見された。業務上過失致死罪で一番重い、懲役七年の実刑判決を受け、千葉の市原刑務所で服役、仮出所中である。
ここまでの説明を聞いていた鬼無里が口を開いた。
「お父さんの事故をきっかけで、警察官になると決めたんだそうだ」
清川刑事も少し沈んだ声で応えた。
「はい、飲酒運転を絶対になくすんだと何度も聞きました。その時の彼女の目、澄んで、強い意志を示していました」
「そうだな。そういうところに惚れたのかな?」
「警部、ちがいます」
清川刑事は、少しむきになっていった。
「ところで、清川さんは、この事件のどこに噛みついたのかな?」
「まだ、はっきりとはわからないのですが」
「かまわんよ。可愛い教え子の話だ。なんでもいいよ」
鬼無里の優しい言葉に、一息吸って、清川刑事がつづけた。
「二つあるんです。一つは、小林宣雄はお酒は飲まないのではなく、飲めなかったそうです。警察でも、裁判でも、主張したそうですが」
「聞き入れてもらえなかった。アルコール検査の結果と車内から見つかったワンカップの容器は確固たる物的証拠だからな」
「そうなんです」
「もう一つは?」
「はい。小林宣雄が送り迎えをしていた医学部部長は、里中厚といいます。警部から坂上みどりの捜索の依頼がありました。その時、里中亘という名前が出たと思うのですが」
「確かに、捜索を頼んだ坂上みどりの息子、事故で死んだ坂上透の友達」
「里中というのは、そんなに多い苗字じゃありません」
「それで、里中厚を追った」
「はい、二年前に道立小樽医科大学を退職し、東京にあるK大付属病院の副院長におさまっている。つぎの院長だそうです」
「大分噛みついたようだが」
「すみません。まだ、何もわからないのですが」
「それで」
「お願いも二つあります」
「ん、清川さんは二つが多いな。三つあると、信憑性が確かになるんだが」
鬼無里は、詰まった話に、風を吹き込んだ。
「島牧順平さんの事故の真相を突き止めたいいのです。一つは、プライベートなことになりますが、納得できる真相が明らかになるまで、式を挙げるのを待ちたいと思います。そこを何とか、島牧さんにはわからないようにお願いしたいんです」
「難しい注文だな」
鬼無里は口ではいったものの、目が了解していた。
「もう一つは、里中厚の身辺調査です。小樽の方で出来ることは自分がやりますので」
「わかった。それも島牧巡査のためだ」
「ありがとうございます」
鬼無里は、清川刑事を自分の息子を見る眼差しで見ていった。
「清川さんの危惧があたっていたら、敵は手ごわい相手だ。もう、独り身じゃないんだから、無理をするなよ。わかったな」
「はい、ありがとうございます」
清川刑事は、深々と頭をさげた。
翌日曜日、清川刑事と島牧巡査が昼前に鬼無里の家にきた。菜穂子は、前日からはりきって、普段は見たこともない料理を用意した。中華街で料理人をしている養女のひろ子が手伝いにきて、ほとんどを作ってくれたようだ。
清川刑事のご両親、島牧巡査の母親とお兄さんが加わっての婚約式が、一ヶ月後ときまった。鬼無里は、それまでに解決しなければと、清川刑事と同じ気持ちを持った。
六
小樽に戻ると、清川は、当麻町に小林宣雄を訪ねた。
小林宣雄は、刑期を残して仮出所、実家に身を寄せていた。事故について聞くと、「もうすんだことですから」と多くを語らなかった。一つだけ分らないことがあると、裁判での元妻と自分が運転手をしていた医学部長の証言について話した。自分が酒を飲まないのではなく、飲めなかったことを知っていたにもかかわらず、元妻の坂上みどりは、大酒飲みではなかったが、家では晩酌をしていたと証言した。医学部長は、運転手をしていたので、飲まないようにしていたのではと証言した。何故、そうしたのか理解出来ず、弁護士に対し、事実と異なると話した。しかし、飲酒運転をして死亡事故をおこしたという事実を覆すには、意味がないと無視されたという。その他、事故全般については、捜査記録、裁判の記録と大きな相違がないと、言葉少なくいった。
*
清川は、数日後、札幌地検を訪ねた。鬼無里警部が話しを通してくれていた、三上検事が応対してくれた。鬼無里警部は、三上検事が横浜地検時代、その指揮の下捜査にあたった時期があったという。現在は、札幌の特別刑事部で、脱税、贈収賄事件を担当している。島牧順平が交通事故死した時、島牧と同僚であった。
初対面の挨拶が済むと、三上検事は、検事とは思えない気さくな、人懐っこい目を清川に向けた。
「あなたが『まむしの清』、いや失礼。一度お会いしたいと思っていました。それに、ごいっしょに仕事を出来たらと」
清川は何と答えてよいか戸惑った。
「いえ、あの。光栄です」
三上検事はつづけた。
「それに、島牧さんのお嬢さんとご結婚されると、鬼無里さんから聞きました。おめでとう」
「ありがとうございます」
「死んだ島牧さんも、あなただったら安心していますよ」
清川は、本題にはいった。
「今日、お伺いしたのは………」
すぐさま、三上検事は口元を引き締めていった。
「鬼無里さんから聞いています。横浜で、消費者金融「山不二」の社員である能勢仁が殺された。殺害場所は、坂上みどりという女のマンションで、現在、行方不明となっている。犯人は、息子の坂上透とされているが、同じ日に事故で死亡している」
