風雪・本文

鬼無里警部シリーズ 第一話

        風雪
                                ニョッキ ゲタ

         一

 県警本部の四階にある取調室の鉄格子の窓から、赤レンガ倉庫が見える。現在は横浜観光名所となっていて、明治、大正時代に保税倉庫として使用された建物が、歴史的建築物に指定されている。テレビドラマ「あぶない刑事」のエンディングのロケに使われたことで、全国的に有名になった。昭和の終わりにはその役割を終え放置されていたが、平成十四年に商業施設、公園として整備された。
 鬼無里は、少年捜査課の係官と少年の取調べをはじめた。
「名前は?」
「………」
「名前を教えてくれるか」
「………」
「里中亘でいいかな」
「分っているなら聞かないでください!」
「間違いのない取調べをするために大切なことなんだ。歳はいくつかな」
「………」
「十七でいいな」
「………」
「自分の名前と歳を言わないといかんな。鬼無里(きなさ)という少し変わった苗字だ。歳は五十一だ」
「………」
「話たくなければ話さなくてもいい」
「………」
「そうか。いろいろと聞きたいことがある。一方的に話すから、何か言いたいことがあったら、いつでもかまわないから言ってくれ」
「………」
「住所は、横浜市中区山手×××だな。もっとも、最近は家に戻っていないようだが」
「………」
「家族は、父親、母親、妹と亘くんの四人だ」
「………」
「お父さんは有名私立大学の医学部の教授で付属病院の副院長、お母さんは」
「親のことはどうでもいいです」
「そうか。妹さんはお嬢様学校で有名なF学園中等部の二年生だ」
「………」
「亘くんも県内一の進学校のH高校だ。ただ、二年生になってからほとんど行っていない」
「………」
「ここまで間違いないかな」
「………」
「まず、事件の事実関係なんだが」
「………」
「今朝六時前、盗んだ小型ワンボックスを運転、コンビニ店頭に突っ込んだ。店内にいた客と店員の三人をはねとばし、怪我を負わせた。それにいっしょに乗っていた男が意識不明の重体となっている」
「………」
「小型ワンボックスは、事件の五時間前、別のコンビニのパーキングにエンジンをかけたまま駐車していたものを盗んだ」
「………」
「ここまでは事実だ。コンビニ店頭に突っ込んだ直後、ワンボックスから降りてきたところを目撃されている」
「………」
「ワンボックスのドア、ハンドルから君の指紋が検出されている」
「………」
「分らないことが二つある。一つは、運転していたのが君なのか、もう一人の男なのか。もう一つは、運転を誤っての事故なのか、故意にワンボックスを突っ込んだ事件なのかだ」
「………」
「目撃者の話では、道路から左折してコンビニパーキングに入り、スピードを落としたと途端、急加速して突っ込んだという」
「………」
「大事なことなんだ。事故だとしたら業務上過失傷害という罪で、故意にやったとしたら殺人未遂という罪で裁判になる」
「………」
「………」
「………」
「もうすぐ昼だ。午前中はこれで終わりにしよう。食べたいものはあるか?」
「カツ丼」
「分った」
「刑事さん。カツ丼をご馳走になっても何もしゃべりませんけど、いいですか」
「カツ丼には不思議な力があるようで、食べた後、何か話したくなるようだぞ」
「………」
 少年は、鬼無里が出前でとったカツ丼をペロリと食べた後、父親が選任したという弁護士と十分程面会した。普通は面会を認めないが、容疑者が少年であることを弁護士が強く主張した。午後の取調べはその後に始まった。
「カツ丼はうまかったか」
「………」
「お父さんがつけた弁護士さんは、凄腕(すごうで)だそうだ」
「………」
「弁護士さんと話はできたのかな」
「………」
「カツ丼の効果はまだのようだな」
「………」
「悲しい知らせが入った。重体だった男が死んだ」
「………」
「まだ、身元が分っていない。君の友達だろう、教えてほしいんだ」
「………」
「………」
「坂上透、磯子の方に母親と」
「磯子のどのあたりか知っているか」
「確か、以前には横プリがあったそばだと言っていたことがある」
「分った」
「透さんはどうして死んだんだ」
「コンビニ店頭に突っ込んだ時、頭部を強打して、脳内出血を起こした」
「俺のせいか」
「これから調べていかないと分らない」
「………」
「透くんとは友達か?」
「うん。友達というより兄貴と思っていた」
「すると、君より年上ということか。いくつか知っているか?」
「歳は同じ十七だ」
「透くんとはどのように知り合った?」
「ザキの裏通りで、喝あげされ、ボコボコになっているところを助けてもらった」
「それから兄貴分として付き合っていた?」
「そうです」
「午前中に聞いたことだが、ワンボックスを運転していたのは、どっちだ?」
「自分です」
「コンビニの店頭に突っ込んだのは、わざとか?それとも運転を誤ってか」
「ブレーキとアクセルを踏み間違えました」
「では、別のコンビニの駐車場からワンボックスを盗んだのは、どっちだ?」
「自分です」
「どうして?」
「昨日は、昼からいろいろあってむしゃくしゃしていて、ドライブに行こうと透さんを誘いました。たまたま、キーが付いたままのワンボックスがあったので盗んで、あのコンビニで飲み物を買おうとして」
「ワンボックスを盗んだのは亘くん、無免許で運転したのは亘くん、ブレーキとアクセルを踏み間違えてコンビニ店頭に突っ込んだのは亘くん、そして、同乗していた透くんを死なせ、店の人に怪我をさせたのは亘くん、で間違いないかな?」
「はい」
「業務上過失致死、傷害、窃盗、無免許運転ということか、未成年でも罪は重い」
「そうですか、仕方ないです。刑事さん、透さんに会えますか?」
「んー、難しいな」
「そうですか」
「今日の取調べはここまでだ。これから、亘くんの話の裏付け捜査だ」
 鬼無里は、看守に両脇を押えられて取調室を出ていく里中亘の横顔に、寂しげな翳(かげ)が走るのを見逃さなかった。

         二

 鬼無里が取調べから自席に戻ると、鶴居刑事が駆け寄って来た。
「警部、坂上透の母親のマンションで男が殺されていました!」
 鬼無里は立ち上がると大きな声を出した。
「どういうことだ?」
「はい、今、磯子署から連絡が入ったところですが、坂上透の母親の住むマンションを突き止め」
「それで」
「坂上透が死んだことを連絡しなければと、管理人に立ち会ってもらって部屋に入り、男が死んでいるのを発見したそうです」
 数時間後、磯子署から、鬼無里のもとに、事件のあらましがはいった。
 磯子区森町の坂上みどりのマンションで殺害されたのは、能勢仁、四十五歳である。三LDKの和室でうつ伏せに倒れ、刃物で刺されて大量に出血していた。死亡時刻は、深夜、一時からニ時と推定された。職業は、消費者金融「山不二」の社員である。
 行方の分らない坂上みどりは、三十九歳、息子の透と二人暮らしで、東京、横浜に付き合いのある親戚はなく、小樽にある実家とようやく連絡がついたという。
 以上の報告に対し、鬼無里は鶴居刑事に話かけた。
「鶴居さん、能勢仁が殺されたのが、今朝、一時からニ時?」
 鶴居刑事は鬼無里の意図を直ぐに掴むと、反応した。
「里中亘と坂上透がワンボックスを盗んだのが一時頃、運転してコンビニに突っ込んだのが、六時前です」
「盗んだ車で、坂本のマンションに行き、能勢仁を殺害、動揺していて、コンビニに突っ込んだ」
「考えられますね」
「磯子署に連絡しておいてください」
「分りました」
「今夜はこれくらいで上がりますか」
 こういう鬼無里の言い方が、お酒の誘いであること鶴居刑事は心得ていた。
「はい。その前に一つお話しておきたいことが」
「分った」
「コンビニの監視カメラの映像です。まず、ワンボックスが映っていますが、運転していたのが、里中亘なのか、坂上透なのか判別できませんでした」
「分った」
 鬼無里は、だいぶ喉が渇いてきたようで、答えが早くなっていた。
「もう一つ、前日の昼頃のテープに、坂上透らしき男が映っていました」
「えっ、ほんとうか」
「はい、それも三十分近く、二人の店員と何か言いあっている様です」
「明日、里中亘の取調べの前に、コンビニで話しを聞く必要があるな」
「そう思います。オーナーとその時の店員に会えるよう連絡しておきます」
 鶴居刑事が連絡を取り終わるのを待って、二人が部屋を出ようとすると、島牧巡査が来て、少し甘えるような声を出していった。
「お二人にお話したいことがあるんですが」
「なんだ?あらたまって」
「ごいっしょしてもいいですか?」
 鬼無里は、赤提灯のかかる居酒屋から、急遽、関内の天麩羅に場所を変えた。
 三人が向かったのは、関内駅近くの天麩羅屋である。個室がいくつかあって、カウンターに座った客の目の前で、板前が季節に合わせて、魚介類、山菜、きのこなどを揚げて、熱々を食べさせる。カウンターに座ると、鬼無里が、島牧巡査に聞いた。
「乾杯の前に話しを聞いたほうがいいかな」
「いえ、喉を潤してからで。私もそのほうが」
 グラスの生ビールで乾杯すると、三人それぞれ一息つくことが出来た。最初に出された銀杏の天麩羅を塩をつけて口に放り込むと、もじもじしている島牧巡査を見て、鶴居刑事が助け舟を出した。
「警部、島牧さんが言いたいこと分りました」
「自分も分ったけど、こういうことは自分から話さないと、幸せが逃げていってしまうと聞いたことがある」
 島牧巡査は鬼無里のことばに励まされたように口を開いた。
「警部、媒酌人をお願いしたいのですが」
 鬼無里は、島牧巡査の唐突な言い方に驚かされた。
「いつも冷静沈着な島牧さんらしくないですね。うれしいのは分りますが」
「すみません。何だかそわそわして、今度彼といっしょにお家にお邪魔して正式にお願いします」
「よく分らないが、鶴居さん、乾杯しましょう!」
 三人はいつの間にか空になっていたグラスの生ビールのおかわりをして、
「どうやら、島牧さんが結婚するらしい」
「乾杯!」、「乾杯!」
 グラスを置くと、少し冷静になって島牧巡査が話し始めた。
「あたふたしてすみません。十一月の終わりに婚約をして、来年には式を挙げたいと思っています」
「それは、おめでとう」
「はい、それで警部ご夫妻にご媒酌人をお願いしたいと思いまして」
「島牧さんのためなら、何でもするよ」
 鬼無里のことばに、鶴居刑事がことばをはさんだ。
「警部、相手が誰か知らなくて引き受けていいのですか」
「ああ、そうだ」
「すみません」
 と言って、島牧巡査はようやく落ち着きを取り戻してきた。
「お相手はどんな人かな?」
「警部も鶴居さんも知っている人です」
「鶴居さん、心当たりはありますか」
「いや、警察関係の人ですか」
 と鶴居刑事が、そろそろいったらという目を島牧巡査に向けた。
「すみません。北海道の小樽警察署の清川さんです」
「えっ、ほんとうですか!」
 鬼無里と鶴居刑事は、同時に大きな声をあげた。天麩羅を揚げていた板前の手が一瞬とまった。
 清川刑事は、小樽から苫小牧、倶知安を回り、今は再び小樽勤務となっていた。どこの警察勤務となっても、『まむしの清(きよ)』と呼ばれ、体内にまむしの血清を持っていると言われる。犯罪を憎み、一端犯人の尻尾を掴むと絶対に離さないという。鬼無里が警察学校で教官をしたときの教え子である。
「いつからつき合っているんだ?」
 鬼無里の質問に、鶴居刑事がいった。
「警部、取調べではありませんから」
「そうだな」
 鬼無里は黙って話を聞くことにした。島牧巡査の話では、一年半程前に、清川刑事が出張で横浜に来たとき、鬼無里が、鶴居刑事と島牧巡査を連れて、中華街で食事をした。その時に知り合って、遠距離の交際を始めたという。積極的にアプローチしたのは自分の方だとはにかみながらいった。
 鬼無里は、自分の教え子と娘のように可愛がっている子が結婚すると聞いて、嬉しくなっていた。グラスの生ビールのお代わりも増えてきた。
「マムシに噛みつかれたかと思ったら、マムシに噛みついた。マキちゃんの毒は、マムシの血清には効き目がなかった」
 鬼無里は少し酔った。鶴居刑事が、その場を上手に仕切ってくれた。最後にかき揚げをご飯にのせた天茶をすすって、おひらきとなった。

         三

 日の出の時刻もすっかり遅くなって、朝早くには吐く息も気持ち白く見える。鬼無里と鶴居刑事は、修復中のコンビニを訪ねた。コンビニのオーナーと事故の前日の昼ごろ、パートで勤務していた四十代の女が店の前で、出迎えてくれた。二人から聞いた話はつぎのようである。
 当時、店内にはパートとアルバイトの二人の店員がいて、パート店員が商品を陳列棚に並べていると、若い男の客が、男性用化粧品の小さい箱をポケットに入れるのを見つけた。そのまま、男を目で追っていると、ペットボトルの飲み物、おにぎり、サンドイッチをカゴに入れ、レジで支払いをした。男性用化粧品の小さい箱はポケットにはいったままである。パート店員は、レジ前から出口への通路に立ちふさがり、男にポケットのものを出すようにいった。男は「そんなものはない」と言い争いになり、ついには、男は上着とTシャツ、ズボンを脱いだ。オーナーが駆けつけたのは、その後だった。上着とズボンから何もでてこなかった。オーナーとパート店員は土下座して謝り、一万円の入った茶封筒を男に渡すと、男はそれと先ほど買ったレジ袋を投げ返すと黙って店を出て行ったという。
 鬼無里が坂上透の写真を二人に見せると、その時の男だと曖昧に答えた。念のため、里中亘の写真も見せると、その時の男のようにも見えると言い出した。鬼無里は二枚の写真を見ながら、里中亘と坂上透が良く似ていると思った。県警本部への帰路、鶴居刑事も同じことを思っていたようで、
「警部、よく似ていますね」
 といった。
「どちらが、万引きと間違われコンビニでトラブルになったか、重大な鍵になりそうですね」
「今日中に、里中亘を送検するか、釈放するか決めなければなりません」
「どちらにしても、物的証拠が欲しいな」
「わかりました」
 鶴居刑事は言ったもののあてがあるわけではなかった。
 県警本部へ戻ると、磯子署に置かれた、能勢仁殺害の捜査本部で鬼無里は現場指揮をとることになっていた。鬼無里は里中亘の取調べを終わってからということにし、鶴居刑事が先に磯子署に向かった。
 鬼無里は、昨日と同じ少年捜査課の係官と里中亘の取調べを始めた。
「夜は眠れたか」
「はい」
「新たなことが出てきた。ワンボックスを突っ込んだコンビニで、一昨日の昼、万引きをした、しないというトラブルがあった」
 里中亘は何も反応せずに黙ってきいている。
「店の人の話では、その客は、亘くんのようでもあり、坂上透にも似ていると言っている」
「自分じゃありません」
「では、坂上透から何か聞いたか」
「いえ、何も」
「では、ワンボックスを盗んだ後、あのコンビニへ行ったのは」
「湘南方面に行く途中だったから」
「………」
「嘘じゃありません」
「分った」
 里中亘がもじもじとして何か言いたそうな目を向けた。
「何か言いたいのかな」
「すみません。昨日いったことですが、嘘を言っていました」
「どういうことだ」
「はい。ワンボックスを盗んだのは透さんです」
「なんだと」
「すみません。ワンボックスを運転して、コンビニ店頭に突っ込んだのも透さんです」
「では、昨日はどうして自分がやったといったんだ」
「透さんが死んでしまって。自分が運転していたことにすれば、親父が怪我をした人の病院代やコンビニ建物の修理代、ワンボックスの修理代など」
「お父さんが出してくれると」
「ほんとうか」
「はい」
 鬼無里は里中亘が前日の供述をひるがえしたことに不自然さを感じていた。今朝の取調べの前に里中亘に面会した弁護士が、知恵を授けたと思われた。鬼無里は、後を少年捜査課の係官に任せ、磯子署の捜査本部に向かった。
 その日の午後、里中亘は釈放、父親がつけた弁護士が、不当逮捕だと言い残して、里中亘を引き取っていった。

         四

 磯子署におかれた『消費者金融社員殺人事件・捜査本部』で、全体会議が開かれた。昨日からの初動捜査で判明したことの報告が、各捜査員からあった。
 殺害されたのは、能勢仁、四十五歳、殺害場所は、磯子区森町×丁目××番地、メゾン磯子1001号で、坂上みどりが借りていた三LDKの和室である。司法解剖の結果、死因は失血死。胸、腹を三箇所、左利きの強い力で刺した傷跡であった。死亡推定時刻は、一時半から、二時半の一時間に絞られた。凶器は見つかっていない。
 被害者の職業は、消費者金融「山不二」横浜支店の支店長で、今年になって、小樽にある本店から転勤になっている。坂上みどりには、「山不二」からの借金はないという。能勢は、殺される前日の夜九時すぎに支店を出て、その後の足取りは分っていない。
 坂上みどりは、三十九歳、息子の透と二人暮らしである。横浜馬車道にある会員制高級クラブで、雇われママをしている。色白、小顔で色気があり、それに歳のわりに若く見え、店にはママを目当てにくる客も多いという。
 三年前までは、小樽で生命保険の外交員をして、息子を育てていた。夫とは五年前に離婚している。その元夫は小林宣(のぶ)雄(お)といい、業務上過失致死の罪で、懲役七年の実刑判決をうけて服役、仮釈放中である。
 坂上みどりの息子は、透、十七歳、正しくは享年十七歳である。昨日の午前六時頃、盗んだワンボックスでコンビに突っ込み、重体となっていたが、同日昼ごろ、死亡した。母親と小樽から横浜に来て、私立高校に入学したが、ほとんど学校へはいかず、暴力団の使い走りみたいなことをしていたという。
 犯行時刻と思われる二時過ぎ、マンションの住人が帰宅した時、黒っぽい車が走り去ったのを目撃している。そのほか、物音を聞いたとか、坂上みどりの姿を目撃したものはいない。
 概略の報告が終わったところで、鬼無里が口を開いた。
「坂上みどりの行方は、まだ掴めませんか?」
 先に捜査本部にはいっていた鶴居刑事が答えた。
「まだ分りません。横浜での付き合いはほとんどないようです」
「小樽と生まれ故郷の洞爺湖の方は?」
「小樽署に捜索を頼みました。清川刑事がやってくれるそうです」
 鬼無里は、つづけ聞いた。
「確か「山不二」の本社は小樽、被害者も今年のはじめまで小樽本店に勤務していた」
「そうです」
「被害者と坂本みどりの関係は、横浜に来てからですか?それとも」
「そのあたりは、これから調べてみます」
 つづいて、鬼無里は、坂上透の足取りについて、自ら説明した。
「一昨日の昼ごろ、コンビニで、万引きと間違われトラブルとなった。その夜一時頃、里中亘という少年と、別のコンビニの駐車場からワンボックスを盗み、六時頃にトラブルのあったコンビニに突っ込んだ。二つのコンビニ間は、車で十分位の距離、一時から六時まで何をしていたのか分っていない」
 鶴居刑事が確認した。
「一時に、ワンボックスを盗み、磯子区森町のマンションに行き、二時に能勢仁を殺害、六時にコンビニに突っ込むことも可能です」
「もう一度、里中亘から話を聞く必要があるな。これまでのいきさつがあるので、自分がやることにします」
「分りました。周辺の聞き込みを徹底するほかに?」
鬼無里が捜査員の顔を見渡しながら、指示をあたえた。
「横浜での能勢仁と坂上みどりの関係を調べてくれ。小樽で関係があるかどうかは、小樽署の清川刑事に追加でたのもう。それに、坂上みどりの元夫の事件についての資料も取り寄せておいてくれ。もう一つ、坂本透が犯人だと仮定して、犯行を裏付ける証拠がでてこないか?」
「分りました」
 鶴居刑事が答えた。
「予見は禁物ですが」
 と鬼無里は自分にも言い聞かせるようにいった。
         *
 翌日、事件は急速に解決に向かった。
 鬼無里は、再び里中亘から、弁護士を同席した上、話を聞いた。里中亘は、事前に弁護士から、想定質問に対する答えを教えられていたようで、何の感情も表さずに、淡々と質問に答えた。前の取調べでは、透さんと呼んでいたのを、坂上透と呼び捨てにした。
 コンビニで、万引きと間違われ、トラブルになったのは、坂上透である。むしゃくしゃしているので、ドライブに行こうと里中亘を誘った。坂上透が盗み、運転してきたワンボックスに拾ってもらうと、坂上は用事があると磯子区森町のマンションに向かい、里中亘を助手席において、マンションにはいっていった。二時頃であったという。直ぐに、ワンボックスに戻ってきて、慌てた様子で車を発進させた。しばらく走り回った後、坂上は飲み物が欲しいと、コンビニ駐車場にはいり、そのまま店に突っ込んだという。
 能勢仁が殺害された時刻に、坂上透が現場にいたことは間違いないと考えられた。また、坂上透が左利きであったことも証言した。
 夕方には、小樽署の清川刑事から連絡がはいった。
 能勢仁の妻は、呆れ顔で、「自業自得!」とはき捨てたという。5年位前、坂上みどりが小樽で保険の外交員をしていた時に、不倫関係となり、それがばれた。坂上みどりが横浜に転居したことで、関係は切れていたものと思っていたと、妻は話した。能勢仁の遺体の引き取りには、能勢仁の実兄が向かったという。
 清川刑事は、報告を終わると、
「警部、あのー」、「警部、あのー」
 と口ごもった。鬼無里は、清川刑事が何を言いたいのかすぐ分った。
「喜んで、引き受けるよ」
 清川刑事の緊張している様子が受話器越しに伝わってきた。
「近いうちに二人でお願いに上がりますので、よろしくおねがいします」
「妻の菜穂子もはりきっているよ」
 鬼無里の優しいことばに、安心したように清川刑事は話を付け加えた。
「お会いしてから、お話したほうが良いかと思うのですが」
「なんだ?」
「はい、島牧さんには内緒にして欲しいのですが」
「結婚する前から秘密はいかんぞ」
「いえ、そうじゃないんです。警部から依頼されたもう一つの件」
「坂上みどりの離婚した夫、小林宣雄が起こした交通事故の件?」
「はい、事故で死亡したのは、牧ちゃんのお父さんなんです」
 鬼無里は、島牧巡査から父親の交通事故の件は聞いていた。札幌地検特捜部の検事をしていた島牧順平は、早朝の散歩中にひき逃げされ死亡したという。
「それなら、秘密にする必要はないのでは?」
「はい、ただ、少し気になるところがあって」
 清川刑事は、電話では話しづらそうであった。
「何に噛みついたんだ?その件も、含めて待っているよ」
 と鬼無里は、電話を切った。
 そして、翌日には有力な物的証拠があがってきた。
 坂上透の衣服に付着していた血液の鑑定の結果、坂上透自身の血液の他に、袖口から、能勢仁の血液が検出されたのである。
 捜査本部は、死亡した坂上透を、能勢仁殺害の有力容疑者と断定、後は、事情を知っていると思われる坂上みどりの捜索に的を絞った。それに伴い、捜査本部の看板は残したものの、捜査体制を縮小した。

         五

 一週間位経った金曜日の夕方、鬼無里の元に、島牧巡査がつぎの日曜日に家に来たいと言ってきた。鬼無里は家に電話を入れ、妻菜穂子の都合を確認して、快諾した。島牧巡査が退署した頃を見計らったように、小樽署の清川刑事から電話がはいった。日曜日に来る旨繰り返した後、明日土曜日に、先に鬼無里に会って、島牧巡査の父、島牧順平さんの交通事故について、相談したいと言ってきた。鬼無里は、島牧巡査には内緒で会うことを承諾した。
 土曜日の昼過ぎ、清川刑事が、県警本部に鬼無里を訪ねてきた。この日は、島牧巡査は非番で、本部が二人にとって一番いい場所であった。清川刑事は、仲人の依頼を照れながらしたあと、島牧巡査の父親、島牧順平の事故について、つぎのように話した。
 島牧順平は、当時四十六歳、札幌地方検察庁特捜部の検事であった。横浜に、妻と大学生の長男、高校生の長女(島牧巡査)と中学生の次女を残して、札幌に単身赴任していた。
 札幌といえども寝苦しい夜が続いた八月四日、島牧順平は、いつもとおり、朝五時前に官舎を出て、豊平川の堤防に向かった。歩行者用信号が青に変わって一歩踏み出した時、信号を無視、猛スピードで走ってきた小型乗用車にはね飛ばされ、十数メートル宙をまって、路面に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。はねた車は一旦停止するかのように、スピードを落としたが、再び、加速して猛スピードで走り去った。事故を目撃した後続の車の運転手が救急車を呼んだが、到着した時には既に死亡していた。事故の目撃者は、この運転手の他、散歩中の人など数人いた。その中の一人が覚えていたナンバーから、一台の白いカローラが緊急手配され、三十分には、事故現場から2キロ先で、縁石に乗り上げ、電柱に助手席側をぶつけ、フロントガラスを割った、同車が発見された。
 運転手の姿は車内になく、付近を捜索すると、数十センチに葉を伸ばし、水をはった田んぼに男が落ちているのが発見された。救急車が呼ばれ、病院に搬送されたが、手にかすり傷があるだけであった。搬送中に、救急隊員が、男が酒臭いことに気づき、警察で検査、呼気一リットルあたり、0・6ミリグラムのアルコールが検出され、男の呂(ろ)律(れつ)が回らないことから、酒酔い運転と断定した。
 酒酔い運転に加え、ひき逃げ、業務上過失致死の容疑で逮捕されたのは、小林宣(のぶ)雄(お)、当時、三十八歳、道立小樽医科大学で、お抱えの運転手をしていた。事件当日、小林宣雄は、医学部部長を、午前二時頃に小樽にあるマンションにおくった。そこで、自分のカローラと入れ替えて、札幌の自宅に帰る途中、事故をおこした。
 裁判では、普段からお酒を飲まないし、お酒を飲んだ記憶はないと主張したが、ワンカップの容器が車内から発見された。業務上過失致死罪で一番重い、懲役七年の実刑判決を受け、千葉の市原刑務所で服役、仮出所中である。
 ここまでの説明を聞いていた鬼無里が口を開いた。
「お父さんの事故をきっかけで、警察官になると決めたんだそうだ」
 清川刑事も少し沈んだ声で応えた。
「はい、飲酒運転を絶対になくすんだと何度も聞きました。その時の彼女の目、澄んで、強い意志を示していました」
「そうだな。そういうところに惚れたのかな?」
「警部、ちがいます」
 清川刑事は、少しむきになっていった。
「ところで、清川さんは、この事件のどこに噛みついたのかな?」
「まだ、はっきりとはわからないのですが」
「かまわんよ。可愛い教え子の話だ。なんでもいいよ」
 鬼無里の優しい言葉に、一息吸って、清川刑事がつづけた。
「二つあるんです。一つは、小林宣雄はお酒は飲まないのではなく、飲めなかったそうです。警察でも、裁判でも、主張したそうですが」
「聞き入れてもらえなかった。アルコール検査の結果と車内から見つかったワンカップの容器は確固たる物的証拠だからな」
「そうなんです」
「もう一つは?」
「はい。小林宣雄が送り迎えをしていた医学部部長は、里中厚といいます。警部から坂上みどりの捜索の依頼がありました。その時、里中亘という名前が出たと思うのですが」
「確かに、捜索を頼んだ坂上みどりの息子、事故で死んだ坂上透の友達」
「里中というのは、そんなに多い苗字じゃありません」
「それで、里中厚を追った」
「はい、二年前に道立小樽医科大学を退職し、東京にあるK大付属病院の副院長におさまっている。つぎの院長だそうです」
「大分噛みついたようだが」
「すみません。まだ、何もわからないのですが」
「それで」
「お願いも二つあります」
「ん、清川さんは二つが多いな。三つあると、信憑性が確かになるんだが」
 鬼無里は、詰まった話に、風を吹き込んだ。
「島牧順平さんの事故の真相を突き止めたいいのです。一つは、プライベートなことになりますが、納得できる真相が明らかになるまで、式を挙げるのを待ちたいと思います。そこを何とか、島牧さんにはわからないようにお願いしたいんです」
「難しい注文だな」
 鬼無里は口ではいったものの、目が了解していた。
「もう一つは、里中厚の身辺調査です。小樽の方で出来ることは自分がやりますので」
「わかった。それも島牧巡査のためだ」
「ありがとうございます」
 鬼無里は、清川刑事を自分の息子を見る眼差しで見ていった。
「清川さんの危惧があたっていたら、敵は手ごわい相手だ。もう、独り身じゃないんだから、無理をするなよ。わかったな」
「はい、ありがとうございます」
 清川刑事は、深々と頭をさげた。
 翌日曜日、清川刑事と島牧巡査が昼前に鬼無里の家にきた。菜穂子は、前日からはりきって、普段は見たこともない料理を用意した。中華街で料理人をしている養女のひろ子が手伝いにきて、ほとんどを作ってくれたようだ。
 清川刑事のご両親、島牧巡査の母親とお兄さんが加わっての婚約式が、一ヶ月後ときまった。鬼無里は、それまでに解決しなければと、清川刑事と同じ気持ちを持った。

         六

 小樽に戻ると、清川は、当麻町に小林宣雄を訪ねた。
 小林宣雄は、刑期を残して仮出所、実家に身を寄せていた。事故について聞くと、「もうすんだことですから」と多くを語らなかった。一つだけ分らないことがあると、裁判での元妻と自分が運転手をしていた医学部長の証言について話した。自分が酒を飲まないのではなく、飲めなかったことを知っていたにもかかわらず、元妻の坂上みどりは、大酒飲みではなかったが、家では晩酌をしていたと証言した。医学部長は、運転手をしていたので、飲まないようにしていたのではと証言した。何故、そうしたのか理解出来ず、弁護士に対し、事実と異なると話した。しかし、飲酒運転をして死亡事故をおこしたという事実を覆すには、意味がないと無視されたという。その他、事故全般については、捜査記録、裁判の記録と大きな相違がないと、言葉少なくいった。
         *
 清川は、数日後、札幌地検を訪ねた。鬼無里警部が話しを通してくれていた、三上検事が応対してくれた。鬼無里警部は、三上検事が横浜地検時代、その指揮の下捜査にあたった時期があったという。現在は、札幌の特別刑事部で、脱税、贈収賄事件を担当している。島牧順平が交通事故死した時、島牧と同僚であった。
 初対面の挨拶が済むと、三上検事は、検事とは思えない気さくな、人懐っこい目を清川に向けた。
「あなたが『まむしの清』、いや失礼。一度お会いしたいと思っていました。それに、ごいっしょに仕事を出来たらと」
 清川は何と答えてよいか戸惑った。
「いえ、あの。光栄です」
 三上検事はつづけた。
「それに、島牧さんのお嬢さんとご結婚されると、鬼無里さんから聞きました。おめでとう」
「ありがとうございます」
「死んだ島牧さんも、あなただったら安心していますよ」
 清川は、本題にはいった。
「今日、お伺いしたのは………」
 すぐさま、三上検事は口元を引き締めていった。
「鬼無里さんから聞いています。横浜で、消費者金融「山不二」の社員である能勢仁が殺された。殺害場所は、坂上みどりという女のマンションで、現在、行方不明となっている。犯人は、息子の坂上透とされているが、同じ日に事故で死亡している」
 三上検事は、一息ついでつづけた。
「坂上みどりの身辺を洗っていくうち、離婚した夫、小林宣雄が交通死亡事故を起こして服役、仮出所中であることがわかった。その被害者が、あなたと結婚する予定のお相手のお父さん、島牧順平さんとわかった」
 清川は、鬼無里警部から的確に話しが通じていることに関心した。
「確かに、そのとおりです」
「あなたは、事故を調べていくうち、いくつかの疑問をもった。そして、『まむしの清』が噛みついた。いや、これは失礼」
「構いません」
「加害者の小林宣雄は酒を飲めなかったということ、そして、鬼無里さんの事件のほうで、里中厚という、名前が出てきたこと」
「はい。息子の里中亘と死んだ坂上透は友達、その日、盗んだワンボックスにいっしょにいたということ」
「偶然が重なりすぎていないかと」
「そのとおりです」
 三上検事は、少し間をおいて、清川の目を確かめると、口を開いた。
「これから私がお話するのは、自分にとって恥ずかしいことになります。それに、捜査上の秘密にあたるところがあります。でも、島牧順平さんは、いつも、『真実を明らかに、それからだ』が口癖でした」
「どういうことでしょうか」
 清川は、何が語られるのか身を引き締めた。三上検事はつぎのように話した。
 島牧検事が交通事故死する半年前から、札幌地検特捜部(現在は、特別刑事部と改称)は、道立小樽医科大学と大手医療機器商社・東洋光学をめぐる贈収賄の内定をすすめていた。捜査は、この二者から、道庁、道議会を巻き込む展開となった。しかし、突然、検察上層部から捜査の打ち切り命令が下りた。自分は悔しい思いながら従ったが、島牧順平は密かに内定をすすめて、大きな証拠を掴んだようであった。島牧検事が交通事故で死んだのはそんな時であった。
 本当に交通事故なのか、もしかしたら事故に見せかけて殺されたのではないかと、疑念をもったが、特捜部の検事が交通事故に口を挟むことは難しかった。
 三上検事は、清川に懇願するような目をむけた。
「今でも、島牧順平さんの死に疑問を持っている。そして、北海道の医学界の黒い部分が闇に葬られたままになっているのは悔しい」
 検事らしからぬ言い方であった。清川は、三上検事のことを思った。正直で、正義感が強く、でも弱い面もあわせもつ人間らしい人だ。
「島牧順平さんの死が、交通事故でないとしたら」
 清川の質問に対し、三上検事が答えた。
「これは証拠はまるでない、想像だが」
 と断って話した。
 捜査をなかなかやめない島牧検事の手が、自分のそばまで来ていることを知った、医学部長であった里中厚は、島牧検事の殺害を計画、島牧検事が毎朝、散歩するところを狙うことにした。日付が変わった午前二時頃に小樽にあるマンションに、小林宣雄が運転する公用車で送ってもらった。小林宣雄が公用車と自分の白いカローラと入れ替えて、札幌に帰ろうとしたとき、車に戻ってきて、睡眠薬か催眠剤を飲ませ、意識を失わせる。さらに、口から食道にいれた管をとおして、ワンカップの酒を流し込み、酒酔い状態にする。助手席に小林宣雄を乗せ、里中亘は、白いカローラを運転し札幌へ向かう。いつものように散歩にでた島牧順平をはねて、そのまま逃走した。2キロ先で、車を縁石に乗り上げ、電柱に助手席側をぶつけた。小林宣雄を助手席から引きずりだし、道路わきの田んぼに、投げこみ、その場から逃走した。
「これが、自分の推理なんだが、証拠を掴めなかった」
 清川は、話を聞き終わると質問した。
「里中亘は、何故、運転手の小林宣雄を殺さなかったのでしょうか」
 三上検事は、少し考え込んでから、いった。
「そのへんは良く分らないが。例えば、山中の崖下にでも車を転落させれば殺せたかもしれないが、そうすると自分が逃走するのが難しくなる」
「そうですね」
 三上検事は、長い間自分の中だけにしまっておいたことをはきだして、最初の柔和な表情に戻っていた。そして、自分には、何もできないが、島牧順平の無念を晴らして欲しいと清川に頼んだ。
 清川は、現場百回という鬼無里警部の教えを実践しようとした。が、島牧順平が事故死した場所は、高速道路の建設が始まっていて、以前の道路や交差点は跡形もなく無くなっている。小林宣雄が運転していたとされる白いカローラが電柱に衝突した場所も同様であった。島牧順平の死を事故死から殺人へと覆す糸口を見出すのは、清川にとって至難のように思われた。

         七

 里中厚の身辺調査を請け負った鬼無里も、里中厚の経歴を明らかにしたものの、どこから切り込むか、手がかりを掴むことができないでいた。
 里中厚、旧姓を坂西といい、四十六歳、横浜市港南区で生まれ。普通のサラリーマン家庭、弟と妹の三人兄弟であった。高校まで、横浜の公立高校に通ったが、大学は、道立小樽医科大学に進学、成績優秀でそのまま大学に残り、助手から助教授、教授、医学部長とトントン拍子に出世した。三年前に、小樽医科大学を退職、横浜にあるK大付属病院の副院長におさまっている。
 私生活では、二十代後半に、K大付属病院の院長の長女と結婚、いずれは跡を継ぐことになっている。子供は、十七歳になる高校生の長男と十三歳の中学生の長女の二人である。長男の亘は、高校も休みがちで、不良グループとの付き合いが日常化していた。
 事態が打開されないなか、鬼無里は、清川刑事が送ってくれた交通事故の捜査記録を読み直した。交通事故ではないことを匂わせる事実を見出すことはできなかった。捜査記録自体が、交通事故の捜査記録として作られているから、当たり前といえば、当たり前であった。
 鬼無里の目が、捜査記録の終わりのほうに貼ってある一枚の写真に張り付いた。
「鶴居さん!」
 大声で呼ぶと鶴居刑事がとんできた。
「警部、どうかしましたか」
「この写真は、小林宣雄の白いカローラです。島牧順平さんをはね、その後、歩道にのりあげ、電柱に衝突した」
「ええ、その写真に何か」
 鬼無里は、ペンで写真をなぞりながら話しを続けた。
「ここに、車の助手席側のタイヤ痕が六つ写っています。多分、前輪のものが三つ、後輪のものが三つです。一番左のもの、そう歩道よりのものは、わずかにタイヤ痕と確認できる程度です。真ん中のものは、後輪の方が、はっきりとブレーキ痕として残っています。歩道に対して鋭角になるようにバックして急停止、それでできたのではと思います。そして、一番右のものは、前輪のほうが、はっきりと跡がついています。カローラはFFですから、急発進で前進させたときついたものと思われます」
 鬼無里は一気に話すと大きく息をついだ。鶴居刑事が、鬼無里に代わって、後を継いだ。
「里中厚は、酩酊させた小林宣雄を助手席に乗せたまま、島牧順平さんをはねた後、数キロ先で、車を停め、助手席から小林宣雄を引きずり出して、道路脇の田んぼに投げこむ。その後、車に戻り、一旦バックして、急発進で助手席側を電柱にぶつける」
 鬼無里は、事実は鶴居刑事が話した通りであると思った。
「その通りだと思うが、まだ、われわれの推測の域を出ない。交通事故担当の鑑識さんに見てもらおう。それに、清川さんに連絡だ」
 鬼無里は、小樽署の清川刑事に連絡をいれた。この件について話をすると、興奮している様子が受話器から伝わってきた。清川刑事は、当時の札幌中央警察署の交通課に話を聞いてみるという。そして、清川刑事から、新たなことがわかったという報告があった。
 一つは、横浜で殺された「山不二」の社員、能勢仁の前職が判明したこと。大手医療機器商社・東洋光学の社員で、五年前には北海道支店の営業部長であったという。もう一つは、坂上みどりの女友達の話として、坂上みどりは、里中(坂西)厚の恋人だったということ。里中厚が、K大付属病院院長の長女と結婚するというので、身をひいたという話である。
 鬼無里も清川刑事も、事件のおぼろげな全体像が見えてきたものの、ほとんどが推測であることを理解していた。
 翌日には、鑑識に頼んでおいた、白いカローラのタイヤ痕についての見解が、鬼無里のもとへ届けられた。それによれば、タイヤ痕については、鬼無里の推測を裏付けるものであった。そして、余計なことですがという前書があってつぎのように書いてあった。
 鬼無里の推測が一つであるが、もう一つ、酩酊者が車を運転すると、縁石にぶつかって、パニックになり、バックして、再び前進させるということはよくあるという。