三上検事は、一息ついでつづけた。
「坂上みどりの身辺を洗っていくうち、離婚した夫、小林宣雄が交通死亡事故を起こして服役、仮出所中であることがわかった。その被害者が、あなたと結婚する予定のお相手のお父さん、島牧順平さんとわかった」
清川は、鬼無里警部から的確に話しが通じていることに関心した。
「確かに、そのとおりです」
「あなたは、事故を調べていくうち、いくつかの疑問をもった。そして、『まむしの清』が噛みついた。いや、これは失礼」
「構いません」
「加害者の小林宣雄は酒を飲めなかったということ、そして、鬼無里さんの事件のほうで、里中厚という、名前が出てきたこと」
「はい。息子の里中亘と死んだ坂上透は友達、その日、盗んだワンボックスにいっしょにいたということ」
「偶然が重なりすぎていないかと」
「そのとおりです」
三上検事は、少し間をおいて、清川の目を確かめると、口を開いた。
「これから私がお話するのは、自分にとって恥ずかしいことになります。それに、捜査上の秘密にあたるところがあります。でも、島牧順平さんは、いつも、『真実を明らかに、それからだ』が口癖でした」
「どういうことでしょうか」
清川は、何が語られるのか身を引き締めた。三上検事はつぎのように話した。
島牧検事が交通事故死する半年前から、札幌地検特捜部(現在は、特別刑事部と改称)は、道立小樽医科大学と大手医療機器商社・東洋光学をめぐる贈収賄の内定をすすめていた。捜査は、この二者から、道庁、道議会を巻き込む展開となった。しかし、突然、検察上層部から捜査の打ち切り命令が下りた。自分は悔しい思いながら従ったが、島牧順平は密かに内定をすすめて、大きな証拠を掴んだようであった。島牧検事が交通事故で死んだのはそんな時であった。
本当に交通事故なのか、もしかしたら事故に見せかけて殺されたのではないかと、疑念をもったが、特捜部の検事が交通事故に口を挟むことは難しかった。
三上検事は、清川に懇願するような目をむけた。
「今でも、島牧順平さんの死に疑問を持っている。そして、北海道の医学界の黒い部分が闇に葬られたままになっているのは悔しい」
検事らしからぬ言い方であった。清川は、三上検事のことを思った。正直で、正義感が強く、でも弱い面もあわせもつ人間らしい人だ。
「島牧順平さんの死が、交通事故でないとしたら」
清川の質問に対し、三上検事が答えた。
「これは証拠はまるでない、想像だが」
と断って話した。
捜査をなかなかやめない島牧検事の手が、自分のそばまで来ていることを知った、医学部長であった里中厚は、島牧検事の殺害を計画、島牧検事が毎朝、散歩するところを狙うことにした。日付が変わった午前二時頃に小樽にあるマンションに、小林宣雄が運転する公用車で送ってもらった。小林宣雄が公用車と自分の白いカローラと入れ替えて、札幌に帰ろうとしたとき、車に戻ってきて、睡眠薬か催眠剤を飲ませ、意識を失わせる。さらに、口から食道にいれた管をとおして、ワンカップの酒を流し込み、酒酔い状態にする。助手席に小林宣雄を乗せ、里中亘は、白いカローラを運転し札幌へ向かう。いつものように散歩にでた島牧順平をはねて、そのまま逃走した。2キロ先で、車を縁石に乗り上げ、電柱に助手席側をぶつけた。小林宣雄を助手席から引きずりだし、道路わきの田んぼに、投げこみ、その場から逃走した。
「これが、自分の推理なんだが、証拠を掴めなかった」
清川は、話を聞き終わると質問した。
「里中亘は、何故、運転手の小林宣雄を殺さなかったのでしょうか」
三上検事は、少し考え込んでから、いった。
「そのへんは良く分らないが。例えば、山中の崖下にでも車を転落させれば殺せたかもしれないが、そうすると自分が逃走するのが難しくなる」
「そうですね」
三上検事は、長い間自分の中だけにしまっておいたことをはきだして、最初の柔和な表情に戻っていた。そして、自分には、何もできないが、島牧順平の無念を晴らして欲しいと清川に頼んだ。
清川は、現場百回という鬼無里警部の教えを実践しようとした。が、島牧順平が事故死した場所は、高速道路の建設が始まっていて、以前の道路や交差点は跡形もなく無くなっている。小林宣雄が運転していたとされる白いカローラが電柱に衝突した場所も同様であった。島牧順平の死を事故死から殺人へと覆す糸口を見出すのは、清川にとって至難のように思われた。
七
里中厚の身辺調査を請け負った鬼無里も、里中厚の経歴を明らかにしたものの、どこから切り込むか、手がかりを掴むことができないでいた。
里中厚、旧姓を坂西といい、四十六歳、横浜市港南区で生まれ。普通のサラリーマン家庭、弟と妹の三人兄弟であった。高校まで、横浜の公立高校に通ったが、大学は、道立小樽医科大学に進学、成績優秀でそのまま大学に残り、助手から助教授、教授、医学部長とトントン拍子に出世した。三年前に、小樽医科大学を退職、横浜にあるK大付属病院の副院長におさまっている。