         八

 週末の日曜日には、清川と島牧巡査の婚約式が迫っていた。
         *
 木曜日の昼過ぎ、洞爺湖温泉の旅館から、坂上みどりが宿泊しているとの通報があった。清川は、伊達警察署に坂上みどりの身柄の確保を依頼、小樽から、国道5号線をパトーカーの赤色灯を回し、けたたましいサイレンの音を響かせて疾走した。が、途中、伊達警察署から、すでに坂上みどりは、旅館を出た後であったという連絡がはいった。清川は、事情を詳しく聞くため、そのまま洞爺湖温泉に急行した。
 大和旅館は、洞爺湖温泉の湖畔から有珠山にのぼる中腹にある。平成十二年の有珠山噴火では、数十メートルまで溶岩流が迫り、火山弾、火山灰が降り注いだという。築四十年の建物は、初めて訪れると、泊まるのを一瞬と惑ってしまうような外観の古い建物である。一転、建物の中は、ロビー、廊下、部屋、温泉の脱衣場など隅々まで掃除が行き届いている。自慢の温泉は、湯量豊富な、ろ過循環なしの天然温泉、寒い季節には、この上ない贈りものとなる。夕食は、旅館を切り盛りする大将と若女将が作る夕食は、分厚い、さしがはいったラム肉たっぷりのジンギスカンに、地元食材を使った料理、品数は少なくても、一品、一品が満足すると評判である。
 清川は、旅館のロビーで、二人から話を聞き始めた。
「坂上みどりは、何時から泊まっていましたか?」
 落ち着いた表情で、大将が答えた。
「十日前からです」
「××日の火曜日からです」
 若女将が付け加えた。
「一人でしたか?」
「はい、一人で来られて、暫く逗留したいと」
「今日、警察に連絡されたのは?」
「はい、午前中に、観光組合の会合がありまして、そこで、みどりさんを警察が捜していることを知りました。もっと、早く気がつけば良かったのですが、すみません」
 清川は、質問を続けた。
「今日になって旅館を出たのは?」
「はい、会合からもどり戻り、みどりさんに、警察が捜していることを話すと、「ちょっと事情があるの」と言って、簡単な荷物をまとめ、出ていきました」
「バスか、タクシーで?」
「はい、タクシーを呼びました。地元のタクシーですので、運転手さんに来てもらいましょうか?」
「お願いします」
 清川は、大将が、坂上みどりのことを、お客様とか、坂上様とか言わないで、みどりさんと言うことが気になった。
「坂上みどりさんは、十日間、どう過ごしていましたか」
「一日に、一、二時間、湖畔や溶岩公園のほうに散策に行くほかは、部屋にいることが多かったと思います」
「電話とか、誰かが訪ねてくるとか」
「誰も訪ねてきませんでした。電話は、ご自分の携帯電話を使っていたようです。部屋の前を通った時、話声が聞こえましたから」
「そうですか。つかぬことをお聞きしますが」
 大将は、怪訝な表情を浮かべて聞いた。
「なんでしょうか?」
「大将は、坂上みどりのことを、みどりさんと言いますが?」
「ああ、坂上みどりさんとは、昔の知り合いで、つい」
「幼馴染なんです」
 若女将が、悪戯っぽい目をくりくりさせて言った。
「小学校の二年か三年まで、いっしょだっただけです」
「そうですか、坂上みどりさんの生い立ちのようなことをお話いただけますか?」
「はい、うろ覚えですが」
 大将は、坂上みどりについて、次のような話をした。
 坂上みどりの家は、洞爺湖温泉で芝居小屋を営んでいた。ストリップショー、大衆演劇、歌謡ショー、浪曲や津軽三味線などの公演を小屋にかけ、昭和五十年代までは、繁盛していた。祖父が津軽三味線の名手で、洞爺湖温泉の小屋で唄会を開く他、小樽、函館から苫小牧まで、道内の小屋を回って公演していた。みどりは、いつも祖父に連れられ、出かけていたという。坂上みどりは、小さいときから愛くるしい顔に、いつも笑みをたたえ、周りから可愛がられた。小学校に入っても人気ものであった。大将も、三十年ほどの時がたっても、旅館に訪れた時には、すぐに分ったという。
 有珠山の噴火で、客足が減り、温泉街にかげりが出始めた頃、いつの間にか小屋を閉め、いつの間にか一家は、洞爺湖温泉からいなくなっていたという。
 大将は、すまなそうに言った。
「何せ昔のことなんで」
 清川が答えた。
「よく分りました。ありがとうございます」
 ちょうど、坂上みどりを乗せたというタクシーが旅館に来た。運転手は、客をJR伊達紋別駅で降ろした。車中で、「レンタカーの営業所はあるか?」と聞かれたので、室蘭まで行かないとないと答えたという。
 清川は、大将が温泉をすすめるのをやっと断って、何かあった時の連絡先のメモを残し、国道5号線を小樽に向かった。運転しながら、大和旅館の大将と若女将のことを思い出していた。「島牧巡査と、あの二人のような家庭を作れたら……」。
 そのまま小樽署に泊まった清川は、外出していた鬼無里警部が帰署する時間を見計らって、連絡をいれた。坂上みどりの消息についての話が終わろうとした時、鬼無里警部の大きな声が、受話器をゆすって、耳に響いた。
「ちょっと、このまま待て!」

         九

 14:30
 娘が誘拐されたとの通報を受け、鬼無里は、里中厚の自宅に急行した。
 到着した鬼無里に、里中厚は次のように話した。
 長女、絵梨十四歳が学校に来ていないと、F学園中等部から連絡がり、里中厚は病院から家に戻り、妻や使用人と心あたりを探がしていた。十三時七分に、里中厚の携帯に男の声で電話が入った。男は、「娘をあずかった。三千万円、用意しろ。警察には言うな。また、連絡する」と短く言うと電話を切った。直ぐ後、十三時十二分に、長女、絵梨から、電話があり、「パパ、言うとおりにして。元気だから、大丈夫。お願い」と言って電話が切られた。暫く、警察への連絡をためらっていたが、十四時に通報したという。
 ここまでの話を聞いた鬼無里は、里中厚が使用している携帯電話会社D社に連絡をいれ、つぎのことを依頼した。
 一つは、携帯電話の通話内容を録音するためアダプタを、携帯電話とパソコンに接続すること。これは、直ぐに技術者を派遣するので、三十分程で準備できるという。
 二つ目は、野中厚の携帯電話に着信があったときに、速やかかに、発信者の番号、契約者の名前、発信基地局を通知してもらうこと。これは、発信者がD社の携帯電話であれば、十分以内に可能であるが、S社、A社の場合だと、二、三十分かかるという。D社が、S社、A社と連携をとると言う。
 三つ目は、里中厚への二度の電話に関する発信者情報の提供である。本来は、通信機密の開示ということで、裁判所の令状を必要とするが、緊急事態ということで対応してくれることになった。
 これらの態勢を整えて、鬼無里は、里中厚と妻の映子から話を聞くことにした。
「まず、十三時七分の男から電話ですが、相手の言ったことをもう一度お願いできますか?」
 里中厚は、緊張しているためか、声を震わせて言った。
「はい、「娘をあずかった。三千万円、用意しろ。警察には言うな。また、連絡する」と」
 通報してきたときと、寸分違わない言い方であった。
「では、男の声に聞き覚えはありましたか?」
「いいえ」
 鬼無里は質問を続けた。
「三千万円ですが、用意できますか?」
「はい、私の貯金と、後は、妻の実家に頼みました」
「金を渡さずに、お嬢さんを取り返したいと思いますが、用意だけはお願いします」
 鬼無里は、続けての電話に質問を切り換えた。
「二度目のお嬢さんからの電話では?」
「はい、元気だから、犯人の言うとおりにしてと」
「声は、お嬢さんに間違いありませんか」
「ええ、時々、電話で話しているので間違いありません」
「そばに誰かいるような気配はありましたか?」
「急に、電話機をとられたように、通話がきれました。その時、なんとなく男の声が聞こえたような気がして」
「そうですか、話し声のうしろに何か聞こえませんでしたか?例えば、電車の音とか?」
「はい、駅構内とか、人が大勢いるようなザワザワした雰囲気を感じました」
 鬼無里がつぎの質問に移ろうとしたときだった。
         *
 15:10
 捜査員から渡されたメモを見た鬼無里は、別室に用意された警察用の部屋に入った。メモには、つぎのようにあった。
 ○○○―○○○○―○○○○、契約者・坂上みどり、発進基地局・札幌大通り公園近辺
 △△△―△△△△―△△△△、契約者・里中厚、発信基地局・東京駅周辺
 鬼無里は、小樽署の清川刑事に連絡をいれ、坂上みどりの身柄の捕捉に全力をあげるよう伝えた。「男は誰か?」、清川刑事に、当麻町の実家に身を寄せている仮出所中の鈴木宣雄の行方を質してみると、昨日から行方が分らなくなっているという。二人はいっしょにいる可能性があることを示唆した。
 二つ目の電話は、娘の絵梨からで間違いなさそうである。ということは、犯人は複数で、東京と札幌にいる。例えば、坂上みどりが東京で絵梨を拉致、鈴木宣雄が札幌で脅迫する。鬼無里は、どこまでを里中厚に話をするか、慎重に言葉を選んだ。
「里中さんは、坂上みどりという女(ひと)をご存知ですか?」
「………」
 里中厚は口ごもった。
「どうですか?」
「はい、知っています」
「どういうご関係ですか?」
「私が結婚する前の恋人です」
「それだけですか?」
 里中厚は訝しげな顔を鬼無里に向けた。
「それだけというと?」
「里中さんが小樽におられた時、大学お抱えの、あなた担当の運転手が、飲酒運転で交通死亡事故を起こしたことを覚えていますか」
「ああ、そうですか」
 急に思い出したように続けた。
「運転手、確か名前を小林といったと思います。彼の裁判に証人として出廷した時、同じ証人として、坂上みどりがいました。すごく驚いたのを思いだしました」
「その時の、小林宣雄と坂上みどりの関係をご存知でしたか?」
「はい、当時は結婚していて、小林みどりといっていたと思います」
「最近、坂上みどりと会ったことは?」
 と立て続けに質問した時、里中厚は、不快感を顔いっぱいに浮かべていった。
「刑事さんは、私を尋問しているんですか?」
「いや、そんなことはありません。お嬢さんを助けるためです。不愉快なこともありましょうが、協力して下さい」
「………」
 鬼無里は、話を変えた。
「続けての電話は、お嬢さんの電話機から、お嬢さんが掛けたのに間違いないと思います。場所は、東京駅周辺からです」
「そうですか。今、どこにいるか、分りますか?」
「いえ、電源を切っているようで、繋がりません。東京駅というと、新幹線で何処かへ向かうことが考えられますが、心当たりはありますか?」
「いえ、とくに」
 と言ったあと、深刻な表情で付け加えた。
「絵梨は、慢性腎不全という病をもっています。週に二回、私の病院で人工透析を受けています。火曜日と土曜日。それまでに、探しだしてください」
「そうですか、それは心配です。リミットは明日の何時頃ですか?」
「はい、遅くとも午後三時までに透析を開始しないと」
「あらゆることをします」
 と、鬼無里は言うと、もう一つと、長男・里中亘の居所を聞いてみたが、里中厚は再び不機嫌な顔をして、ニ、三日、家に戻っていないと言ったきりであった。
         *
 16:05(透析リミットまで、二十二時間五十五分)
 小樽署の清川刑事から連絡がはいった。坂上みどりと小林宣雄の行方はまだ分っていない。洞爺湖温泉の大和旅館で、坂上みどりを乗せた運転手が、室蘭にいけばレンタカーがあると話したことから、室蘭のレンタカーの営業所を全部当たったが、該当する客は見当たらなかった。そして、女一人で札幌にいくには、室蘭から札幌行きのJR特急『すずらん』を利用すれば、所要時間が一時間五十分ほど、坂上みどりはこちらを利用したのではないかと思うと付け加えた。引き続き、二人の捕捉に全力をあげると言って、連絡を終わった。
 三千万円がそろい、バックに詰め込み終わると、鬼無里ら数名の刑事と、里中厚と妻の映子は、応接テーブルの上に置かれた、パソコンにアダプタで繋がれた携帯電話を睨みはじめた。時計の秒針は、いつもと同じペースで時を刻んでいた。

        十

 18:00(透析リミットまで、二十一時間)
 着信音が息詰まった空気を破った。拡声した電話機から絞るような低い声が聞こえた。
「里中さんか?」
 里中厚は緊張した声で応えた。
「そうです。絵梨は?」
「警察にはなした…」
「………」
「早くしろ!」
「絵梨は?」
 通話が一方的に切られた。犯人が発した言葉は、「里中さんか?」、「警察にはなした…」、「早くしろ!」の三つのフレーズだけであった。「警察にはなした…」の最後が「な」であるか「か」であるか分らなかったが、警察が動き出したのを知って「警察にはなしたな」と脅したものと判断した。通話を録音したDVDは直ちに、科捜研に送られた。
 十分しない内に、携帯電話会社のD社から連絡がはいった。一回目と同じ、坂上みどりが契約しているもので、発信場所は、小樽運河周辺と分った。犯人は、札幌から小樽へ移動したことになる。
 鬼無里は、再び、携帯電話を睨み始めた。二回目の通話内容から、鬼無里の頭に、小さなしこりのようなものが出来始めていた。「金のことがやりとりに出てこない」。
         *
 22:30(透析リミットまで、十六時間三十分)
 三回目の電話が入った。二回目と同じ声だった。
「里中さんか?」
「そうです」
「いつまで待ったらいい?」
「それは………」
「じゃ、自分で決めろ!」
「絵梨は、透析をしないと」
 今回も通話が一方的に切られた。犯人が言ったのは、「里中さんか?」、「いつまで待ったらいい?」、「じゃ、自分で決めろ!」の三つである。鬼無里は、今回も、金のやりとりについて何も出てこないことで、頭にできたしこりが膨らむのを感じていた。
 D社からの連絡で、一回目、二回目と同じ番号の電話で、発信場所は、函館山周辺であった。犯人は、小樽から函館へ移動した。鬼無里は、小樽署の清川刑事に連絡を入れた。清川刑事は、函館へ急行するという。「清川刑事は、洞爺湖、室蘭、札幌、小樽そして函館と振り回されている。つぎに犯人が動くとすれば、何処だろうか?」鬼無里は、自問した。
 日付が変わった。鬼無里は、里中厚と妻の映子に少し休むようにすすめたが、聞き入れないで、刑事たちと携帯電話を睨んでいた。しかし、昨夜十時半以降、携帯電話の着信音が鳴ることはなかった。
         *
 07:30(透析リミットまで、七時間三十分)
 応接室にわずかな明かりが外からもれてきた。七時半を過ぎていた。住み込みのお手伝いさんが、簡単な朝食を用意した。鬼無里ら刑事たちはコーヒーをすすって、少し元気を取り戻したが、里中厚は憔悴しきっていた。妻映子のすすめを聞き入れ、暫く休むといって、自室にはいった。
 鬼無里は、昨夜は一睡もしなかった。歳のせいで体はだるいが、頭は冴えきっていた。犯人と里中厚の間で、金のやりとりの話が出てこないのは何故だ?三千万円の身代金を要求されたというのは、我々が聞いていない一回目の電話だけだ。では、里中厚は、犯人から何を要求されているのか?犯人が小林宣雄として、五年前の交通事故の真相を明らかにするように迫っているのではないか?坂上みどりは、小林宣雄と行動を共にしているのか?いっしょだとすると、里中絵梨を誘拐し、いっしょにいるのは誰なのか?
 鬼無里は、繰り返した。いきつくのは、三時までに、里中絵梨を病院に運ぶことであった。思考のループを切るように、鶴居刑事が恐る恐る声をかけた。
「警部、ちょっといいですか?」
「なんだ」
 鬼無里は、怖そうに言ったことに気付き言い直した。
「すまない」
「いえ、犯人のつぎの移動先なんですが」
「何か、思いついたか?」
「これは、坂上みどりが犯人とした場合ですが。これまで、洞爺湖、室蘭、札幌、小樽そして函館と動いています」
 鬼無里は、鶴居刑事のいうことに集中した。
「警部、確か清川刑事からの報告で、坂上みどりは、小さいとき、おじいさんに連れられ、津軽三味線の公演で、小樽、函館そして苫小牧を旅していたと」
「そういう話でした」
「それに」
 鬼無里は、鶴居刑事が「苫小牧」というと思っていたが、鶴居刑事はそれを先延ばしにしておもしろい事を言い出した。
「警部は、北島三郎が大晦日に紙ふぶきの中で歌う『風雪ながれ旅』をご存知ですか?」
「もちろんだ」
「この演歌は、『ボサマ』と呼ばれた盲目の男芸人が、その日の糧を得るために、一軒一軒門付けして歩き、厳しい風雪や差別に耐えながら生きてきた様を歌ったものです」
「そうだな。確か最近、全盲の演歌歌手、清水博正もカバーしている」
 鶴居刑事は、やっと鬼無里が思っていることを言った。
「一番が、津軽・八戸・大湊、二番が、小樽・函館・苫小牧、三番が、留萌・滝沢・稚内です。坂上みどりは、苫小牧に向かっています」
 鬼無里が清川刑事に連絡し、犯人の行き先が苫小牧ではないかというと、清川刑事は、直ぐに同調した。
         *
11:10(透析リミットまで、三時間五十分)
 犯人から連絡はなかった。里中厚の様子を見に、部屋にいった妻映子の叫び声が、邸宅に響き渡った。駆けつけた鬼無里は、ドアノブにバスローブの紐をかけ、首をつっている里中厚を見た。救急車が呼ばれ、F大付属病院に搬送されたが、死亡が確認された。
 里中厚の机上には、遺書らしき手書きの文書とワープロで整然と作成された上申書が、置いてあった。
 遺書には、妻映子、長男亘、長女絵梨への思いと謝罪が書かれていた。
 上申書は、神奈川県警鬼無里警部宛である。つぎの三点に要約された。
 一つ、五年前、交通事故を装って、札幌地検特捜部の島牧検事を殺害、小林宣雄を加害者に仕立て上げた。手口は、警察が推測していた通りである。動機は、贈収賄事件を追っていた島牧検事の捜査が、自分に近づいてきたことを感じ、自分を守るためにやってしまったとあった。
 二つ、磯子区森町の坂上みどりのマンションで、能勢仁を殺害したのは自分である。贈賄側の営業部長であった能勢仁には、毎月口止め料を払い続けていた。五年の公訴時効が成立したのを機に、一時金で最終決着を図ることになり、坂上みどりのマンションで話しを詰めていた。今後、能勢仁が完全に手を引くことをどのように担保するかで揉めた。一生、能勢仁から逃れられないと思い、坂上みどりがキッチンへ出て行ったすきに、用意してきたサバイバルナイフで刺した。坂上みどりに、口止めを頼んで、乗ってきた車で現場から立ち去った。
 三つ目は、今回の長女絵梨の誘拐事件についてである。
 一回目の電話で、三千万円の身代金を要求されたのは嘘で、小林宣雄は、五年前の交通事故の真実を明らかにするよう要求した。いっしょにいる坂上みどりは、能勢仁殺害の犯人として、自首して欲しいと頼んできた。つづく絵梨からの電話では、先ず亘が、自分の罪を、実の子の透になすりつけたままにしないでと、訴えた。そして、絵梨は、お兄ちゃんの言うとおりにして、と泣いていた。
 最後には、絵梨を三時までに病院へ連れて行って欲しいと書かれていた。
 鬼無里は、鶴居刑事に向かい、独り言のように言った。
「どこで狂ってしまったのかな」