私生活では、二十代後半に、K大付属病院の院長の長女と結婚、いずれは跡を継ぐことになっている。子供は、十七歳になる高校生の長男と十三歳の中学生の長女の二人である。長男の亘は、高校も休みがちで、不良グループとの付き合いが日常化していた。
事態が打開されないなか、鬼無里は、清川刑事が送ってくれた交通事故の捜査記録を読み直した。交通事故ではないことを匂わせる事実を見出すことはできなかった。捜査記録自体が、交通事故の捜査記録として作られているから、当たり前といえば、当たり前であった。
鬼無里の目が、捜査記録の終わりのほうに貼ってある一枚の写真に張り付いた。
「鶴居さん!」
大声で呼ぶと鶴居刑事がとんできた。
「警部、どうかしましたか」
「この写真は、小林宣雄の白いカローラです。島牧順平さんをはね、その後、歩道にのりあげ、電柱に衝突した」
「ええ、その写真に何か」
鬼無里は、ペンで写真をなぞりながら話しを続けた。
「ここに、車の助手席側のタイヤ痕が六つ写っています。多分、前輪のものが三つ、後輪のものが三つです。一番左のもの、そう歩道よりのものは、わずかにタイヤ痕と確認できる程度です。真ん中のものは、後輪の方が、はっきりとブレーキ痕として残っています。歩道に対して鋭角になるようにバックして急停止、それでできたのではと思います。そして、一番右のものは、前輪のほうが、はっきりと跡がついています。カローラはFFですから、急発進で前進させたときついたものと思われます」
鬼無里は一気に話すと大きく息をついだ。鶴居刑事が、鬼無里に代わって、後を継いだ。
「里中厚は、酩酊させた小林宣雄を助手席に乗せたまま、島牧順平さんをはねた後、数キロ先で、車を停め、助手席から小林宣雄を引きずり出して、道路脇の田んぼに投げこむ。その後、車に戻り、一旦バックして、急発進で助手席側を電柱にぶつける」
鬼無里は、事実は鶴居刑事が話した通りであると思った。
「その通りだと思うが、まだ、われわれの推測の域を出ない。交通事故担当の鑑識さんに見てもらおう。それに、清川さんに連絡だ」
鬼無里は、小樽署の清川刑事に連絡をいれた。この件について話をすると、興奮している様子が受話器から伝わってきた。清川刑事は、当時の札幌中央警察署の交通課に話を聞いてみるという。そして、清川刑事から、新たなことがわかったという報告があった。
一つは、横浜で殺された「山不二」の社員、能勢仁の前職が判明したこと。大手医療機器商社・東洋光学の社員で、五年前には北海道支店の営業部長であったという。もう一つは、坂上みどりの女友達の話として、坂上みどりは、里中(坂西)厚の恋人だったということ。里中厚が、K大付属病院院長の長女と結婚するというので、身をひいたという話である。
鬼無里も清川刑事も、事件のおぼろげな全体像が見えてきたものの、ほとんどが推測であることを理解していた。
翌日には、鑑識に頼んでおいた、白いカローラのタイヤ痕についての見解が、鬼無里のもとへ届けられた。それによれば、タイヤ痕については、鬼無里の推測を裏付けるものであった。そして、余計なことですがという前書があってつぎのように書いてあった。
鬼無里の推測が一つであるが、もう一つ、酩酊者が車を運転すると、縁石にぶつかって、パニックになり、バックして、再び前進させるということはよくあるという。
八
週末の日曜日には、清川と島牧巡査の婚約式が迫っていた。
*
木曜日の昼過ぎ、洞爺湖温泉の旅館から、坂上みどりが宿泊しているとの通報があった。清川は、伊達警察署に坂上みどりの身柄の確保を依頼、小樽から、国道5号線をパトーカーの赤色灯を回し、けたたましいサイレンの音を響かせて疾走した。が、途中、伊達警察署から、すでに坂上みどりは、旅館を出た後であったという連絡がはいった。清川は、事情を詳しく聞くため、そのまま洞爺湖温泉に急行した。
大和旅館は、洞爺湖温泉の湖畔から有珠山にのぼる中腹にある。平成十二年の有珠山噴火では、数十メートルまで溶岩流が迫り、火山弾、火山灰が降り注いだという。築四十年の建物は、初めて訪れると、泊まるのを一瞬と惑ってしまうような外観の古い建物である。一転、建物の中は、ロビー、廊下、部屋、温泉の脱衣場など隅々まで掃除が行き届いている。自慢の温泉は、湯量豊富な、ろ過循環なしの天然温泉、寒い季節には、この上ない贈りものとなる。夕食は、旅館を切り盛りする大将と若女将が作る夕食は、分厚い、さしがはいったラム肉たっぷりのジンギスカンに、地元食材を使った料理、品数は少なくても、一品、一品が満足すると評判である。
清川は、旅館のロビーで、二人から話を聞き始めた。
「坂上みどりは、何時から泊まっていましたか?」
落ち着いた表情で、大将が答えた。
「十日前からです」
「××日の火曜日からです」
若女将が付け加えた。
「一人でしたか?」
「はい、一人で来られて、暫く逗留したいと」
「今日、警察に連絡されたのは?」
「はい、午前中に、観光組合の会合がありまして、そこで、みどりさんを警察が捜していることを知りました。もっと、早く気がつけば良かったのですが、すみません」
清川は、質問を続けた。
「今日になって旅館を出たのは?」
「はい、会合からもどり戻り、みどりさんに、警察が捜していることを話すと、「ちょっと事情があるの」と言って、簡単な荷物をまとめ、出ていきました」