         十一

 12:30(透析リミットまで、ニ時間三十分)
 死亡した里中厚の携帯電話の着信音が鳴った。
「お父さん?」
 前二回とは、違う声だった。鬼無里が応えた。
「お父さんの携帯だが、お父さんじゃない」
「誰?僕は亘だけど」
「覚えているか、神奈川県警の鬼無里だ」
「どうして、刑事さんが?」
「妹の絵梨さんが誘拐された。そして」
「えっ、絵梨ちゃんならいっしょにいるよ」
「今、どこにいる?」
「フェリーの上だけど」
「苫小牧?」
「そうです。もう直ぐ着岸の予定ですが」
「絵梨さんは元気か?三時までには、透析を開始しないといけない」
「大丈夫です。透のお母さん、僕にとってもおかあさんですが、迎えに来て、病院に連れていってくれることになっています」
「そうか。警察の人が迎えにいく。フェリーを降りたら、警察の人ところにいって欲しい」
「分りました。お父さんは?」
「数時間前に亡くなりました」
「えっ」
「自分の犯した罪を告白して。亘くんに謝っていたよ」
「そうですか」
「君たちのこと随分と心配したよ」
「すみませんでした。大洗を出ると直ぐに、携帯は圏外になってしまい、今、やっと繋がりました」
「絵梨さんに代わってくれるか」
 泣きじゃくる絵梨の声が聞こえた。鬼無里は、電話を母親の映子に代わって、清川刑事に連絡、苫小牧港フェリー乗り場へ、急行するように伝えた。
         *
 13:15(透析リミットまで、一時間四十五分)
 清川は、苫小牧港に到着した。
 北海道胆振地方は、日本海から津軽海峡をすすんできた発達した低気圧の影響で、大荒れの天気になっていた。海上には波浪警報が出されていた。苫小牧港フェリー乗り場には、激しい雨がたたきつけていた。
 清川は、パトカーの配置を決めると、びしょ濡れになってフェリーターミナルにはいっていった。待ちかねていたように、中年の男と女が、清川に近づいてきた。
「お世話をおかけしました。小林宣雄です」
 男につづいて、女が口を開いた。
「坂上みどりです。さっき、フェリーにのっている亘くんから連絡をもらいました。坂上厚が死んだことも聞きました」
「そうですか。お話をお聞きするのは後にして、絵梨さんを病院に連れていくのを先ずやりましょう。話を通してあると言う病院は、苫小牧市立総合病院です」
「直ぐに、救急車を手配します」
 と部下に指示した時であった。館内放送がフェリー到着の遅れを告げた。十三時三十分到着予定の『さんふらわーふらの』は、波が高いため接岸が困難で、暫く沖合いで待機するという。清川は、ターミナル事務所に駆け込んだ。接岸が何時ごろになるか聞いたが、低気圧が遠のき、波浪がおさまるまで、何時になるか分らないという答えであった。地方気象台に問い合わせたが、後、ニ時間は荒れた天気がつづくという話だった。
         *
 13:30(透析リミットまで、一時間三十分)
 清川は、鬼無里警部に連絡を入れた。
 鬼無里警部の「海上保安庁のヘリを使え」ということばに従い、清川は第一管区海上保安部に、救助を依頼した。
 清川は、沖合いに停泊する『さんふらわーふらの』を、降りしきる雨すだれを通して見ているだけであった。小林宣雄と坂上みどりも、窓ガラスに顔を近づけて、じっと灰色の海を睨んでいた。
         *
 14:10(透析リミットまで、五十分)
 清川は、雨の降る向きが、斜めから縦に変わったように思えた。その時、一台のヘリが陸地側から、ターミナルの上を越え、フェリー後部の甲板に着地するのを見た。数分後、ヘリは、甲板から飛び立つと、市内方向に向かった。
         *
 14:50
 清川と小林宣雄、坂上みどりは、パトカーで病院に着いた。人工透析室の窓越しに、絵梨の透析が始まったことを確かめた。廊下のベンチに座っていた里中亘が、戸惑った表情で三人を迎えた。
         *
 清川は、絵梨の透析が終わるまでの時間に、小林宣雄、坂上みどりそして里中亘から、話を聞き、その内容を鬼無里警部に伝えた。
         *
 坂上みどりは、野中(坂西)厚と別れた後、透と亘と名付けた双子の男の子を出産、小樽の実家で育てていた。里中厚と妻映子との間に長女絵梨が生まれたが、出産時の異常で、映子は子供を産めない体となった。里中厚は、病院の跡継ぎとして、半ば強引に亘を引き取った。
 小林宣雄は、透を連れた坂上みどりと結婚した。野中厚の運転手をしていた5年前、飲酒運転で交通死亡事故を起こした。酒は飲まないのではなく、飲めなかったが、妻みどりの「晩酌をしていた」などの証言もあり、有罪となり服役した。坂上みどりは、元恋人の野中厚に頼まれて証言したという。その後、二人は離婚した。小林宣雄は、二週間前に仮出所し、当麻町の実家に身を寄せていたが、坂上みどりが謝りたいということで再会した。
 坂上みどりと、山不二の社員、能勢仁とは、小樽で不倫関係にあった。それから、逃れるように三年前に横浜に移ったが、能勢仁が半年前に横浜にきた。能勢仁は、東洋光学の営業部長であったとき、医療機器の納入に便宜を図ってもらう見返りに、多額のワイロを野中厚に送っていた。それをネタに、能勢仁は、里中厚を強請っていたが、贈収賄が時効を迎えたのを機に、一時金で解決する話が二人の間で持ち上がった。詰めの話し合いを、坂上みどりのマンションでしていたが、話のもつれから、里中厚が能勢仁を刺し殺した。里中厚は、坂上みどりに「助けてくれ」と言って逃げた。
 呆然と座り込んでいるところに、透が帰ってきた。能勢仁が殺されているのを見た透は、母親に、身支度をさせ、ワンボックスカーに乗せた。ここで、透は、里中亘を紹介、十数年ぶりに見るわが子であったが、何も明らかにしなかった。始発が動きはじめた横浜駅前でワンボックスから降りた。その後、各地を転々とし、幼馴染のいる、洞爺湖温泉・大和旅館に身を隠していた。
 里中亘は、兄貴と慕っていた透に会いたいと、遺骨を置いてある小樽の実家を訪ねた。そのことを実家の人から聞いた坂上みどりは、里中亘と会うことにした。坂上みどりが実の母親で、透が双子の兄弟であることを知った亘は、大きなショックを受けた。それ以上に、父親の里中厚が、実の子である透に、能勢仁殺害の罪をなすりつけていることに大きな憤りを覚えた。
 里中亘は、父親が、自分から話しても、真実を明らかにするような人間ではないと分っていた。そこで、妹の絵梨を連れ出し、その間に、真実を話すように父に迫ることを考え、坂上みどりに話しを持ちかけた。坂上みどりは、仮出所中の元夫、小林宣雄に話しをした。小林宣雄もまた、里中厚の口から真実を語らせたいと思った。
 里中亘は、学校に行く途中の絵梨に声をかけ、兄妹は、大洗からフェリーに乗り苫小牧へ向かった。東京駅から大洗行きの高速バスに乗る前に、一度、父親の携帯に電話をいれたが、フェリーに乗ると、携帯は圏外となって、家とも坂上みどりとも連絡がとれなくなった。
 坂上みどりは、洞爺湖温泉・大和旅館を出ると、JR特急『すずらん』にのって札幌に向かい、小林宣雄と合流した。二人は、レンタカーを借りて小樽、函館と回りながら、三回、里中厚の携帯に電話した。一回目の電話では、真実を話すように迫ったが、二回目、三回目は、警察がそばにいることを考え、誘拐や脅迫にならないように注意したという。
 清川が、鬼無里警部への連絡を終わったとき、絵梨が三人の前に、元気な姿を見せた。
         *
 つぎの日曜日と、清川刑事と島牧巡査の結婚式・披露宴が近づいていた。鬼無里は、媒酌人挨拶の原稿を繰り返し直しては、直し、再びはじめに戻ってしまうなど悪戦苦闘していた。その中に、何度も書き直した一節があった。
         *
 今日、新婦のお父様は、天国から花嫁姿を見て、優しく笑っていると思います。島牧順平さんは、真実と正義を求め、悪と戦った勇気ある人です。そのため、自らの命を落すことになりました。新婦はどんなにさびし思いをされたことでしょう。島牧順平さんの勇気を受け継いだのは、北海道警では、『まむしの清』と呼ばれている新郎です。五年前の島牧順平さんの交通事故の真実を勇気をもって明らかにしました。
 私は、新婦を自分の娘のように思っていました。間もなく、新郎と北海道へ行ってしまうことに………

         おわり

四百字詰原稿用紙・106枚

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赤い靴・本文

十返舎警部シリーズ 第五話
         赤い靴
                                                                                            ニョッキ ゲタ

         一

 十返舎は十年前の出来事を思い出していた。
 八月始めの暑い日であった。十返舎の妻、菜穂子は京都から来た旧友二人を案内し、元町から外人墓地、港の見える丘公園を回って、山下公園前のビルの最上階にある中華レストラン『西天楼』の窓側のテーブルについた。紺碧の海、深緑の山下公園が目の前に広がっていた。建物、道路など人造建造物は、太陽の熱を白く反射していた。
 菜穂子が公園前の道路に目を移した時であった。
 黒い背広姿の男が、大きな鍔の帽子をかぶった女から、小さい女の子を奪い取るように抱えると黒塗りの車に押し込み、車は走り去った。女は車を追うようなしぐさを見せたが、落ちていた何かを拾うと、幾十もの枝が生茂るブルック松がつくる日陰に消えていった。
 十数秒の出来事であった。菜穂子は県警本部の十返舎に電話を入れると、直ぐに来るという。ビルの一階玄関に出ると、丁度、パトカー二台が到着したところで、その後に続いた赤色灯を回転させた車から十返舎と鶴居刑事が降りてきた。
「女児が連れ去られた場所は?」
 夫の声にいつもの優しさはなかった。まるで自分を犯人扱いしているような言い方だった。
「ここです」
 菜穂子も他人のような言い方をわざとした。
「車を急発進させたタイヤ痕が残っている。立ち入り禁止にして、鑑識さんに頼もう」
 結構恰好いいなと思っていると、直ぐにつぎの質問がきた。
「車の種類は?」
「黒のベンツかと」
「ナンバーは?」
「すみません。読み取れませんでした」
「そうか。で、男は?」
「黒いスーツを着ていました。暴力団関係の人のようにも見えましたが、予見かもしれません」
 十返舎は次から次へと質問を繰り出した。
「女の子は?」
「幼稚園児くらい、四才から六才くらいの女の子でした」
「女は」
「大きな鍔の帽子を被っていたのでよく分かりませんが、二、三十代の若い女性に見えました」
「服装は?」
「ジーンズに白いブラウス」
 十返舎は、黒塗りベンツ、ナンバー不明での手配を指示すると、女が入って行ったという山下公園の中に向かった。菜穂子も従った。ブルック松がつくる木陰で、道路側とは打って変わって、時折涼しい風が吹きぬけていた。涼をもとめにきたお年寄りや若いカップルがベンチや芝生で港を眺めている。
 十返舎は菜穂子がいう姿の女を捜したが見当たらなかった。数人の人に聞いてみたが分からなかった。菜穂子の呼ぶ声が聞こえた。
「これは女の子のものではないでしょうか」
 『赤い靴の少女像』の前に、片方だけの赤い靴が置かれていた。
「連れ去られた女の子のものでしょうか」
 いっしょに来た鶴居刑事が聞いた。
「多分……」
 十返舎は曖昧に答えた。
 約一月の間、女児を連れ去られたという情報を待った。山下公園付近に目撃者探しの立て看板を設置したが、有力情報は出てこなかった。唯一の手がかりであった現場のタイヤ跡から、車種がベンツと特定されたものの車を割り出すことはできなかた。
 十返舎の元に、証拠品として片方だけの赤い靴が残った。

         二

 十返舎の机の上には、片方の赤い靴と赤い靴の映った一枚の写真が置いてあった。赤い靴は十年前の出来事が事件とならなかったために廃棄処分となったものを、十返舎が気になってロッカーの奥にしまっておいたものである。写真は、北海道倶知安警察署の清川刑事が十返舎に照会してきたものであった。
 清川刑事は、小樽から苫小牧と周り、今は倶知安勤務となっていた。どこの警察勤務となっても、『まむしの清』と呼ばれ、体内にまむしの血清を持っていると言われる。犯罪を憎み、一端犯人の尻尾を掴むと絶対に離さないという。十返舎が警察学校で教官をしたときの教え子で、清川刑事は何かにつけて十返舎を頼りにしていた。
 清川刑事は、事件とも事故ともいえない管内で起きた事案を次のように説明した。
 倶知安警察署は北海道の倶知安町、ニセコ町、喜茂別町、京極町、蘭越町、真狩村、留寿都村を管轄している。一週間程前、その留寿都村役場から、隣りにある赤い靴公園の駐車場に一夜置いたままになっている乗用車があるとの連絡があり、駐在さんが出向いた。乗用車はドアはロックされておらず、エンジンキーは差し込まれたままであった。そして、駐在さんは、助手席のシートから床にかけて、血痕と思われる跡が転々としていたのを発見し、本署に連絡、清川刑事らが現場に駆けつけた。
 放置された乗用車は、新千歳空港のレンタカー店で前日に貸し出されたもので、免許証の写しには、札幌市の十九才の山本里奈とあった。確認をとったところ、該当する住所に山本里奈は住んでいたが、レンタカーは当日借りていないという話である。遺留品は後部座席に片方だけの赤い靴が置いてあった。現場の赤い靴公園には、自分を外国人宣教師に預け、留寿都村に開拓に入った母を思う少女の像『母思像』があることから、何らかの意味があるかと思われたが謎であった。そして、鑑識の結果、助手席についた血痕は、少なくとも半年以上前のものであることが判明、レンタカー店の説明で、客が助手席でリンゴの皮を剥いていて過って指を切った時についたものと分かった。
 ここまで聞いていた十返舎が口を挟んだ。
「それでどういう相談なのかな」
 清川刑事が一方的にしゃべってしまったことにどぎまぎしている様子が声から伝わった。
「すみません。それで、この事案は、レンタカーの客が不正な免許証を使ってレンタカーを借りて放置した事件として扱うことになりました」
「何か不満なようだが、どこに噛み付いたんだ」
「後部座席に置かれた片方だけの赤い靴です」
「なるほど。それで」
 十返舎は、清川刑事が赤い靴から自分を思い出したのだと直ぐに察した。
「まだ何もありませんが。警部が山下公園を案内してくれた時、赤い靴の少女像の前に、片方だけの赤い靴が置かれていたとお話になったのを覚えています」
「うん、そういうことか」
「はい」
「まだ、何処かにしまってあるはずだ。探し出したら写真を送るから、そちらの写真を送ってくれるか」
「わかりました」
 片方の赤い靴と赤い靴の映った一枚の写真、鶴居刑事や島牧巡査に見てもらっても、同じだという。十返舎は、手元の赤い靴を倶知安警察署の清川刑事に送った。鑑定の結果、片方づつの靴は、同じ子が履いた一足の靴だと断定された。
 清川刑事は鑑定結果の報告と合わせて、次のような話をした。
 地元紙に、赤い靴が車に置かれていたことが書かれて、テレビでも取り上げられ話題になっているという。横浜で離れ離れになった母娘、娘が童謡になぞって、留寿都村に母を追ってきたのではないかというものだ。テレビのワイドショーでは、心当たりがある母の申し出を待っているという。
 そういう話題はあっという間に過ぎ去ってしまう。十返舎も、清川刑事も、殺人、強盗という凶悪事件が専門である。日々発生する事件に追われて、どんどんと頭の隅に赤い靴は追い遣られていった。

         三

 まだ暑さが残る八月の終わり、十返舎は鶴居刑事、島牧巡査と数少なくなった屋上ビアガーデンで暑気払いをして、家に帰った。妻の菜穂子が珍しく、慌ただしく新聞を持ってきた。
「この記事なんだけど」
「慌ててどうした」
「ここ。麻布十番にある『きみちゃん像』の募金を、今年もユニセフに寄付したというニュースなんですが」
「一、 二年前に累計一千万円を越えたと聞いたことがある」
「この一年の間に、匿名の高額な寄付があって通常年の倍になったと書いてあります」
「それが」
「十年前の山下公園で見つかった赤い靴、留寿都村の赤い靴公園で見つかったもう一方の赤い靴、何か関係があるような気がして」
 十返舎は、菜穂子がすっかり探偵気分になっているのを見抜いた。
「十年前の出来事を覚えているんだ」
「ええ、今でも山下公園に行くと思い出します。今日のように暑い日は特に」
「今度の休みの日に、麻布へ行ってみようか」
 と言うと、菜穂子のはしゃいだ声が返ってきた。
「美味しいお店があるらしいの。調べておくわ」
 十返舎は菜穂子のペースにはまってしまったのにようやく気づいた。
 一日おいて、二人は麻布に出かけた。何度か来ているが、地下鉄の大江戸線が出来て便利になっている。麻布十番駅で降り、地下深くから何度もエスカレータに乗り、長い通路を通ってようやく外に出た。商店街発行の案内図は分かり易く、パティオ通りを『きみちゃん像』に向かって歩いた。両側はビルになっているものの、中には昭和の風情を残したお店もある。人も結構でていて活気のある街である。
 『きみちゃん像』は坂を上った小さな空き地に建っていた。正面左には、小さい募金箱が置いてあった。菜穂子が小さい声で言った。
「かわいい。山下公園の像がすましているのに、愛くるしい」
 十返舎もそう思ったが口には出さなかった。二人は百円づつ募金した後、商店街の振興組合の事務所を訪ねた。応対してくれたのは、組合の理事長、七十過ぎの白髪の紳士で、古くからの豆屋の大主人で、店を息子に譲って組合の仕事をしているという。
 十返舎が訪問の趣旨を丁寧に説明すると、何でもお話しますという。
「匿名の高額な寄付があったと聞きますが」
 十返舎は尋問にならないように言葉を選んだ。理事長は丁寧に答えた。
「はい。まだ、一週間前のことです」
「どういうことがありましたか?」
「組合に電話がありました。『きみちゃん像』の募金箱の横に少し高額の寄付を置いたので収納して欲しいと」
「それは男からですか?それと女」
「若い女の声でした」
「像のそばに寄付金は置いてあったのですね」
「はい、目と鼻の先ですので直ぐにいきました。茶封筒に五十万円入っていました」
「他には何かありましたか」
「一足の幼児用の赤い靴が置いてありました。靴の中には、そうこれが入っていました」
 十返舎は手渡された短冊状の便箋を読んだ。そこには、
「ここで、十年振りに会うことができました。ありがとうございました」
 と書いてあった。
 事務所を後にした二人は、菜穂子が見つけてきた米大統領もきたという西麻布の焼き鳥屋に入った。