「バスか、タクシーで?」
「はい、タクシーを呼びました。地元のタクシーですので、運転手さんに来てもらいましょうか?」
「お願いします」
清川は、大将が、坂上みどりのことを、お客様とか、坂上様とか言わないで、みどりさんと言うことが気になった。
「坂上みどりさんは、十日間、どう過ごしていましたか」
「一日に、一、二時間、湖畔や溶岩公園のほうに散策に行くほかは、部屋にいることが多かったと思います」
「電話とか、誰かが訪ねてくるとか」
「誰も訪ねてきませんでした。電話は、ご自分の携帯電話を使っていたようです。部屋の前を通った時、話声が聞こえましたから」
「そうですか。つかぬことをお聞きしますが」
大将は、怪訝な表情を浮かべて聞いた。
「なんでしょうか?」
「大将は、坂上みどりのことを、みどりさんと言いますが?」
「ああ、坂上みどりさんとは、昔の知り合いで、つい」
「幼馴染なんです」
若女将が、悪戯っぽい目をくりくりさせて言った。
「小学校の二年か三年まで、いっしょだっただけです」
「そうですか、坂上みどりさんの生い立ちのようなことをお話いただけますか?」
「はい、うろ覚えですが」
大将は、坂上みどりについて、次のような話をした。
坂上みどりの家は、洞爺湖温泉で芝居小屋を営んでいた。ストリップショー、大衆演劇、歌謡ショー、浪曲や津軽三味線などの公演を小屋にかけ、昭和五十年代までは、繁盛していた。祖父が津軽三味線の名手で、洞爺湖温泉の小屋で唄会を開く他、小樽、函館から苫小牧まで、道内の小屋を回って公演していた。みどりは、いつも祖父に連れられ、出かけていたという。坂上みどりは、小さいときから愛くるしい顔に、いつも笑みをたたえ、周りから可愛がられた。小学校に入っても人気ものであった。大将も、三十年ほどの時がたっても、旅館に訪れた時には、すぐに分ったという。
有珠山の噴火で、客足が減り、温泉街にかげりが出始めた頃、いつの間にか小屋を閉め、いつの間にか一家は、洞爺湖温泉からいなくなっていたという。
大将は、すまなそうに言った。
「何せ昔のことなんで」
清川が答えた。
「よく分りました。ありがとうございます」
ちょうど、坂上みどりを乗せたというタクシーが旅館に来た。運転手は、客をJR伊達紋別駅で降ろした。車中で、「レンタカーの営業所はあるか?」と聞かれたので、室蘭まで行かないとないと答えたという。
清川は、大将が温泉をすすめるのをやっと断って、何かあった時の連絡先のメモを残し、国道5号線を小樽に向かった。運転しながら、大和旅館の大将と若女将のことを思い出していた。「島牧巡査と、あの二人のような家庭を作れたら……」。
そのまま小樽署に泊まった清川は、外出していた鬼無里警部が帰署する時間を見計らって、連絡をいれた。坂上みどりの消息についての話が終わろうとした時、鬼無里警部の大きな声が、受話器をゆすって、耳に響いた。
「ちょっと、このまま待て!」
九
14:30
娘が誘拐されたとの通報を受け、鬼無里は、里中厚の自宅に急行した。
到着した鬼無里に、里中厚は次のように話した。
長女、絵梨十四歳が学校に来ていないと、F学園中等部から連絡がり、里中厚は病院から家に戻り、妻や使用人と心あたりを探がしていた。十三時七分に、里中厚の携帯に男の声で電話が入った。男は、「娘をあずかった。三千万円、用意しろ。警察には言うな。また、連絡する」と短く言うと電話を切った。直ぐ後、十三時十二分に、長女、絵梨から、電話があり、「パパ、言うとおりにして。元気だから、大丈夫。お願い」と言って電話が切られた。暫く、警察への連絡をためらっていたが、十四時に通報したという。
ここまでの話を聞いた鬼無里は、里中厚が使用している携帯電話会社D社に連絡をいれ、つぎのことを依頼した。
一つは、携帯電話の通話内容を録音するためアダプタを、携帯電話とパソコンに接続すること。これは、直ぐに技術者を派遣するので、三十分程で準備できるという。
二つ目は、野中厚の携帯電話に着信があったときに、速やかかに、発信者の番号、契約者の名前、発信基地局を通知してもらうこと。これは、発信者がD社の携帯電話であれば、十分以内に可能であるが、S社、A社の場合だと、二、三十分かかるという。D社が、S社、A社と連携をとると言う。
三つ目は、里中厚への二度の電話に関する発信者情報の提供である。本来は、通信機密の開示ということで、裁判所の令状を必要とするが、緊急事態ということで対応してくれることになった。
これらの態勢を整えて、鬼無里は、里中厚と妻の映子から話を聞くことにした。
「まず、十三時七分の男から電話ですが、相手の言ったことをもう一度お願いできますか?」
里中厚は、緊張しているためか、声を震わせて言った。
「はい、「娘をあずかった。三千万円、用意しろ。警察には言うな。また、連絡する」と」
通報してきたときと、寸分違わない言い方であった。
「では、男の声に聞き覚えはありましたか?」
「いいえ」
鬼無里は質問を続けた。
「三千万円ですが、用意できますか?」
「はい、私の貯金と、後は、妻の実家に頼みました」