         おわり

四百字詰原稿用紙・16枚

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検定・本文

十返舎警部シリーズ 第四話
         検定
                                          ニョッキ ゲタ

          一

 十返舎警部と社会派サスペンス作家北村璃紗の対談がK友病院の院長応接室で始まろうとしていた。
 対談は、璃紗の小説を連載中の週刊誌「週刊文秋」の発行元文秋社の編集長の仲介で実現した。十返舎は入院していた。人質となった女の子の母親が飛び出したところを庇って犯人に撃たれ、重傷を負った。これを知った璃紗が編集長に頼み込み、県警本部に話を持ち込んで対談が実現した。
 十返舎の前に立った璃紗は、女優の真野あずさ似の美人で、雑誌やテレビで顔を見ていたものの、実際に数十センチの近くで見ると実に「いい女」であった。
 挨拶が済んで座ると、稲田と名乗った編集長が口火を切った。
「十返舎さん、お怪我の具合はいかがですか」
「ええ、大分良くなりました。後二週間位で退院出来ると思います」
 十返舎が答えると、璃紗が会話を引き継いだ。
「何でも銃弾が一センチずれていたら、即死だったと」
「口の悪い友人はオリンピックの射撃競技の代表に犯人を推薦したら言われました」
「それと同じ話、私の書いたサスペンスに出てくるんですよ」
「「都機川警部シリーズ・肖像画」ですね。実は先生の大ファンなんです。先生の本は全部読んでいます」
「ありがとうございます」
 璃紗は編集長の方を見た。
「ちょっと待って下さい」
 と編集長は言って、新刊本一冊と「週間文秋」ニ冊を璃紗に渡した。
「よろしかったら、お受け取り下さい。サインはどうしましょう」
「もちろんお願いします」
「ええっと、宛名は「十返舎さん」と「十返舎警部さん」とどちらにしましょうか」
「十返舎でお願いします」
 璃紗はサインをして本を渡すと、話を再開した。
「十返舎さんというお名前は大変珍しいというか、江戸時代の十返舎一九を思い出しますが」
「弥次さん、喜多さんの十返舎一九とは関係ありません。生まれ故郷の伊勢原の方に、十返舎という姓の一族がいます」
「由来は何か」
「特に聞いたことはありませんが」
「そうですか。小さい頃のニックネームは「九ちゃん」では」
「ええ、坂本九ちゃんの「上を向いて歩こう」がヒットしていましたから」。
「私の都機川警部シリーズの都機川という姓の由来をご存知ですか」
 編集長が口を挟んだ。
「西村京太郎の十津川警部のパクリではありません。私は変えた方が良いと進言するんですが」
「オリジナリティには自信があるもんで」
 と編集長をちょっと睨んだ璃紗に十返舎が答えた。
「もちろん知っています。確か、先生のご尊父の出身の埼玉県にあった村の名前から名付けたと」
「よくご存知で。都機川警部といっしょに登場する刑事さんも村の名前からとっているんです」
「それは知りませんでした。これから読むときには、その村が何処にあるか調べてみます」
 璃紗は話題を変えた。
「十返舎さんはどうして刑事さんになられたのですか」
「………」
「確かキャリアとして警察庁に入られていますが」
「はい、まあいろいろありまして」
「失礼しました。こんな答えではどうでしょうか」
 十返舎は小説家がどういうように話を組み立てていくのか興味を持った。
「どういう」
「「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ」と」
「どこかで聞いたようなセリフですが」
「すみません。これはパクリですね。正義感の強い十返舎さんは、悪を懲らしめ、社会正義を実践していくには現場しかないとお考えになった」
「まあ、そんなところです」
 十返舎ははにかんだ少年のような表情を見せた。すかさず編集長が言った。
「対談記事ではハニカミ警部と書いていいですか」
「止めて下さい」
 十返舎は刑事の顔に戻っていた。
「今度は十返舎さんの方から何か」
 編集長はつまらない冗談で悪くなった立場の回復を試みた。
「先生はどうしてサスペンス作家になられたのですか」
 十返舎の質問に、少し考えてから璃紗は答えた。
「私は小さい時、小学高学年から中学生の頃、可愛い子だけど可愛げがないって言われたんです」
「可愛いというのは分かりますが」
「可愛げがないというのは、直ぐに屁理屈を言うからだと言われました。今になって思えば、「屁理屈を言うな」という先生は論理的に私の言うことに太刀打ち出来なかったからだと思います」
「………」
「理屈に合わないこととか、論理的に矛盾することなどに対し、妙にファイトが沸くところがあって」
「それで」
「世の中の論理を弄繰り回しているうちに、サスペンスに行き着いてしまいました」
「先生の本を読み終わると、頭の中がすっきりするのは論理的に明快で、もやもやしたところが残らないからですね」
「そう言っていただけると」
 十返舎は色香漂う三十過ぎの美女を前にして、対談を申し込まれた時には億劫だった気持ちが何処かえ飛んでしまっていた。
「先生の作品では、大抵、美しい女性が登場しますが、モデルは先生ですか」
 と不躾な質問に璃紗は戸惑った表情を浮かべた。
「どうでしょうか。「円山寺」に登場する吉田明子という女性は、北海道の富良野に旅行したときに会った女性をモデルにしています。以前は銀座でホステスをしていて、理由は分かりませんが、ラベンダー栽培の農場で働いていました」
「そうなんですか。もう少し教えてもらえますか」
「あまりネタを明かすと面白さが半減しますから」
「そうですね」
 今度は自分が質問する番だと璃紗が十返舎の顔を覗き込んで言った。
「警部さん、小説のネタになるような事件はあったら教えてくださる」
「そうですね。なかなか現実となると」
「そうでしょうね」
「一つだけお返しに」
「うれしい」
「共犯二人の時効成立が、一人が海外に出ていたためにズレルという事案がありました。時効が成立した男が、時効がまだ成立していない共犯を警察に突き出すと脅した」
「おもしろそうですね」
「まあ、虫のいい話だと思いますが。こんなところで勘弁して下さい」
 十返舎の言葉を引き取って、編集長がそろそろ対談を終了したいと申し出た。十返舎と璃紗はまだ話足らないようであった。
「警部さん、怪我を早く直して下さい」
「ありがとうございます。今度、雑誌の対談でなくお話を聞かせて下さい」
 一時間余りの対談は終了した。二週間後の「週間文秋」に璃紗の連載中小説といっしょに対談が活字となって掲載されるという。
 二週間程たって、十返舎はK友病院を退院し県警本部に出勤した。島牧巡査が花束を用意し、捜査一課の刑事等が拍手で迎えた。しかし、直ぐに鶴居刑事の声で緊張が走った。
「警部、社会派サスペンス作家の北村璃紗が殺されました」

         二

 現場で初動捜査の指揮にあたっていた鶴居刑事が戻って来て、捜査一課長、十返舎等に事件のあらましを報告した。
 殺害されたのは北村璃紗、三十四才、住所は横浜市中区和田××―××のマンション山手壱番館1101号室で、今朝八時頃、原稿を受け取りに来た文秋社の社員が居間で死んでいるのを発見、110番通報した。文秋社社員は、エントランスで呼出しボタンを押したが応答がないので、暗証番号を叩いてエントランスに入った。部屋のドアの呼出しボタンを押したがこれも応答がなく、ドアノブを回すと開いたので室内に入ったという。暗証番号は出入りの頻繁な文秋社社員は璃紗から教わっていた。
 遺体は司法解剖に回されたが、頭部を鈍器で殴打されて大量に出血していたほか、胸にはサバイバルナイフが突き刺さったままで、ここからも大量に出血し、周りは血の海であった。頭部を殴打したのは近くに放置された分厚いガラス製の花瓶と思われる。いずれが致命傷となったかは解剖の結果を見ないと分からないが、花瓶で頭部を殴打、刃物で胸を一突きされるというのは特異なケースである。死亡推定時刻は、前日の午後八時から十一時の間、解剖の結果が出ればもう少し時間が狭まる。
 璃紗は緑色の上下のジャージを着て、衣服の乱れ等は見られなかった。ジャージが仕事着だったと文秋社社員は話した。リビングの応接テーブルには、ティーセットが置いてあって、カップが二つ、それぞれ少しだけ紅茶が残されていた。部屋は物色された形跡はなかった。
 隣の住人への聞き込みでは、物音や人の声は聞こえなかったという。マンションの管理人は昼間だけの駐在で、夜間は管理人室は無人であるがセキュリテリシステムが機能しマンションをガードしている。セキュリティシステムは異常を検出していない。エントランスとエレベータに設置された監視カメラの映像を見たところ、夜の八時から十一時には、多数の人間が出入りしている。映像の提供をマンション管理組合に求めている。
 鶴居刑事の話が一段落すると、捜査一課長が口を開いた。
「もう少し、捜査が進展しないと何ともいえないが」
「そうですね」
 十返舎が同意した。
「山手署に特別捜査本部に設置することになると思う。病み上がりで済まないが、十返舎警部、指揮をとってくれ」
「分かりました」
「ところで、殺された北村璃紗というのはどういう人間ですか。警部は二週間前に会っているんですね」
「はい。女性の人気作家で、社会問題を扱った作品が多く、社会派サスペンス作家と言われています。確か、都機川という警部が活躍します」
「直接会った時の印象は」
 捜査一課長の質問に十返舎はちょっと考えて応えた。
「女優の真野あずさ似の美人で、所謂、男好きのする女です」
「そうか、俺も一度会いたかったな」
 このやり取りを聞いていた島牧巡査が睨んだのに気付いた十返舎が話を戻した。
「北村璃紗の私生活については全く知りませんので、これから調べていきます」
「よろしく頼む」
 と捜査一課長が言ってその場を散会、夜六時に山手署で捜査会議を開くこととなった。

         三

 『女流作家殺人事件 特別捜査本部』の看板が山手署に掲げられたのは、その日の夕方である。県警本部捜査一課長を本部長に、十返舎警部が約三十名の捜査員の指揮を執ることになった。
 山手署の歴史は古く、山手居留地にあった警察出張所が警察署として創設されたのは明治十年である。管内には、港の見える丘公園、外人墓地、三渓園、本牧山頂公園など、横浜の観光スポットが集まっている。
 捜査会議では、先ず司法解剖の結果が報告された。死因は、肺にまで達していた胸を刺されたことによる失血死。ガラス製の花瓶で殴打され出血したが致命傷ではない。最初に頭部を殴られた後、約三十分して胸を刺されたと断定された。死亡推定時刻は、夜九時から十時の間、従って頭部を殴られたのは夜八時半から九時半ということになる。花瓶は拭き取られた後があり指紋は検出されていない。サバイバルナイフからも指紋は検出されていないが、こちらは手袋のようなものをしていたと思われる。
 ここまで鑑識課員Aが説明した時、鑑識課員Bが補足したいことがあると発言した。
「司法解剖の結果から一つ重要なことが分かりました。花瓶で頭を殴ったのは左利き、ナイフで胸を刺したのは右利きの人間と断定しました」
 じっと聞いていた捜査一課長が口を開いた。
「犯人は二人ということか……」
「はい、そういうことなります」
 二人のやり取りに十返舎が反論した。
「断定するのは早いと思います。犯人が二人いるように見せるために、左手で殴って、右手で刺したということも」
「何のために?」
「まだ良く分かりませんが」
「そうだな。つぎにすすめよう」
 と捜査一課長が促した。
 鑑識課員Aが再び報告した。部屋からは北村璃紗以外の指紋が複数検出されたが、前科はない。また、紅茶のはいったカップから指紋が検出された他、僅かな口腔の粘膜が検出されている。犯人を絞りこむことが出来ればDNA鑑定が可能である。
 続いて、監視カメラの映像の分析に当たっていた捜査員Cが報告した。
 夜の八時から十一時の間にマンションエントランスの監視カメラに映っていたのは、入ってきたのが十五人、出て行ったのが三人である。これらの内、マンションの住人と確認がとれたものを除くと、エントランスに入ったのが三人、出ていったのが二人であった。映像から顔まで判別できないが、入った三人の内、男が二人に女が一人、出て行ったのは二人とも男で、服装から同一人物と思われる。マンション住人に、これらの映像を見せたが、心当たりはないと言っている。
 ここで、十返舎が質問した。
「マンションの出入り口は他にはありますか?」
 説明していた捜査員Cが答えた。
「まず、一階の部屋からは出入りしようと思えば出来ます。一階の住人にはこの点を含めて聴取していきます」
 初動捜査にあたった鶴居刑事がつけ加えた。
「後、非常階段が外付けでありますが、内側から全階共施錠されていました」
「鶴居さんが現場に行った時にはまだ監視カメラに映った女がいたということになる」
「マンション住人への聞き込みの精度を上げる必要があるな。それに夜の十一時以降、今日の昼ごろまでの監視カメラの映像も分析しよう」
 会議は次のテーマに移った。
 北村璃紗の家族関係と交遊関係について、担当した捜査員Dが説明した。
 璃紗は三十四才、元町で雑貨の貿易商を営む裕福な家に生まれ、幼稚園から大学まで、一貫教育のミッション系の学校で十六年間過ごした。両親は今も健在で、独立した兄と両親といっしょに住んでいる妹がいる。大学時代には、テレビの情報番組のレポーターをしたりした目立つ存在であった。卒業後、在京テレビ局に入社、ちやほやされる女子アナではなく、報道局で記者、レポーターとして活躍した。五年ほど前に退社、汚職事件などに鋭くメスを入れる社会派サスペンス作家として頭角を表すようになった。この間、丸山書房で璃紗の本の出版の面倒を見た那須野信也と結婚した。ただ、現在は別居中である。
 一呼吸いれて捜査員Dが言った。
「今のところ、ここまでです」
 十返舎が聞いた。
「那須野信也とは連絡はとれましたか?」
「いえ、まだです。というか、勤務先の丸山書房に連絡してみましたが、前日から出社していないということです」
「捜す必要がある」
 十返舎は明日以降の捜査の重点、分担などを決め捜査会議を終りにした。
 山手署を出ると、鶴居刑事が十返舎に話しかけた。
「実は今日、警部の快気祝いをすることになっていました。皆での会はこの事件が解決してからにします。時間が遅くなりましたが、ちょっとだけ二人でどうですか」
「もちろん」
 二人の影は関内のネオンに消えていった。

         四

 十返舎は白板に、マンションへの不明人物の出入りについて書き出した。
 午後七時三十七分 男A入る
 午後八時十三分  女B入る
 午後八時五十一分 男C入る
 午後九時二十ニ分 男C出る
 午後九時四十四分 男A出る
十返舎は鶴居刑事に白板を見ながら訊いた。
「十一時以降の監視カメラの映像から何か出ましたか?」
「いえ、というより、女Bは映っていません」
「そうすると、マンションの住人か嘘を言っていて女Bが住人であるか、あるいは女Bが生死は分からないがマンションの何処かにいることになる」
「数ヶ月前に確か」
「そうだ。若い女性が同じフロアの男に殺害されるという事件があった。監視カメラには帰宅した映像だけ映っていた。警察が捜査を開始した時にはまだ死んでいなかった」
「警部、急がなければ。マンション全戸の捜索を。何処かに監禁されているということも考えられます」
「至急とりかかろう」
 と言うと、鶴居刑事が問いかけた。
「北村璃紗殺人事件と女Bの行方不明事件とどういう関係があると思いますか」
「うーん、分かりません。北村璃紗と他のマンション住人との間で何かトラブルがあったとかいう話は出てきましたか」
「今のところありません。百平米を越えるグレードの高いマンションで、住人同士の交流はほとんどなかったようです」
「そうですか」
 マンション全戸捜索の手配を終えると、十返舎は川井刑事と文秋社の編集長から話しを聞くため、新宿に向かった。文秋社は新宿御苑大木戸門前にある十一階建てオフィスビルの一階から五階のフロアに入っていた。週刊誌「週間文秋」の稲田編集長への来意を受付で告げると、こじんまりとした応接室に通され、十分ほど待った。
 二週間前に会った時とは打って変わった神妙な表情をして、編集長の稲田が現れた。
「先日はありがとうございました。こんなことになるなんて」
 稲田は汗を拭きながら、困ったという表情を作って見せた。十返舎にはつくり顔のように見えた。
「私も驚いています」
 十返舎は続けた。
「今日は北村璃紗の公私両面についてお話を聞きにきました」
「知っていることは何でもお話します」
と稲田は慇懃に言ったが、十返舎には何かがひっかかったが質問に移った。
「北村璃紗と文秋社さんとの関係、稲田さんとの関係は?」
「関係と言われれば、作家と出版社、作家と編集者です」
 稲田は用心した言い方をした。十返舎は鶴居刑事に一端バトンタッチした。鶴居刑事が質問を続けた。
「北村璃紗の作品を扱うようになったのは、何時ごろから、どういう経緯で?」
「北村先生の作品を扱うようになったのは最近です。「週刊文秋」への連載が始めてのお付き合いです」
「そうですか」
「先生はこれまで、サスペンス新人賞を受賞した「汚職」をはじめ、十数作品を発表されています。これらはすべて、丸山書房さんから出版されています」
 十返舎が待っていたかのように質問した。
「丸山書房というと、別居中の夫がいる出版社で、御社のライバルと聞いていますが」
 稲田はちらっと鼻で笑ったのをあわてて隠して言った。
「向こうさんはどう思っているか知りませんが、私どもはライバルなんて思っていません」
「まあ、ライバルかどうかは別にして、どうして丸山書房から」
「今回の連載の話は、北村先生の方から持ち込まれました。ご存知のように出版業界は構造的不況です。人気作家の連載ということですぐに飛びつきました」
 稲田がなかなか質問に直接答えないので、鶴居刑事が強い口調で問いただした。
「丸山書房から文秋社に乗り換えた理由は?」
「北村先生に聞いてみましたが良く分かりません。丸山書房の那須野信也さんと別居中で、離婚調停中だということも後で知りました」
 十返舎は質問を変えた。
「北村璃紗のマンションへ入る暗証番号を知っていますか」
「はい、私と担当の加納が知っています」
「そうですか。念のためお聞きするのですが、北村璃紗が殺害された日の夜、八時から十時頃どこにいらっしゃいましたか」
 稲田は自身ありげに言った。
「アリバイというやつですね。この建物で仕事をしていました。大勢証人がいますよ」
「そうですか」
 十返舎はすっきりしないまま、今後の捜査の協力を頼んで帰ろうとすると、稲田が笑いを浮かべながら言った。
「警部さんは、「週刊文秋」をもうお読みになりましたか?」
「ええ、二週間前の対談の時に頂いた二冊とつぎの一冊に載っている北村璃紗の連載『歪んだ教科書検定』は読みました」
「先生と警部さんの対談が載っている今週号はまだですか」
「ええ、この事件が起きて時間に追われました」
「今、キオスクにも書店にも「週刊文秋」はありません。北村璃紗が殺されて、飛ぶように売れてしまいました」
「それで北村璃紗が死んでも半分嬉しそうなんですね」
「そんな失礼な。一冊差し上げようと用意しましたが、やめました」
「そうですか」
「ええ、これだけは言っておきましょう。読んでおいた方がいいですよ」
 十返舎はこれ以上聞き出そうとしても無理と判断、文秋社を後にした。
「嫌な奴ですね」
 鶴居刑事が歩きながら話かけた。
「「週刊文秋」の今週号を何とか手に入れるよう島牧さんに頼んでおいてくれますか」
 二人は飯田橋にある丸山書房に向かった。