「金を渡さずに、お嬢さんを取り返したいと思いますが、用意だけはお願いします」
鬼無里は、続けての電話に質問を切り換えた。
「二度目のお嬢さんからの電話では?」
「はい、元気だから、犯人の言うとおりにしてと」
「声は、お嬢さんに間違いありませんか」
「ええ、時々、電話で話しているので間違いありません」
「そばに誰かいるような気配はありましたか?」
「急に、電話機をとられたように、通話がきれました。その時、なんとなく男の声が聞こえたような気がして」
「そうですか、話し声のうしろに何か聞こえませんでしたか?例えば、電車の音とか?」
「はい、駅構内とか、人が大勢いるようなザワザワした雰囲気を感じました」
鬼無里がつぎの質問に移ろうとしたときだった。
*
15:10
捜査員から渡されたメモを見た鬼無里は、別室に用意された警察用の部屋に入った。メモには、つぎのようにあった。
○○○―○○○○―○○○○、契約者・坂上みどり、発進基地局・札幌大通り公園近辺
△△△―△△△△―△△△△、契約者・里中厚、発信基地局・東京駅周辺
鬼無里は、小樽署の清川刑事に連絡をいれ、坂上みどりの身柄の捕捉に全力をあげるよう伝えた。「男は誰か?」、清川刑事に、当麻町の実家に身を寄せている仮出所中の鈴木宣雄の行方を質してみると、昨日から行方が分らなくなっているという。二人はいっしょにいる可能性があることを示唆した。
二つ目の電話は、娘の絵梨からで間違いなさそうである。ということは、犯人は複数で、東京と札幌にいる。例えば、坂上みどりが東京で絵梨を拉致、鈴木宣雄が札幌で脅迫する。鬼無里は、どこまでを里中厚に話をするか、慎重に言葉を選んだ。
「里中さんは、坂上みどりという女(ひと)をご存知ですか?」
「………」
里中厚は口ごもった。
「どうですか?」
「はい、知っています」
「どういうご関係ですか?」
「私が結婚する前の恋人です」
「それだけですか?」
里中厚は訝しげな顔を鬼無里に向けた。
「それだけというと?」
「里中さんが小樽におられた時、大学お抱えの、あなた担当の運転手が、飲酒運転で交通死亡事故を起こしたことを覚えていますか」
「ああ、そうですか」
急に思い出したように続けた。
「運転手、確か名前を小林といったと思います。彼の裁判に証人として出廷した時、同じ証人として、坂上みどりがいました。すごく驚いたのを思いだしました」
「その時の、小林宣雄と坂上みどりの関係をご存知でしたか?」
「はい、当時は結婚していて、小林みどりといっていたと思います」
「最近、坂上みどりと会ったことは?」
と立て続けに質問した時、里中厚は、不快感を顔いっぱいに浮かべていった。
「刑事さんは、私を尋問しているんですか?」
「いや、そんなことはありません。お嬢さんを助けるためです。不愉快なこともありましょうが、協力して下さい」
「………」
鬼無里は、話を変えた。
「続けての電話は、お嬢さんの電話機から、お嬢さんが掛けたのに間違いないと思います。場所は、東京駅周辺からです」
「そうですか。今、どこにいるか、分りますか?」
「いえ、電源を切っているようで、繋がりません。東京駅というと、新幹線で何処かへ向かうことが考えられますが、心当たりはありますか?」
「いえ、とくに」
と言ったあと、深刻な表情で付け加えた。
「絵梨は、慢性腎不全という病をもっています。週に二回、私の病院で人工透析を受けています。火曜日と土曜日。それまでに、探しだしてください」
「そうですか、それは心配です。リミットは明日の何時頃ですか?」
「はい、遅くとも午後三時までに透析を開始しないと」
「あらゆることをします」
と、鬼無里は言うと、もう一つと、長男・里中亘の居所を聞いてみたが、里中厚は再び不機嫌な顔をして、ニ、三日、家に戻っていないと言ったきりであった。
*
16:05(透析リミットまで、二十二時間五十五分)
小樽署の清川刑事から連絡がはいった。坂上みどりと小林宣雄の行方はまだ分っていない。洞爺湖温泉の大和旅館で、坂上みどりを乗せた運転手が、室蘭にいけばレンタカーがあると話したことから、室蘭のレンタカーの営業所を全部当たったが、該当する客は見当たらなかった。そして、女一人で札幌にいくには、室蘭から札幌行きのJR特急『すずらん』を利用すれば、所要時間が一時間五十分ほど、坂上みどりはこちらを利用したのではないかと思うと付け加えた。引き続き、二人の捕捉に全力をあげると言って、連絡を終わった。
三千万円がそろい、バックに詰め込み終わると、鬼無里ら数名の刑事と、里中厚と妻の映子は、応接テーブルの上に置かれた、パソコンにアダプタで繋がれた携帯電話を睨みはじめた。時計の秒針は、いつもと同じペースで時を刻んでいた。
十
18:00(透析リミットまで、二十一時間)
着信音が息詰まった空気を破った。拡声した電話機から絞るような低い声が聞こえた。
「里中さんか?」
里中厚は緊張した声で応えた。
「そうです。絵梨は?」
「警察にはなした…」
「………」
「早くしろ!」
「絵梨は?」
通話が一方的に切られた。犯人が発した言葉は、「里中さんか?」、「警察にはなした…」、「早くしろ!」の三つのフレーズだけであった。「警察にはなした…」の最後が「な」であるか「か」であるか分らなかったが、警察が動き出したのを知って「警察にはなしたな」と脅したものと判断した。通話を録音したDVDは直ちに、科捜研に送られた。
十分しない内に、携帯電話会社のD社から連絡がはいった。一回目と同じ、坂上みどりが契約しているもので、発信場所は、小樽運河周辺と分った。犯人は、札幌から小樽へ移動したことになる。
鬼無里は、再び、携帯電話を睨み始めた。二回目の通話内容から、鬼無里の頭に、小さなしこりのようなものが出来始めていた。「金のことがやりとりに出てこない」。
*
22:30(透析リミットまで、十六時間三十分)
三回目の電話が入った。二回目と同じ声だった。
「里中さんか?」
「そうです」
「いつまで待ったらいい?」
「それは………」
「じゃ、自分で決めろ!」
「絵梨は、透析をしないと」
今回も通話が一方的に切られた。犯人が言ったのは、「里中さんか?」、「いつまで待ったらいい?」、「じゃ、自分で決めろ!」の三つである。鬼無里は、今回も、金のやりとりについて何も出てこないことで、頭にできたしこりが膨らむのを感じていた。
D社からの連絡で、一回目、二回目と同じ番号の電話で、発信場所は、函館山周辺であった。犯人は、小樽から函館へ移動した。鬼無里は、小樽署の清川刑事に連絡を入れた。清川刑事は、函館へ急行するという。「清川刑事は、洞爺湖、室蘭、札幌、小樽そして函館と振り回されている。つぎに犯人が動くとすれば、何処だろうか?」鬼無里は、自問した。
日付が変わった。鬼無里は、里中厚と妻の映子に少し休むようにすすめたが、聞き入れないで、刑事たちと携帯電話を睨んでいた。しかし、昨夜十時半以降、携帯電話の着信音が鳴ることはなかった。
*
07:30(透析リミットまで、七時間三十分)
応接室にわずかな明かりが外からもれてきた。七時半を過ぎていた。住み込みのお手伝いさんが、簡単な朝食を用意した。鬼無里ら刑事たちはコーヒーをすすって、少し元気を取り戻したが、里中厚は憔悴しきっていた。妻映子のすすめを聞き入れ、暫く休むといって、自室にはいった。
鬼無里は、昨夜は一睡もしなかった。歳のせいで体はだるいが、頭は冴えきっていた。犯人と里中厚の間で、金のやりとりの話が出てこないのは何故だ?三千万円の身代金を要求されたというのは、我々が聞いていない一回目の電話だけだ。では、里中厚は、犯人から何を要求されているのか?犯人が小林宣雄として、五年前の交通事故の真相を明らかにするように迫っているのではないか?坂上みどりは、小林宣雄と行動を共にしているのか?いっしょだとすると、里中絵梨を誘拐し、いっしょにいるのは誰なのか?
鬼無里は、繰り返した。いきつくのは、三時までに、里中絵梨を病院に運ぶことであった。思考のループを切るように、鶴居刑事が恐る恐る声をかけた。
「警部、ちょっといいですか?」
「なんだ」
鬼無里は、怖そうに言ったことに気付き言い直した。
「すまない」
「いえ、犯人のつぎの移動先なんですが」
「何か、思いついたか?」
「これは、坂上みどりが犯人とした場合ですが。これまで、洞爺湖、室蘭、札幌、小樽そして函館と動いています」
鬼無里は、鶴居刑事のいうことに集中した。
「警部、確か清川刑事からの報告で、坂上みどりは、小さいとき、おじいさんに連れられ、津軽三味線の公演で、小樽、函館そして苫小牧を旅していたと」
「そういう話でした」
「それに」
鬼無里は、鶴居刑事が「苫小牧」というと思っていたが、鶴居刑事はそれを先延ばしにしておもしろい事を言い出した。
「警部は、北島三郎が大晦日に紙ふぶきの中で歌う『風雪ながれ旅』をご存知ですか?」
「もちろんだ」
「この演歌は、『ボサマ』と呼ばれた盲目の男芸人が、その日の糧を得るために、一軒一軒門付けして歩き、厳しい風雪や差別に耐えながら生きてきた様を歌ったものです」
「そうだな。確か最近、全盲の演歌歌手、清水博正もカバーしている」
鶴居刑事は、やっと鬼無里が思っていることを言った。
「一番が、津軽・八戸・大湊、二番が、小樽・函館・苫小牧、三番が、留萌・滝沢・稚内です。坂上みどりは、苫小牧に向かっています」
鬼無里が清川刑事に連絡し、犯人の行き先が苫小牧ではないかというと、清川刑事は、直ぐに同調した。
*
11:10(透析リミットまで、三時間五十分)
犯人から連絡はなかった。里中厚の様子を見に、部屋にいった妻映子の叫び声が、邸宅に響き渡った。駆けつけた鬼無里は、ドアノブにバスローブの紐をかけ、首をつっている里中厚を見た。救急車が呼ばれ、F大付属病院に搬送されたが、死亡が確認された。
里中厚の机上には、遺書らしき手書きの文書とワープロで整然と作成された上申書が、置いてあった。
遺書には、妻映子、長男亘、長女絵梨への思いと謝罪が書かれていた。
上申書は、神奈川県警鬼無里警部宛である。つぎの三点に要約された。
一つ、五年前、交通事故を装って、札幌地検特捜部の島牧検事を殺害、小林宣雄を加害者に仕立て上げた。手口は、警察が推測していた通りである。動機は、贈収賄事件を追っていた島牧検事の捜査が、自分に近づいてきたことを感じ、自分を守るためにやってしまったとあった。