         五

 丸山書房は東京ドーム近くの六階建てビルに本社を構えていた。北村璃紗の夫で離婚調停中の那須野信也の上司という小森と名乗る部長が丁寧に十返舎等に応対した。
 那須野の居所は依然として不明であった。
 那須野は新人作家の発掘と育成という面で、業界では一目置かれる存在であった。北村璃紗を発掘、サスペンス作家の登竜門といわれるサスペンス新人賞を受賞するまで育てあげた。その後、二人は結婚、二人三脚で作家活動を続けていた。数ヶ月前に別居、璃紗の新連載がライバル出版社である文秋社の週刊誌「週刊文秋」に載ることになった。乗り換えの理由を那須野に糾したが答えなかったという。
 横浜へ戻る電車の中で、鶴居刑事が低い声で十返舎に言った。
「同じ出版社でも随分と違いますね」
「………」
 十返舎も文秋社の稲田と丸山書房の小森を並べて考えこんでいた。
 十返舎が山手署の特別捜査本部に戻ると、今週号の「週刊文秋」と、璃紗の遺作となった『歪んだ教科書検定』の四話分のコピーとA4にまとめたあらましをプリントしたものが置いてあった。島牧巡査が用意してくれたものであった。
         *
『歪んだ教科書検定』四話分のあらまし
 冒頭の教科書検定についての解説
 小学校、中学校、高等学校等で使用される教科書を、教科用図書検定基準に適合するかどうかを文部科学大臣が検定する制度である。
 出版社が見本を文科省に提出
→審議会が内容を審査し文科省に提言
→文科省は再検討を出版社に指示
→出版社が修正し再提出
→審議会が合否の決定
 こうして検定合格となった複数の教科書から、教育委員会や私立学校毎に選択して、児童、生徒に配布される。
 審査は有識者を集めた審議会(教科書用図書検定調査審議会)が教科用図書検定基準に基づいて審査するといことで文科省からの中立を装っている。実体は審議会は文科省の役人がチェックした通りに承認するだけの御用審議会と言われている。
 本文から
 江口敦子という美人フリージャーナリスト(島牧の注、璃紗の分身か)が主人公。政官界の汚職事件に鋭く迫り、政界を揺るがした贈収賄事件のレポートなど注目を集めている。中央出版社に勤める夫の江口豊が取材など全面的にバックアップしている。
 あるとき、中央出版社に勤めていたという女から、中央出版社から文部科学省初等中等教育局教科書課の課長に度々金品が送られているとの内部告発が江口敦子にあった。取材にあたって、これまで最大の見方であった夫の豊が障害となった。敦子は離婚を申し入れ、協議離婚が成立した。これからは、中央出版社と夫を敵に戦うことになった。
 内部告発者は各部門から依頼されて、お中元やお歳暮、その他の贈答品を手配する業務をしていて、そこで覚えていた名前が、文科省教科書課の課長という肩書きで、テレビの会見に出ていたのを見ておかしいと思ったという。江口敦子は告発者から入手した贈答者リストを手がかりに、中央出版社と文科省教科書課の関係を調べていくと、両者の癒着振りが明らかになってきた。中央出版社では専務、元夫の江口豊が文科省の窓口となり、接待攻勢を文科省教科書課長にかけていた。教科書課長からの見返りは、教科書検定に関する便宜供与と思われたが、具体的には解明出来ていない。
 調査が核心に迫る中、敦子に様々な圧力が加わった。無視し続けると決定的な事態が起きた。元夫の江口豊が敦子が住むマンション階段から転落死した。警察は自殺としたが、敦子は殺されたと直感、以前に取材で知り合った都機川警部に心情を訴えると、都機川は真相究明を約束した。
 ここまでが島牧巡査がまとめてくれた『歪んだ教科書検定』四話分のあらましである。

         六

 『歪んだ教科書検定』四話分のあらましを読み終わった捜査員が、十返舎の周りに集まってきて、口々に言った。
「何か似ている」、「設定が同じだ」、「殺されたのが逆なだけだ」
 十返舎が鶴居刑事に向かって言った。
「どういうことか整理してもらえますか」
 鶴居刑事が白板に書き出した。
・北村璃紗と江口敦子。女性作家とフリージャナリスト。
・夫の那須野信也と別居中、夫の江口豊と離婚
・璃紗は、那須野の勤める丸山書房から文秋社へ出版元を変更。敦子は、江口豊の勤める中央出版社を糾弾することに
・璃紗が殺害される。敦子の夫江口豊が殺害される
「こういうことになります」
 書き終わった鶴居刑事が言った。少し時間をあけて続けた。
「江口敦子は璃紗自身のことですね」
 それまで、黙って白板を睨んでいた十返舎が答えた。
「そういうことになる」
「『歪んだ教科書検定』の第五話が気になります」
「そうですね。五話目の原稿はどうなっていますか?」
「文秋社の加納という社員が、その原稿を取りに行き、璃紗が殺害されているのを発見しました。現場検証では見つかっていません」
「そうか。璃紗の原稿は手書きですか?それともワープロ?」
「文秋社の話では、ワープロで作ったものをコピーしたDVDを受取っていたそうです」
 十返舎は質問を続けた。
「押収してきた璃紗のパソコンは調べましたか」
「はい、調べた結果ですが、データは何も残っていないということです。マイ・ドキュメント内のフォルダ、ファイルはすべて削除され、ごみ箱は空だそうです」
「そうか。想像では、第五話から、江口敦子と都機川警部が、教科書検定に絡む汚職の糾弾と元夫の死の真相究明に動き出すところです。何か手がかりが書かれていたかも知れません」
「そうですね。残念です」
 鶴居刑事が相槌を打った。さらに、十返舎の質問が続いた。
「教科書検定に関する調査資料のようなものは、出てきませんでしたか」
 鶴居刑事が答えた。
「それらしきものが何点かありました。また、取材メモ帳が、何と金庫の中に残されていました」
「璃紗にとっては、文科省と言論界という、とてつもない大きなもの挑むには、相当の圧力を感じていたのですね」
「そう思います」
「課長から、東京地検特捜部の方に話をしてもらいますので、書類を揃えておいて下さい」
 十返舎が言うと、集まっていた捜査員たちは、それぞれ何か考えながら自席に戻っていった。
 島牧巡査が十返舎の机にお茶を運んで来てくれた。署内にはティサーバが置かれ、署員は、署長でも課長でも、自分でお茶を入れることになっている。お茶をいれるのは島牧巡査の仕事ではないが、十返舎の表情を見てタイミングよくお茶を入れてくれる。
「これは、ありがとう。ちょうど喉が渇いた」
 十返舎は続けた。
「それに『歪んだ教科書検定』四話分のあらましは助かった」
「お役に立てれば」
 島牧巡査は十返舎に笑顔を見せた。十返舎は疲れが吹き飛んで、島牧巡査がITに詳しいことを思い出した。
「ちょっといいかな」
「はい、なんでしょうか」
「紙に書いたものは、火事で焼けても証拠が残った」
 島牧巡査は怪訝な顔をしたが、十返舎は続けた。
「パソコンのデータは、削除して、ごみ箱を空にすると何にも残らないという。何か、痕跡みたいなものは残らないのですか?」
「何もないということはありません」
「ほんとうですか」
 十返舎は机の脇の会議卓に島牧巡査と移り座った。
「いろんなケースがありますが」
 島牧巡査はつぎのように説明した。
 一つは、パソコンでインターネットを利用しているとき、プロバイダのサービスの一つにデータを定期的に自動でバックアップするという機能がある。璃紗がこれを利用していれば、プロバイダの記憶装置にデータが残っている可能性がある。
 もう一つは、データを削除しても、相当の期間、ハードディスクにデータは残っているという。専門的なことになるが、パソコンのハードディスク上では、データは、目次と本文から構成されていて、データを削除するということは、目次を消すだけなので、本文は残っているという。目次に頼らず、直接ハードディスク上の本文を読むことが可能だという。
 十返舎には難しい説明であった。鶴居刑事を呼んで島牧巡査から再度説明してもらい、璃紗の使用していたパソコンとプロバイダの調査を指示した。

         七

 午後八時十三分にマンションに入り、その後行方が分からなくなった女の件は、事件の翌々日に発売された写真週刊誌で一挙に解決した。マンション全戸に対して行った大捜索は無駄骨となった。北村璃紗の部屋の隣りに住む人気お笑いタレントとグラビアアイドルがマンションの非常階段下で抱き合っているスクープ写真が写真週刊誌に掲載された。捜査員の事情聴取に対し、お笑いタレントはつぎのように説明した。
 その夜、八時過ぎに彼女が来た。いっしょに過ごしていると、隣室から何か声が聞こえて、すぐにドアの閉まる音を聞いた。気になったけれど、途中でやめないでと彼女に言われて続けた。ニ、三十分して、再びドアの閉まる音が聞こえた。十一時過ぎに、いつものように彼女と非常階段から出て、一階に下りた時に写真週刊誌のカメラに撮られたらしいという。その後、非常階段を上り、内側から施錠した。
 スクープ写真を撮ったカメラマンは、グラビアアイドルが玄関からマンションに入るところは何度となくつかまえていたが、出てくるところを見ないので、非常階段を張っていたという。テレビの情報番組の話題は、北村璃紗殺人事件から、すっかり、人気お笑いタレントとグラビアアイドルの交際に変わっていた。
 那須野信也の部屋から採取した毛髪と、北村璃紗のリビングに残されたティーカップに付着していた口内粘膜が、DNA鑑定の結果一致した。さらに、午後七時三十七分にマンションに入り、午後九時四十四分に出た男の監視カメラの映像を、丸山書房の小森に見せたところ那須野信也に似ているという証言を得た。捜査本部は、那須野信也を重要参考人として全国に手配した。
 午後八時五十一分にマンションにはいり、午後九時二十ニ分にマンションを出た男については、有力な情報は得られていなかった。
 十返舎は、先日書き出した白板を書き換え睨んだ。
 午後七時三十七分 那須野が入る
 *空白
 午後八時五十一分 男C入る
 午後九時二十ニ分 男C出る
 午後九時四十四分 那須野が出る
 十返舎は鶴居刑事に白板を見ながら、前と同じように訊いた。
「犯人が二人なら、那須野が殴打して、男Cが刺殺したということになる」
 鶴居刑事が続けた。
「犯人が一人なら、那須野でも男Cでもありうる」
「そうですね。二人でも一人でも、仮に男Cが刺殺したとしたら、その間、那須野はどうしていたのでしょう」
「………」
 捜査が停滞したかのように思えた時であった。
 丸山書房の小森から、十返舎に電話が入った。震えるような声が聞こえた。
「那須野が社に来ています」
「直ぐに警察官を向けますので、引き止めておいて下さい」
 十返舎は警視庁に、那須野の身柄の確保を依頼、鶴居刑事が運転する車に飛び乗ると、赤色灯を回しサイレンを鳴らし、首都高を飛ばし飯田橋に向かった。丸山書房のビルの前に走っていくと、制服警官が駆け寄ってきた。
「すみません。間に合いませんでした」
「そうですか。お手数をかけました」
「JR飯田橋とJR水道橋に警官を配置しておきました」
「よろしくお願いします」
 十返舎と鶴居刑事は、警官に敬礼すると建物の中に入って行った。
 小森がすまなそうな顔をして二人を迎えた。
「申し訳ございません。警部さんへの電話を終わって、会議室に戻ると、那須野はもういませんでした」
「追われている人間の感覚は鋭くなっています。小森さんが普通に振舞ったつもりでも、危険を感じたのでしょう。気にされることはありません」
「そう言って頂けると気が楽になります」
 一呼吸おいて、十返舎が質問した。
「那須野とはどういうやり取りをしましたか?」
 小森が慎重に答えた。
「北村璃紗の文秋社への乗り換えでは迷惑をかけた、そして北村璃紗が殺害されたことでは迷惑をかけたと誤っていました」
「それで」
「はい、「会社を辞めるので、給料と退職金を直ぐに欲しい」と言いました。総務に頼みに言ってくると言って、警部に電話したんです」
「それで、戻ってくると」
「はい、もう那須野は会議室にはいませんでした」
「那須野は他に何か言っていませんでしたか?」
「ええ、特には。私が警察が捜しているようだから出頭したらと言いましたら」
「何て?」
「「小森さん、見逃してくれ」と、そして会社がダメなら、お金を少しでもいいから貸しくれと」
「わかりました」
 十返舎と鶴居刑事は、那須野から連絡があったら、直ぐに知らせてくれるように頼んで、丸山書房を後にした。
 東京地検に向かう車の中で、鶴居刑事が口を開いた。
「何か、わざとらしいですね」
「鶴居さんもそう思いましたか」
「はい、我々はまだ那須野を北村璃紗を殺した犯人と断定していない。それなのに、小森は那須野が犯人だと決めつけて話している」
「そうですね」
 直ぐに、車は桜田門にある東京地検の駐車場に滑り込んだ。

         八

 十返舎達が面会した担当の岩城検事は、つぎのような話をした。
 現在、特捜部の多くが防衛省前事務次官の贈収賄事件に関わっている。そのため、少ないメンバで、文科省と出版社の教科書検定をめぐる癒着について捜査を始めた。昨日・今日で分かったのは、丸山書房が文科省教科書課長に対する接待を派手にやっているということである。盆暮れのお歳暮はもとより、週末毎のゴルフ接待、ノーパンしゃぶしゃぶでの宴会、上場予定の子会社未公開株の額面での提供などである。贈賄側の丸山書房では、専務の岡島が中心となって動いている。文科省教科書課長は教科書検定に関し、何らかの便宜供与を丸山書房に対して行っているものと思われるが、具体的に解明出来ていない。明らかに、国家公務員の倫理規定に違反するものの、贈収賄事件として立件するのには、更なる捜査が必要となる。
 十返舎は、ここまでの話が、北村璃紗の連載「歪んだ教科書検定」四話までに書かれていたことと同じであると再確認した。岩城検事は、まだ、秘密事項だが十返舎警部だからとつぎの話を続けた。
 丸山書房は、主に歴史書、教科書では高校日本史を扱っている。戦前は、思想家、北一輝の著作の出版に関わり、戦後は、「国体維持」、「反共」、「反日教組」を唱える右翼団体の著作物の出版を担ってきた出版社である。そこが日本史の教科書を出版している。
 もう一つ、丸山書房から、政権与党の大物政治家に毎年多額の政治献金が送られている。これらは政治資金収支報告書に正確に記録されている。
 岩城検事は、深く考えこんだ表情を見せて、十返舎と鶴居刑事の顔を見て言った。
「防衛省の前事務次官の逮捕どころではすみません」
 二人は検事が何を言い出すのか息を飲んだ。
「戦後の民主主義が偽民主主義であったことが世界中に暴かれてしまいます。文科省大臣の辞任から、内閣総辞職となり、日本中が大混乱となります」
 十返舎は検事が何を言いたいのか理解したが、自分の立場ではどうすること出来ないことを良く分かっていた。

*北一輝について(はてなダイヤリーから引用)
 思想家、革命家。
 本名、北輝次(明治三十六年に輝次郎と改名)、1883年4月3日生まれ。佐渡島出身。
 若くして社会主義に共感を抱き、1906年に『国体論及び純正社会主義』を発表。
 その後、孫文らが東京で結成した「中国革命同盟会」に参画。親しくなった民族主義的革命家・宋教仁に要請され、辛亥革命で混乱する中国に渡り、革命運動を支援した。
 宋教仁が暗殺され、孫文が再亡命すると北は日本へ帰国。
 これらの活動は回想録『支那革命外史』にまとめられている。
 大川周明、満川亀次郎らと猶存社を設立、大川と反目、解散を経て大化会、大行社等に関係する。
 その後発表した、著書『日本改造法案大綱』によって大陸浪人や壮士、青年軍人らのカリスマ的存在に。昭和初期の国家社会主義運動における大物指導者となった。
 それら、北一輝思想に心酔した青年将校の村中孝次、磯部浅一らが1936年、ニ・二六事件で決起し要人らを殺害。事件が鎮圧された後、かれらを扇動したとして、軍法裁判で、唯一民間人として刑死した。『日本改造法案大綱』が青年将校らのバイブルだったと言われている。日蓮宗の熱狂的信者としても有名。

         九

 事件発生から四日目を迎えた。十返舎は事件の背景に、黒い大きな影がうごめいていると感じ始めていた。捜査本部のある山手署に出勤し、朝礼を済ませると、島牧巡査を呼んだ。
「高校日本史の教科書で、丸山書房のものと、他の出版社のものを調達してもらえますか」
「はい、わかりました」
 島牧巡査は、十返舎が事件解決に向けて動きだしたのを感じた。
「それに、もう一つお願いできますか」
「はい、何でしょう」
「北村璃紗のパソコンのハードディスクの復元が出来たそうです。間もなく届くと思いますので、『歪んだ教科書検定』の第五話を抜き出して、あらましを作っておいてもらえると助かります」
「わかりました」
 島牧巡査は、笑顔で答えた。
 十返舎は、県警本部警備部公安二課に行くと、丸山書房と関係のある右翼団体について聞くと、直ぐにA結社という団体を挙げた。最近、特に目立った動きはないが、何かあるか調査すると言ってくれた。
 山手署に戻ると、島牧巡査が本を重ねて、十返舎の机に置いた。
「警部、揃いました」
「早いですね」
「神奈川県内の市町村の教育委員会に片っ端から電話しました。丸山書房以外の五社の日本史の本は、五種類、直ぐに見つかりました」
「それで、丸山書房の本は?」
「教育委員会で採用しているところはありませんでした。それで、今度は神統系の私立高校に狙いをつけて電話をしました」
「さすがですね」
「それで直ぐに見つかりました」
「ありがとうございます。いつも助かります」
 島牧巡査は笑顔を見せ、『歪んだ教科書検定』の第五話のあらましは、三時頃まで待って欲しいと言って自席に戻った。
 十返舎は机の前に詰まれた、丸山書房の日本史教科書と他社の日本史教科書をぺらぺらとめくった。十返舎は今夜徹夜をして、数冊の日本史教科書を読むつもりである。
 島牧巡査が『歪んだ教科書検定』の五話のコピーとA4にまとめたあらましをプリントしたもの、十返舎のところへ持ってきてくれたのは三時近くであった。署内に残っていた捜査員が読み終わるのを待って、会議卓で十返舎が口を開いた。
「第五話で新たに展開したことは?」
 鶴居刑事が整理してつぎのようにまとめた。
・フリージャーナリストの江口敦子と殺された江口豊は離婚したことになっているが、敵を欺くための偽装であった
・二人は江口豊の勤める中央出版社と文科省教科書課との癒着構造の調査を進めていた
・江口豊の殺害犯人を追う都機川警部は、中央出版社とつながりのある暴力団組織に迫っていく
・都機川警部は、国家権力という大きな壁にぶつかる
「こういうことかと思いますが」
 鶴居刑事の説明に対し、十返舎が言った。
「我々の事件では、北村璃紗と那須野信也は別居中ということですが、実際は丸山書房内部の調査をするため、二人は別れたという形をとった」
 鶴居刑事が相槌をうった。
「自分もそう思います」
 十返舎が続けた。
「我々が追っている北村璃紗殺害の犯人は那須野ではないと思う。午後八時五十一分にマンション入り、午後九時二十ニ分に出た男Cが犯人だ」
「警部、那須野信也の命が危ない」
「そうですね。もう一度、全国に手配を徹底しましょう」
 鶴居刑事が十返舎に向かって聞いた。
「犯人は一人でしょうか?」
 十返舎が答えた。
「推定だけで言うのは良くありませんが」
 と断って続けた。
「一人だと思います。七時三十七分に那須野信也はマンションに来て、北村璃紗と紅茶を飲みながら話をしていた。八時五十一分に男Cが北村璃紗に来訪を告げると、那須野は二人がいっしょのところを見られたくないので、非常口から外へ出て待った。男Cは北村璃紗を左手に持った花瓶で殴打して部屋から出た。理由は分からないが再び部屋に戻ると、北村璃紗は倒れていたものの生きていた。慌てて、本来の利き手である右手で、用意していたナイフで璃紗を刺し、九時二十二分にマンションから出た。三十分して非常口から部屋に戻った那須野は璃紗が死んでいるのを発見、自分が疑われるのを恐れて、九時四十四分にマンションから出た」
 十返舎の説明に合意した鶴居刑事が捜査員たちに訊いた。
「お笑いタレントのスクープ写真を撮ったカメラマンが何かを見ているかも知れません。事情を聞いたのは?」
「自分です。これからもう一度話しを聞いてきます」
 というと一人の捜査員が飛び出して行った。
 その夜、日本史の教科書と睨めっこしていた十返舎に、捜査員から連絡が入った。九時前に非常口から男が出てきて、ニ、三十分して再び非常口から中に同じ男が入ったということであった。

         十

 十返舎が一通り、日本史の教科書に目を通し、メモを書き出した時は、窓の外は明るくなって、強い夏の陽射しがさしこもうとしていた。メモは、五社の教科書と丸山書房の教科書とを比較し、「何か違うな」と違和感を持ったところを書き出した。
 メモ
①大和朝廷誕生の記述が長い、詳しい
②文永の役、弘安の役の記述で、神風によって日本が救われたという出来事を史実とし、「神国思想」の正当性を主張している
③豊臣秀吉の朝鮮侵攻を朝鮮征伐と記述している。他の教科書では、文禄・慶長の役と記述
④大政奉還の記述で、徳川幕府による政権返還の時期が遅いとしている。百年早ければ、欧米列強に遅れることなく、近代化を進めることが出来た
⑤日清・日露戦争の勝利を強調
⑥第一次世界大戦で、日本は軍事面で平和に貢献した
⑦二・二六事件の記述では、刑死した北一輝を惜しみ、決起した青年将校を国を愛する純粋な気持ちから出た崇高な行動と賞賛
⑧満州事変から太平洋戦争を他社が軍部独走としているのに対し、国民の支持を得た正当な政権で、戦略の失敗で敗戦に至ったと主張
⑨東京裁判を国際法上根拠のない不当裁判としている
⑩北方領土には樺太も含まれるとし、武力行使による奪還をカードに、交渉すべきと主張
メモおわり
 これが教科用図書検定基準にそって、審議会(教科書用図書検定調査審議会)が合格としたものかと、十返舎は驚き、呆れた。「審議会の実体は文科省の役人がチェックした通りに承認するだけの御用審議会と言われている」という北村璃紗の書いた『歪んだ教科書検定』の一節を思いだした。文科省初等中等教育局教科書の課長を抱きこんでしまえば、正しいか間違っているかは別にして、自らの思想、信条を教科書に盛り込むことが出来る。恐ろしいことだ。
「おはようございます」
 島牧巡査の明るい声が聞こえた。
「警部、怖い顔をしていますよ」
「そうか」
「徹夜されたのですか」
「………」
「はい、コーヒー、ブラックでいいですね」
 十返舎は島牧巡査がいれてくれたコーヒーをすすると、怒りに満ちた気持ちが落ち着いてきた。「日本中が大混乱になります」という岩城検事の言葉を思い出した。十返舎はメモを茶封筒に入れると糊をつけて封印、机の引き出し奥深くにしまった。
 捜査本部に警視庁新宿署から連絡が入ったのは、午前十時頃、十返舎が休憩室で仮眠をとっている時である。電話を受けた鶴居刑事が十返舎を起こしにきた。
「警部、お休みのところすみません」
 十返舎は眠そうな目を向けて、こもるような声を出した。
「どうかしましたか?」
「新宿署から連絡がありまして、公務執行妨害で逮捕、拘留していた男が、北村璃紗を殺したのは自分だと言っているそうです。書類送検したら釈放するので、身柄を引き受けて欲しいということで」
 十返舎は飛び上がるように起きると、身づくろいをしながら先を急がせた。
「それで」
「捜査員を新宿署に行かせました。で、先ほど任意同行を求め、現在こちらにパトカーで向かっているところです」
「本星かな」
「なんとも。新宿署の説明では、男は後藤勇、二十三才、A結社の構成員。昨日、新宿駅西口前に進入したA結社の街宣車を規制しようとした警察官を押しのけたということで、現行犯逮捕したということです」
「分かった。こちらに着いたら、鶴居さん、取調べにあたって下さい」
「わかりました」
 十返舎は机に戻った。島牧巡査がお茶を運んできた。そして、朝と同じことを言った。
「警部、怖い顔をしていますよ」
 十返舎はわれに返った。
「すまん、すまん」
「警部、怖い顔をしていると、閻魔様が仲間だと思って、地獄へ連れていってしまうのだそうです」
 十返舎は作り笑いをして、島牧巡査を見た。
 捜査本部は、北村璃紗を殺害した殺人罪で逮捕した。監視カメラに映った男Cが後藤勇だった。左手に持った花瓶で殴り、右手で刺したと、未公表のことを自白した。さらに、いくつかの物証が揃った。動機はつぎのように話した。
 北村璃紗のエッセイで、A結社が掲げる政治信条を冒涜する記述があった。A結社を信奉する自分の精神を馬鹿にされた考え、北村璃紗に記述の撤回と謝罪を求め、聞き入れなければ殺害しようと考えた。
 報告を終わった鶴居刑事に向かって、十返舎は呟いた。
「恐ろしい事件です。まだ、終わっていません」
 鶴居刑事が答えた。
「自分もそう思います。後藤が単独でやったとは思えません」
「東京オリンピックより少し前に、日比谷公会堂で演説中の社会党委員長、浅沼稲次郎が右翼の十七才の山口二矢に刺殺された。山口二矢は拘置所で首吊り自殺した。今でも、右翼団体の間では、英雄・山口二矢と讃えている」
「後藤が」
「鶴居さん、二十四時間体制で後藤に監視をつけましょう」
 十返舎にとって長かった、というか昨日からの一日が終わった。さすがに、鶴居刑事も誘いの声をかけなかった。

         十一

 山手署に掲げられた『女流作家殺人事件 特別捜査本部』の看板が外され、後藤勇は殺人罪で起訴された。最後まで追及した背後関係については、後藤勇は口を割らなかった。
一度は重要参考人として手配した、北村璃紗の夫、那須野信也から電話が入ったのは、お盆休みの真っただ中である。
 那須野は、事件の翌々日に丸山書房を訪ねた後、館山にある海望荘という旅館に滞在した。何度か東京に出かけ、丸山書房やA結社などの周囲を調べた。それまでに、妻の璃紗と調査したものを含め、資料を整理し、妻の遺稿となった『歪んだ教科書検定』の第四話の後、第五話から最終話までを執筆した。
 そう話した後、緊張した声が十返舎に聞こえた。
「警部さん、妻を殺した真犯人を捕らえて下さい。証拠は揃いました」
 十返舎が答えた。
「どこの警察でもかまいませんから、出頭してもらえますか」
 那須野の声が差し迫ってきた。
「間もなく、小森が訪ねて来ます」
「分かりました。直ぐ行きます」
 十返舎は電話を置くと、鶴居刑事とパトカーに飛び乗った。本牧ICから首都高湾岸線を飛ばし、東京湾アクアラインに入ると渋滞気味である。普段はガラガラの赤字路線と評判の悪い道路も、お盆休みで車の数が多い。運転していた鶴居刑事は、マイクで注意を呼びかけながら路肩を走りぬけた。館山道も房総方面に遊びに行く車で渋滞している。二車線がびっしり埋まっている。パトカーは一般道に降りて、国道127号線を館山に疾走した。途中、十返舎は館山署に海望荘にいる那須野の保護を要請した。海望荘まで県警本部から一時間かった。館山署の署員は既に到着していた。那須野は訪ねてきた男と出て行った後だという。那須野は大房岬に行くと、小さい声で旅館の女将に言い残していた。十返舎達は館山署パトカーの先導で、大房岬に向かった。近くに来るとサイレンと赤色灯をやめ、静かに駐車場にパトカーを駐車させた。
 十返舎と鶴居刑事の後に館山署の警官が従った。階段を上って岬の突端が見えた時、十返舎は崖の上の二つの人影を確認した。那須野と小森であった。二つの距離は十メートル程、那須野が崖を背にしていた。二人が近づいて、何かの受渡しをしたかと思うと、小森は後ずさりして姿が一瞬に消えた。
 十返舎達が近づくと、那須野は立ち尽くしていた。小森が後ずさりし消えたところも、海面まで百メートル近くの断崖になっていた。小森の遺体が北条海岸に打ち上げられたのは、翌朝のことである。
 県警本部に戻った十返舎と鶴居刑事は、那須野から話を聞いた。
「まず、北村璃紗さんが亡くなられる前のことをお話いただけますか」
「璃紗が売れる前から、彼女の才能に光るものを感じて、丸山書房からの出版の面倒をみました。だからとうい訳ではありませんが、結婚しました」
「その後、別居?」
「はい、これには訳がありまして。教科書検定に絡む文科省と出版社の癒着を調べていくうち、自分が勤める丸山書房が贈賄側として浮かんできました」
「それで」
「はい、自分の会社内部を調べるには社員でいる方がいいのですが、二人が夫婦でいるということではやりにくくなってきます」
「それで、まず、偽装別居した」
「そうです」
「では、璃紗さんが殺された夜の行動は?」
「七時半過ぎに璃紗のマンションへ行き、調査のことなど打ち合わせをしていました。八時過ぎに来客があって、璃紗を殺した後藤勇だと思いますが、二人でいるところを見られるとまずいので、非常口から外に出ました。三十分程して非常口から戻ると、璃紗が殺されていました」
「なぜ、直ぐに警察に届けなかったのですか」
「別居中で自分が疑われると思ったのと、璃紗の書いたものの後を引き継がなければならないと思いました」
「その後、丸山書房にお金の無心にいった?」
「とんでもありません。死んだ小森の作り話です」
「それでは何をしに」
「璃紗を殺したのは、丸山書房かA結社に関係する人間と思いましたので、さぐりを入れにいったのです」
「そうですか。そして、今回の事件に」
「電話でも言いましたが、『歪んだ教科書検定』の第四話の後、第五話から最終話までを執筆しました。その後、小森に連絡しました。小森に璃紗殺害を指示したことを認めさせ、自首するように迫りました。小森は謝罪し自首するといいましたが、引き換えに教科書検定汚職に関する資料と『歪んだ教科書検定』の第五話から最終話までの原稿を要求しました」
「それで大房岬で小森に渡した」
「資料はDVDにいれておきました。小森はDVDを受取ると二つに折って」
「我々も目撃していましたので、小森は事故か、自殺と考えています」
「小森さんは私の元上司です。純粋な方でした。自殺としたら、A結社が掲げる政治信条に心酔していて、組織を守ったのだと思います」
 那須野は雄弁に語って、帰って行った。
 十返舎はまだ何かひっかかっていた。その夜、のびのびになっていた十返舎の快気祝いが、中華街の広東料理店で開かれた。十返舎の妻の菜穂子に、後半からは、料理を終わった娘のひろ子も加わった。ようやく、二十年ものの老酒が十返舎の喉を滑らかにした。

 十返舎が喉にひっかかったものの正体に気付いたのは、新宿駅西口広場のA結社の街宣車の上で、マイクを握る那須野の姿を見た一年後の八月十五日のことであった。

         おわり

四百字詰原稿用紙・81枚

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雷鳴・本文

十返舎警部シリーズ 第三話
         雷鳴
                                                                                          ニョッキ ゲタ

         一

 朝方、遠く西の方から「ごーごー」という雷音が近づいていた。
「今日の夕飯はどうしますか」
「多分、残業で遅くなるから。早く帰れるようだったらメールするよ」
「いってらっしゃい」
 いつものやりとりで夫の利治を送り出した聡子は、朝食の後片付け、洗濯に掃除と派遣先の会社に出かけるまでの短い時間に終わらせなければと、忙しく立ち働いた。二年半の間、平日、時には土曜日までも繰り返された時間帯が今日で終わりになることを、春の雷は告げていたのかも知れない。
 聡子は倉敷で生まれ、倉敷で育った。倉敷の高校を出ると、兵庫にある女子大で、キャンパスライフを謳歌した後、大阪に本社があるM電器に就職した。会社では、商品企画部門に配属され、女性の感性を生かした家電製品の商品開発企画を担当、つぎつぎと新企画まとめて活躍、周囲からも大きな期待が寄せられていた。そんな時、聡子は突然、退職願を会社に出して辞めてしまった。同僚や上司は、寿退社なら皆でお祝いをと意気ばんだが、聡子は結婚ではないと送別会なども断った。
 一旦、倉敷に戻った聡子は、数週間後には東京に向って実家を出た。大学時代に知合い、将来を約束した米山幸雄は、京都の大学と大学院を出ると、N電気に就職し、本社のある横浜勤務となっていた。最初の半年位は遠距離恋愛を楽しんでいたが、少しづつ隙間が広がるのを感じていた。それにつれて会う回数も減っていった。月に一度、交互に大阪と横浜で逢うのに加えて、米山幸雄が出張で関西に来ると必ず逢っていたのが、米山が黙ってそのまま帰っていることに気付いたこともあった。聡子はもう一度、米山との距離を詰めたかった。それには、先ず物理的な距離を縮めることが大切と思い、順調にいっていた仕事を捨てて、東京に米山を追った。
 夕日を背に伸びた自分の影を追って、ゆっくりと歩けばゆっくりと、急ぎ足になれば急ぎ足で逃げていくという苛立ちのなかで、聡子と米山の距離は縮まるどころか、夕日が傾けば傾くにつれて遠くなっていった。やっとのことで会うと、米山の口から別れの話が切り出された。聡子はいつしかこの時が来ると思っていたが、やはり来てしまったかとサバサバとした気持ちにも半分なっていた。
「これまでありがとう。別れた方が二人のためになると思うんだ」
 と米山が言うあまりにも世俗的な言葉を聡子は黙って聞いていた。
「これからも良い友達でいよう」
「………」
「じゃ」
 と手を挙げると振り返ることもなく歩いて行った。聡子が、米山がN電気専務の令嬢と結婚したという話を友達から聞いたのは、僅か十日程あとのことであった。
 半年後、聡子は友達に紹介された片岡利治と結婚した。片岡は有名私立大学を出たF通信のエンジニアで、真面目で仕事一筋というところはあったが、聡子にとって申し分ない相手で両方の実家も二人の結婚を祝福した。新たに購入した3LDKのマンションで新婚生活が始まった。片岡は結婚する前と変わらず真面目で優しかった。残業で帰宅が遅くなっても聡子が求めれば片岡は応えてくれたし、不満は何もないはずであった。聡子は片岡が先に寝息を立て始めた隣りで、いつも自分を責め苛んでいた。聡子は体が燃え盛る絶頂の先で、米山の名を呼んでいるのに気付いていた。片岡は聡子のことを信じきっていたし、生まれもっての素直で無垢な性格から、聡子の心の亀裂に気付かなかった。聡子はいつも心の中で謝り続けたが、米山が絶頂の先から消えることはなかった。
 聡子は結婚して二年を経過した頃から、派遣社員として再びM電器で働き始めた。以前のような商品開発企画の仕事ではなかったが、営業アシスタントとして、プレゼン資料の作成など充実した仕事をして、職場の上司や同僚からも信頼を得た。仕事を始めたのは子供がまだ出来ないこともあったし、新たな環境を加えて米山の影を捨て、片岡の気持ちに百パーセント応えるようにしたいと考えたからであった。
 少しづつ動き始めていた時計の針が、一度に二年半逆回転したのは一月前の一月終わりのことであった。職場でお昼を食べていた聡子に米山から電話が入った。二年半ぶりに聞く米山の声であった。米山は一方的に返したいものがあるから会いたいと待ち合わせの場所と時刻を指定してきた。
「元気そうだね。君から借りていた福山雅治のCDが出てきたものだから」
「………」
「食事ご馳走するよ」
 と米山は言うと、ホテル内のイタリア料理店に聡子を連れて行った。
「これで終わりにして下さい」
 聡子は別れるときに言って、振り返ることなくタクシーに乗り込んだ。職場の仲間の送別会で遅くなるとメールを送っていたので、片岡は、仕度をしておいた夕食を済ませて待っていた。
「疲れているかい」
 片岡が聡子を求めてきた。
「大丈夫よ」
 と胸に顔を埋めると聡子の瞳に涙が溢れてきた。自分でも不思議だったが、その日から絶頂の先に米山を見ることはなかった。

         二

 十返舎警部は静岡県警沼津警察署から昼過ぎに捜査員が来るというので、予め送られてきた事件に関する資料に目を通していた。
 一月二十七日(木)の早朝、沼津市江梨近くの海岸に人が倒れていると、釣り人が110番通報した。警察、消防が駆けつけ、男を病院に搬送したが死亡が確認された。死亡したのは、沼津市の隣り三島市富士見台に住む会社員、西野茂(36才)で、死因は頭部強打による脳挫傷、死亡推定時刻は、前日の夜十時から、翌朝一時で、胃の内容物から寿司を食べ、ビールと日本酒を飲んだ後に死亡したと判断された。
 第一発見者はR機器沼津工場に勤務する川俣豊(38才)で、次のような話をした。
 十二月から一月には、ヤリイカが産卵のために入江近くの浅場まで上がってくる。通常は駿河湾の二、三百メートルの深場で、釣り船からヤリイカを狙うが、この時期に限って、崖下の岩場や大きな石が転がる狭い海岸そして防波堤から、電気浮きを使った投げ釣りでヤリイカを狙える。鳥のササミをまいた角にヤリイカがのって、電気浮きが海面下に僅かに沈むと、花火が開いたように大きな輪が広がる。最近は豆電球の他に発光ダイオードを使ったものまであって、いくつかの電気浮きが同時に沈むと、まるで夜空に打ち上げられた花火を見るようである。
 その日、釣り仲間でもある会社の同僚から前夜のヤリイカ大漁の話を聞いて、退社時刻になるのを待って社宅に帰宅、夕食をかき込み夜8時に車で家を出て、国道414号から海岸線を走る沼津戸田線を飛ばし、道路脇の僅かなスペースに駐車した。この時、幾つかある駐車スペースに他の車は見当たらなかった。木に縛りつけられたロープをつたって、二、三十メートル降りた岩場に着くと、投げ釣りの準備を始めた。その時、雪がチラチラと舞い降りてくるのに気付いたが、構わずに第一投をいつものポイントに投げ込んだ。浮きが立つと直ぐに青白い輪が海面に広がった。
「のった」
 ゆっくりと同じ速さでリール巻いていくと、同じリズムで水をはき出す、ずっしりとした手ごたえがあった。50センチ以上あるヤリイカだった。続いて、第二投を同じポイントに落としたが、暫く反応がなかった。一度巻き上げて、鳥のササミをまいた角を確認してから再び投げ入れたが同じであった。海面に水蒸気が上がり、雪が勢いを増して、竿の上に薄っすらと積もる様になってきた。そろそろ引き上げた方がとラジオのスイッチを入れると、沼津戸田線が雪のため通行止めになったという。携帯電話で家に連絡を入れて、雪の状況を見てから戻ることとし、暫く釣りを続けることにした。相変わらず雪の降りしきる海面に浮かんだ浮きは沈まなかった。
 降りてきた崖道に雪が降り積もるのを見て、崖を上がろうとした時、上の道路に車のライトが通り過ぎ、直ぐに戻ってくるライトが見えた。
「通行止め……」
 ロープをたぐって崖をあがり終える少し前で、今までいた岩場からは突き出た岩で見ることが出来なかった海岸の波打ち際に、何か黒っぽいものが横たわっているのを見た。ただ、雪明かりだけではそれが何であるか確認出来ず、車のエンジンをかけ暖房をつけて夜が明けるのを待った。雪が止み夜が白み始めた時、崖下を覗き込んで倒れているのが人間であることがわかった。
 沼津署では川俣豊の話から、西野茂は他の場所で頭を鈍器で殴られて死亡、車で発見現場の上まで運ばれて、崖下に投げ捨てられたと断定、殺人事件として捜査本部を設置した。
 殺された西野茂の身辺調査では、おおよそ次のことが分った。住所は三島市富士見台であるが、勤務先は横浜市港北区にあるN電気で、毎日新幹線で三島駅から新横浜駅まで通勤している。家には、奥さんと小学三年生の男の子と幼稚園年長組の女の子がいる、ごく普通のサラリーマン家庭である。N電気では、自治体向けの防災システム開発を担当する課長の職にある。上司、同僚の話では、人に恨まれるような人柄でなく、職場では特にトラブルはなかったという。
 殺害された日の足取り調査で次のところまで判明した。
 西野茂は午後三時から、開発委託先会社で行われた会議に参加し、午後五時に終わると、沼津で人に会う約束があるといっしょに出席した部下に断って、センタに戻らず直帰したという。沼津市内の寿司屋への聞き込みの結果、沼津港近くにある「みそら寿司」という店に西野茂が立ち寄ったことが分った。二人連れで、ビールに鰭酒、それににぎりを摘んで、八時過ぎに店を出たという。店から二人を乗せたタクシー運転手は二人を沼津駅でおろした証言している。足取りはここまでで相手が誰であるか分かっていない。
 「これだけだとどう言う話だか分からないが」
 と言いながら、資料を前の席にいる鶴居刑事に渡した。暫く、資料を眺めていたが、
「そうですね。ただ、捜査二課も同席すると言うことですが」
 と鶴居が考えながら同意すると、二人は早めの昼食に出かけた。