二つ、磯子区森町の坂上みどりのマンションで、能勢仁を殺害したのは自分である。贈賄側の営業部長であった能勢仁には、毎月口止め料を払い続けていた。五年の公訴時効が成立したのを機に、一時金で最終決着を図ることになり、坂上みどりのマンションで話しを詰めていた。今後、能勢仁が完全に手を引くことをどのように担保するかで揉めた。一生、能勢仁から逃れられないと思い、坂上みどりがキッチンへ出て行ったすきに、用意してきたサバイバルナイフで刺した。坂上みどりに、口止めを頼んで、乗ってきた車で現場から立ち去った。
三つ目は、今回の長女絵梨の誘拐事件についてである。
一回目の電話で、三千万円の身代金を要求されたのは嘘で、小林宣雄は、五年前の交通事故の真実を明らかにするよう要求した。いっしょにいる坂上みどりは、能勢仁殺害の犯人として、自首して欲しいと頼んできた。つづく絵梨からの電話では、先ず亘が、自分の罪を、実の子の透になすりつけたままにしないでと、訴えた。そして、絵梨は、お兄ちゃんの言うとおりにして、と泣いていた。
最後には、絵梨を三時までに病院へ連れて行って欲しいと書かれていた。
鬼無里は、鶴居刑事に向かい、独り言のように言った。
「どこで狂ってしまったのかな」
十一
12:30(透析リミットまで、ニ時間三十分)
死亡した里中厚の携帯電話の着信音が鳴った。
「お父さん?」
前二回とは、違う声だった。鬼無里が応えた。
「お父さんの携帯だが、お父さんじゃない」
「誰?僕は亘だけど」
「覚えているか、神奈川県警の鬼無里だ」
「どうして、刑事さんが?」
「妹の絵梨さんが誘拐された。そして」
「えっ、絵梨ちゃんならいっしょにいるよ」
「今、どこにいる?」
「フェリーの上だけど」
「苫小牧?」
「そうです。もう直ぐ着岸の予定ですが」
「絵梨さんは元気か?三時までには、透析を開始しないといけない」
「大丈夫です。透のお母さん、僕にとってもおかあさんですが、迎えに来て、病院に連れていってくれることになっています」
「そうか。警察の人が迎えにいく。フェリーを降りたら、警察の人ところにいって欲しい」
「分りました。お父さんは?」
「数時間前に亡くなりました」
「えっ」
「自分の犯した罪を告白して。亘くんに謝っていたよ」
「そうですか」
「君たちのこと随分と心配したよ」
「すみませんでした。大洗を出ると直ぐに、携帯は圏外になってしまい、今、やっと繋がりました」
「絵梨さんに代わってくれるか」
泣きじゃくる絵梨の声が聞こえた。鬼無里は、電話を母親の映子に代わって、清川刑事に連絡、苫小牧港フェリー乗り場へ、急行するように伝えた。
*
13:15(透析リミットまで、一時間四十五分)
清川は、苫小牧港に到着した。
北海道胆振地方は、日本海から津軽海峡をすすんできた発達した低気圧の影響で、大荒れの天気になっていた。海上には波浪警報が出されていた。苫小牧港フェリー乗り場には、激しい雨がたたきつけていた。
清川は、パトカーの配置を決めると、びしょ濡れになってフェリーターミナルにはいっていった。待ちかねていたように、中年の男と女が、清川に近づいてきた。
「お世話をおかけしました。小林宣雄です」
男につづいて、女が口を開いた。
「坂上みどりです。さっき、フェリーにのっている亘くんから連絡をもらいました。坂上厚が死んだことも聞きました」
「そうですか。お話をお聞きするのは後にして、絵梨さんを病院に連れていくのを先ずやりましょう。話を通してあると言う病院は、苫小牧市立総合病院です」
「直ぐに、救急車を手配します」
と部下に指示した時であった。館内放送がフェリー到着の遅れを告げた。十三時三十分到着予定の『さんふらわーふらの』は、波が高いため接岸が困難で、暫く沖合いで待機するという。清川は、ターミナル事務所に駆け込んだ。接岸が何時ごろになるか聞いたが、低気圧が遠のき、波浪がおさまるまで、何時になるか分らないという答えであった。地方気象台に問い合わせたが、後、ニ時間は荒れた天気がつづくという話だった。
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13:30(透析リミットまで、一時間三十分)
清川は、鬼無里警部に連絡を入れた。
鬼無里警部の「海上保安庁のヘリを使え」ということばに従い、清川は第一管区海上保安部に、救助を依頼した。
清川は、沖合いに停泊する『さんふらわーふらの』を、降りしきる雨すだれを通して見ているだけであった。小林宣雄と坂上みどりも、窓ガラスに顔を近づけて、じっと灰色の海を睨んでいた。
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14:10(透析リミットまで、五十分)
清川は、雨の降る向きが、斜めから縦に変わったように思えた。その時、一台のヘリが陸地側から、ターミナルの上を越え、フェリー後部の甲板に着地するのを見た。数分後、ヘリは、甲板から飛び立つと、市内方向に向かった。
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14:50
清川と小林宣雄、坂上みどりは、パトカーで病院に着いた。人工透析室の窓越しに、絵梨の透析が始まったことを確かめた。廊下のベンチに座っていた里中亘が、戸惑った表情で三人を迎えた。
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清川は、絵梨の透析が終わるまでの時間に、小林宣雄、坂上みどりそして里中亘から、話を聞き、その内容を鬼無里警部に伝えた。
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坂上みどりは、野中(坂西)厚と別れた後、透と亘と名付けた双子の男の子を出産、小樽の実家で育てていた。里中厚と妻映子との間に長女絵梨が生まれたが、出産時の異常で、映子は子供を産めない体となった。里中厚は、病院の跡継ぎとして、半ば強引に亘を引き取った。
小林宣雄は、透を連れた坂上みどりと結婚した。野中厚の運転手をしていた5年前、飲酒運転で交通死亡事故を起こした。酒は飲まないのではなく、飲めなかったが、妻みどりの「晩酌をしていた」などの証言もあり、有罪となり服役した。坂上みどりは、元恋人の野中厚に頼まれて証言したという。その後、二人は離婚した。小林宣雄は、二週間前に仮出所し、当麻町の実家に身を寄せていたが、坂上みどりが謝りたいということで再会した。
坂上みどりと、山不二の社員、能勢仁とは、小樽で不倫関係にあった。それから、逃れるように三年前に横浜に移ったが、能勢仁が半年前に横浜にきた。能勢仁は、東洋光学の営業部長であったとき、医療機器の納入に便宜を図ってもらう見返りに、多額のワイロを野中厚に送っていた。それをネタに、能勢仁は、里中厚を強請っていたが、贈収賄が時効を迎えたのを機に、一時金で解決する話が二人の間で持ち上がった。詰めの話し合いを、坂上みどりのマンションでしていたが、話のもつれから、里中厚が能勢仁を刺し殺した。里中厚は、坂上みどりに「助けてくれ」と言って逃げた。
呆然と座り込んでいるところに、透が帰ってきた。能勢仁が殺されているのを見た透は、母親に、身支度をさせ、ワンボックスカーに乗せた。ここで、透は、里中亘を紹介、十数年ぶりに見るわが子であったが、何も明らかにしなかった。始発が動きはじめた横浜駅前でワンボックスから降りた。その後、各地を転々とし、幼馴染のいる、洞爺湖温泉・大和旅館に身を隠していた。
里中亘は、兄貴と慕っていた透に会いたいと、遺骨を置いてある小樽の実家を訪ねた。そのことを実家の人から聞いた坂上みどりは、里中亘と会うことにした。坂上みどりが実の母親で、透が双子の兄弟であることを知った亘は、大きなショックを受けた。それ以上に、父親の里中厚が、実の子である透に、能勢仁殺害の罪をなすりつけていることに大きな憤りを覚えた。
里中亘は、父親が、自分から話しても、真実を明らかにするような人間ではないと分っていた。そこで、妹の絵梨を連れ出し、その間に、真実を話すように父に迫ることを考え、坂上みどりに話しを持ちかけた。坂上みどりは、仮出所中の元夫、小林宣雄に話しをした。小林宣雄もまた、里中厚の口から真実を語らせたいと思った。
里中亘は、学校に行く途中の絵梨に声をかけ、兄妹は、大洗からフェリーに乗り苫小牧へ向かった。東京駅から大洗行きの高速バスに乗る前に、一度、父親の携帯に電話をいれたが、フェリーに乗ると、携帯は圏外となって、家とも坂上みどりとも連絡がとれなくなった。
坂上みどりは、洞爺湖温泉・大和旅館を出ると、JR特急『すずらん』にのって札幌に向かい、小林宣雄と合流した。二人は、レンタカーを借りて小樽、函館と回りながら、三回、里中厚の携帯に電話した。一回目の電話では、真実を話すように迫ったが、二回目、三回目は、警察がそばにいることを考え、誘拐や脅迫にならないように注意したという。
清川が、鬼無里警部への連絡を終わったとき、絵梨が三人の前に、元気な姿を見せた。
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つぎの日曜日と、清川刑事と島牧巡査の結婚式・披露宴が近づいていた。鬼無里は、媒酌人挨拶の原稿を繰り返し直しては、直し、再びはじめに戻ってしまうなど悪戦苦闘していた。その中に、何度も書き直した一節があった。
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今日、新婦のお父様は、天国から花嫁姿を見て、優しく笑っていると思います。島牧順平さんは、真実と正義を求め、悪と戦った勇気ある人です。そのため、自らの命を落すことになりました。新婦はどんなにさびし思いをされたことでしょう。島牧順平さんの勇気を受け継いだのは、北海道警では、『まむしの清』と呼ばれている新郎です。五年前の島牧順平さんの交通事故の真実を勇気をもって明らかにしました。
私は、新婦を自分の娘のように思っていました。間もなく、新郎と北海道へ行ってしまうことに………
おわり
四百字詰原稿用紙・106枚
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