         三

 聡子が勤務先から、スーパーで買物をしてマンションに戻ってくると、ロビーに二人の男が立っていた。目が合うと直ぐに下を向いたが、エレベータに乗り込み、扉を閉めたとき男が携帯電話を耳に当てたのがちらっと見えた。7階で降りて、部屋のドアの鍵穴にキーを差し込んだ時であった。四、五人の男が聡子を囲んだ。
「片岡聡子さんですね」
 一人の男が決めつけるように言って、一枚の紙を取り出し聡子の目に突きつけた。
「なんでしょうか」
「失礼しました。神奈川県警の大川と言います。これは家宅捜索令状です。これから、家宅捜索を行いますので立ち会っていただけますでしょうか」
「何のことでしょうか」
 聡子には何が起こっているのか全く分からなかったが、隣りに住む奥さんがドアを開けて顔を出したので、急いで鍵を開けて男達を部屋の中に入れた。捜査員がドタドタと部屋の中に入ってきた。大川という捜査員が時計を見て宣言するように言った。
「では、家宅捜索を開始します」
 聡子はリビングに入って、ただ立っているしかなかった。捜索の手はずを捜査員に指示していた大川刑事が聡子のところへきた。
「突然のことで驚かれたと思います。事情をお話しますので、奥さんからも少しお話をお伺いできますか」
 言葉使いは丁寧でも、拒否することを許さない言い方であった。
「はい」
 聡子は頷くと、ソファーを大川刑事にすすめた。
「突然のことで驚かれたことと思います」
「ええ、いったいどういうことなのでしょう」
「詳しくは申しあげられませんが、ご主人、片岡利治さんがお勤めのF通信が経済産業省から外為法違反で告発され、横浜地検の捜査指揮の下、捜査にあたっています。特定地域への輸出にあたって経済産業大臣の許可を受けなければならない、同社で開発した人工衛星の姿勢制御装置を無断で輸出した容疑です」
「主人はどうして」
「F通信の担当役員および担当部門の責任者から事情を聞いているほか、数箇所の事業所と関係者の自宅を捜索しています」
「その中に主人が」
「はい、開発担当部門の責任者の一人として事情を聞いています」
「今、どこに」
「今日の昼から県警のある警察署で事情を聞いています」
「主人に会えるんですか」
「任意の事情聴取ですが、状況が分からないのでなんとも申しあげられません。逮捕され、拘置されることになれば警察から連絡があるかと思います」
 このやり取りの間も家宅捜索は続いて、捜査員達は押収品の目録を作り始め、一件ずつ聡子に確認を求めてきた。それが終わり、ダンボール箱を出したのは夜十時を過ぎていた。大川刑事らが帰った後、部屋の中はまるで空き巣に入られた後のようであった。タンスから引っぱり出された衣類の中に、聡子はへたり込んだ。利治は十二時を過ぎて帰ってきた。
「明日また警察に行く。逮捕されるかも知れない」
 というと散らかった寝室に篭ってしまった。聡子は利治が遠いところに行ってしまったような気がした。何が何だか、これからどうしたらよいかもわからなかったが、それでも家宅捜索で荒らされた室内を片付けていると、「ごーごー」という音に気がついた。窓の外は白み始め、二日続きの雷が西の空から近づいていた。

         四

 沼津警察署の捜査本部から二人の捜査員が来た。神奈川県警からは捜査一課の十返舎と鶴居が、捜査二課から新庄と日吉の両刑事が応対した。沼津からきた内の一人は身長が190センチはあろうかというひょろっとした若い刑事で日高と名乗った。もう一人は、三原という五十を越えたと思われるベタラン刑事であった。十返舎が日高刑事に聞いた。
「背が高いですね。武道の他に何かスポーツを」
「はい、大学までバレーボールをやっていました」
「背が高いから活躍されたんでしょうね」
「まあ。ポジションはセンタでしたが私の高さでは低い方で、2メートル以上ないと世界ではやっていけません」
「そうですか。実は私の息子もバレーボールをやっていました。そろそろ始まる春高バレーに出たこともあるんです」
「十返舎君は警部のお子さんだったんですか。高校、大学と何度となく対戦したライバルでした」
 二人の話が弾んで本題に入れずにいた三原刑事が、日高刑事に目配せをして口を開いた。
「今日お伺いしたのは」
「ああ、そうですね。日高さん、続きは後で」
 十返舎は、ようやく三原刑事の方を向いてすまなそうな顔をした。
 三原刑事は次のように話した。
 一月程前、沼津では珍しく雪の降った夜に発生した殺人事件については、事前に送った資料の通りである。一ヶ月を過ぎても犯人逮捕に至っていないが、その後いくつかの事実が明らかになった。
 一つは死体遺棄がある地域を密室として行われているという点で、是非、十返舎の知恵を借りたいという。沼津戸田線(県道17号線)は雪のため午後十時に、沼津市内浦で通行止めになった。沼津警察署の警察官が翌朝6時まで交代で監視にあたった。その間、沼津市街から大瀬崎方面に向う車が午後十一時くらいまでに数台あり、地元の住人で家に帰るという理由で通行を許可した。その後、その方向へは車は通っていない。沼津市街地方向へは一台も通過していない。一方、戸田側は午後十時から翌日の昼十二時までの間、山道への入り口がゲートで閉ざされた。第一発見者の川俣豊が日付が変わったころ見た車のライトは沼津方向から来て直ぐに沼津方向へ引き返したと話している。とすると、内浦から江梨までの木負、久連、西浦、久料等の住人が所有する車の可能性もあったので、全車調べたが不審な車は出てこなかった。内浦から江梨までの間の西浦から、山道に入って戸田へ抜ける道路があるが、ここは昨年の秋から路肩崩壊の修復工事中で通行止めになっていた。残された可能性として、朝六時に通行止めが解除された後にこの区間から出たことも考えられたが、警察、消防車両が江梨方面へ通過した後も正午まで検問を続け、戸田方面からの車をチェックしていたが、この中にも不審な車はなかった。
「難問ですね」
 と十返舎は呟いた。
 もう一つ、これが沼津の捜査本部が神奈川県警に協力を求めた第一義である。殺された西野茂が使用していたパソコンに残されたデータからメモが見つかった。メモは暗号めいていたが、科捜研に依頼しメモを解読した結果、N電気の県安全防災局に対する接待記録で、飲食接待が月に一、二度、ゴルフ接待が月に一度行われている。ただ、現金等の授受は確認されていない。記録は西野が殺される前週分まで約二年分あった。接待対象となったのは、安全防災局長、防災センター所長、課長、課長補佐など三、四人である。N電気側は、死んだ西野茂の他、自治体担当の専務と幹部が二、三人で対応していた。
「という訳で、この事案は殺人事件と贈収賄事件が関係しているのではないかと考え、今日、ご相談に伺いました」
 三原刑事が順に4人の顔を嘗めて言った。捜査一課が殺人、強盗、強かん、誘拐、放火等の捜査を範疇とし、汚職、選挙犯罪等に関する犯罪の捜査は捜査二課が担当する。捜査二課の新庄刑事が発言した。
「本社が横浜にあるN電気と神奈川県庁の汚職となると我々の管轄になります」
 それに対し十返舎が付け加えた。
「そちらの捜査本部とも組織の壁を越えて蜜に連携していく必要があるな」
「ありがとうございます。で、お願いがあるのですが我々二人しばらくの間、横浜に常駐して捜査に当たろうと考えています。それで、十返舎さんのところに机を貸していただけないでしょうか」
 三原の頼みを快く十返舎は引き受け、捜査にも最大限協力すると約束した。捜査二課の新庄刑事のところでは、贈収賄事件について捜査を開始することになった。
 その日の夜、十返舎は三原、日高の二人を関内の天麩羅屋で歓迎した。鶴居と島牧巡査もいっしょだった。五人はカウンターを囲んで、一品づつ出される春の天麩羅に舌鼓をうった。わらび、ぜんまい、蕗に山菜の王様といわれるタラの芽はほくほくして絶品で、しその葉を巻いた鰯も美味しかった。沼津では、解禁になった生しらすのかき揚げやキスの天麩羅が時期を向かえていると三原刑事は話した。
 いつしか五人は二人と三人に分かれて話に夢中になっていた。本来なら、独身の日高と島牧がペアになっても良さそうだが、日高刑事は十返舎と話し込んでいた。
「日高さんは、高校はどちらですか」
 十返舎の質問に日高が答える。
「埼玉のF高校です。十返舎君は確か神奈川のH二高ですよね」
「ええ、そうすると春高バレーの準決勝で戦いましたね。悪いけどうちが勝ちましたけど」
「そうです。あの時はうちの方が力が上だと言われていたのですが、負けてしまいました」
「でも、夏のインターハイでは雪辱した」
 二人の話はどんどん盛り上がっていく。他の三人は全く無関心で、別の話題に興じていた。
「大学はどちらへ。N体大です。K体育大学に行った十返舎君とは、インカレの時などに顔を合わせました」
「刑事になったのは」
「これはヘンなことからなんです。大学三年生のときのインカレで、組合せを決める抽選で不正があって、N体大は一年間の対外試合出場停止になりました。一年間バレーボールが出来ないことになって、もともとVリーグでは通用しないと思っていましたので、急遽、国家公務員の試験を受けようと猛勉強をしました」
「それで見事一種に合格した。警察庁に入ったのは」
「もともと体だけが丈夫なもんで。あっ、失礼なことを言いました」
「いや構わん、自分も同じだ」
「十返舎さんのように、キャリアで入庁されても現場で働いているのはすばらしいことだと思います」
「やめとけ、やめとけ。一生給料は安いぞ」
 十返舎は言いながら、嬉しさを隠し切れなかった。
「十返舎君は、今は」
「神戸の会社に就職して、9人制の実業団のバレーボールと大学時代に始めたビーチバレーをやっている」
「それは羨ましいですね。実家の方へは帰ってくることがあるんですか。横浜にいるようだったら会いたいですね」
「多分、五月のゴールデンウィークにはお台場のビーチバレーの大会で戻ってくると思うが、おいおい、事件をもっと早く解決しないと」
「そうですね。十返舎君に会いたがっていたと伝えて下さい」
 僅かに会話が中断した隙を逃さず、鶴居がそろそろお開きにと十返舎を促して歓迎会が終わりになった。十返舎はまだ話したいようで、日高刑事を遠くで暮らしている自分の息子と置き換えているのだった。

         五

 片岡利治は朝早く迎えにきた県警捜査員に任意同行を求められ従った。逮捕されるのを覚悟していたのか、着替えなどの身支度を整えているとき、利治は聡子に言った。
「心配することはない。会社の仕事に忠実なだけだった。それが法律を犯すことになってしまった……」
 聡子は両脇を捜査員に挟まれた利治を黙って見送った。利治が帰ってくるのをしっかりと待っていなければと自分に言い聞かせた。
 夕刊にはF通信が外為法違反容疑で家宅捜索を受け、宇宙システム本部の取締役本部長と同本部人工衛星開発部の部長、プロジェクトリーダの三人が逮捕されたことを報じていた。プロジェクトリーダとして、片岡利治(32)の名前が載っていた。
 昼間の内に利治の両親と自分の両親にも電話を入れ、事情を話した。両方とも直ぐにこちらに来ると言ったが、倉敷の自分の親にはちょっと待つように頼んだ。夕方、埼玉に住む利治の両親が来た。家の中に入った途端、母親が声を張り上げた。
「利治はどうしたの、どこにいるの」
 父親の制止も聞かずに続けた。
「あんた何をしてたの」
 聡子が黙っていると、さらに声が激しくなった。
「だから利治をあんたと結婚させるのは嫌だったんだ」
 初めて聞く、利治の母親の言葉だった。
「何黙っているの」
 母親が聡子に掴みかかりそうになって、父親が抑えて、
「すみません。どこか部屋が空いていますか」
「こちらの部屋をお使い下さい」
 と案内して、二人を落ち着かせた。
 翌日、両親は拘置されている神奈川県警に片岡利治に面会に行くと、聡子の家を出た。父親は前夜の非礼を詫びたが、母親は聡子を睨みつけたまま何も言わなかった。
 二人を送り出した後、聡子は派遣先のM電器に営業部の宮司部長を訪ねた。前日は休むと連絡しておいたが、今日は職場の皆が夫が逮捕されたことを知っている。会社のビルに入ると全部の人が自分を物珍しそうに頭から足元まで嘗め回しているように感じた。営業部に入って部長席まで行く途中、足が震えてよろけそうになった。
「サトちゃん、大丈夫」
 パートさんが声をかけた。そして、派遣で来ている聡子と同年代の女性、アルバイトの女子大生が聡子の回りを囲んだ。
「サトちゃん、心配していたよ。元気出して」
 皆が声かけた。事務所に戻っていた営業社員も声をかけた。
「おい、おい、そこで何をしている。仕事中だぞ」
 宮司部長の低くて太い声が響いた。
「部長、辞める必要はないですよね」
 派遣さんが言った。
「君たちは何を言っているんだ。サトちゃんが辞めるとでも言ったのか。それなら、まず、自分に話すのが筋だろう」
「それはそうですが」
 と声を小さくして派遣さんが言った。
「それに会社の誰がサトちゃんを辞めさせると言っているんだ。社長が辞めさせるといっても僕は辞めさせないよ」
「部長はいつもかっこいいところを持っていくんだから」
 と男性社員の言葉に笑いが起こった。
 この間、聡子は黙って皆の暖かさを感じていた。しかし、甘えてばかりいられない。けじめをつけなければと席に戻った部長の前に立つと、涙が溢れてきて何も言えなくなって、退職伺いと書いた封筒を差し出した。
「僕の前で泣かないで。知らない人が見たら僕が君を虐めているようだから」
 と言って、中も見ないで封筒を破いてしまった。
 聡子は以前と変わらずにM電器で仕事を続けることで、一人になってしまった気持ちを紛らわせることが出来た。数日後には、倉敷から母親が出てきて、利治が戻るまでといっしょに生活することになって、少しは落ち着きを取り戻しつつあった。
 まだ利治の拘留が続いている時であった。沼津警察署の三原と名乗る刑事から、話を聞きたいと電話があった。利治の関係した事件とは全く別の件であると言った。

         六

 県警本部の会議室に、十返舎警部と鶴居刑事、捜査二課の新庄刑事と日吉刑事それに沼津の捜査本部から三原刑事と日高刑事が集まった。新庄刑事が、県安全防災局とN電気の贈収賄疑惑に関する捜査状況について説明した。
 県安全防災局とN電気の癒着が始まったのは、第三次広域防災システムの計画が持ち上がった2年半前である。現行の第二次システムをH製作所に取られたN電気が、会社をあげて第三次システムの受注に動きだした。広域防災システムのメーカー選定のキーマンである局長・伊藤冶一(53才)、取巻きの防災センター所長・滝沢隆一(46才)、課長・山上俊之(38才)、課長補佐・佐藤哲也(35才)の四人が接待攻勢の対象であった。一方、N電気側は、専務・井上敏夫(58才)と部長・米山幸雄(30才)、それに西野茂(36才)である。
 西野茂が残したメモの裏づけが取れたことから、県安全防災局の四名、N電気の二名から任意で事情を聞いているところである。
 県安全防災局の四名の内三名は、飲食接待とゴルフ接待を受けたことは認めたものの、現金などを受取ったことはなく、N電気に便宜を図ったことはないと言った。が、課長補佐の佐藤哲也が重大なことを話した。ゴルフ接待は沼津の600ゴルフクラブで行われたが、N電気からお土産として貰う高級やぶきた茶の箱の底に百万円の札束が入っていたことが、ここ半年の間に三度あったという。この点については三人を今後追及していく。
 N電気の井上専務と米山部長は、飲食の席に同席し、ゴルフをいっしょに回ったことは認めたものの、すべて西野茂が勝手にやっていたことで、自分たちは西野茂の依頼に基いて動いていただけだと主張した。現金を渡したことなど全く知らないという。
「死人に口なしか」
 十返舎がぽつんと呟いた。
「箱の底に現金を入れるとは大胆ですね」
 鶴居の言葉に、十返舎が言葉をつなげた。
「まるで、水戸黄門の悪代官と越後屋を現代に持ってきたような話だが、かえって何も証拠を残さない、我々の眼を欺こうというやり方だ」
「我々は許しません。これから証拠固めをしていきます」
 捜査二課の新庄刑事は厳しい表情で言うと先を続けた。
 贈収賄容疑の立件では受取った見返りに具体的にどういう利益を与えたか、どういう便宜を図ったかを明確にしなければならない。第三次広域防災システムの一般競争入札が二月はじめに行われて、N電気が予定価格のマイナス1%、五百億二千万円で落札している。入札は、予定価格のプラマイ10%で最も安く応札したところに落札する方式を取っていた。これは随意契約を止め、また0円で落札するような不明朗なことを排除しようとする県で定めた入札のやり方で、神奈川方式として知られている。ただ、これは予定価格が絶対に入札前に漏れないことが条件である。
「予定価格を知っているのは」
 十返舎の質問に日吉刑事が代わって答えた。
「これは局長、所長と課長の三人です。現金の授受を認めた課長補佐の佐藤哲也は知らないと言っています」
 新庄刑事が続けた。
「これについても予定価格の積算表やN電気の落札価格の根拠を正していきます。今のところ贈収賄に関してはこういうところです」
 新庄刑事に代わって沼津捜査本部の三原刑事が、一月二十六日の沼津での西野茂とつながりのある人物の行動を説明した。
 局長の伊藤冶一、課長の山上俊之と銀座のクラブ翡翠のママに米山幸雄の四人で、600ゴルフクラブでラウンドした。クラブ翡翠はN電気が接待で使う銀座の高級クラブである。会食の後、局長とママはN電気の社用車で帰京した。米山幸雄の説明では、課長の山上俊之をタクシーで三島駅まで連れて行き、新横浜から新幹線で来た西野茂に山上俊之の接待役を交代し、自分は用事があるので新幹線で横浜に戻ったという。しかし、山上俊之の話は違っていて、三島駅で米山幸雄と別れた後、新幹線で横浜に戻ったのは自分であり、西野茂には会っていないという。
 捜査二課から入手した山上俊之と米山幸雄の写真を、西野茂が当日行ったことが分かっている「みそら寿司」で見せたが、二人の背格好と髪型などが似ているせいもあってどちらか断定できないという。また、みそら寿司から沼津駅まで二人を乗せたタクシーの運転手も同じであった。
 米山幸雄にタクシーで三島駅に着いた午後六時から十時までの間、何処で何をしていたかの説明を求めたところ、人に迷惑が掛かるからと話したがらなかったが、西野茂を殺した容疑がかかっていると言うとある女と会っていたと話した。一方その夜、山上俊之が伊豆長岡温泉の旅館に宿泊、コンパニオンを呼んで遊んでいたことが分かった。山上俊之は追求されると、西野茂と「みそら寿司」に行ったことを認めた。西野茂と沼津駅で別れた後、一人で別のタクシーを使って長岡温泉に行ったという。嘘をついたのは、温泉で遊んでいたのを知られたくなかったからで、旅館の宿泊代、花代、枕のお供代もN電気に回そうとしたが、西野茂が死んで処理してくれる人がいなくなって請求書が宙に浮いているという。
「なんていうことだ」
 話を聞いていた十返舎は怒りを露にし、はき捨てるように言った。

         七

 聡子が仕事を終え神奈川県警本部に行って用件を告げると、取調室に通された。鉄格子のはまった小さな窓の外はすっかり暗くなっていた。婦人警官がお茶を運んでくるのと同時に、三原、日高と名乗った二人の男が入って来てドアを重い音を立てて閉めた。
「こんなところしかなくて済みません」
 三原刑事が机の前に座るとすまなそうに言った。新築なった県警本部ビルに応接室や面談室などがないとも思えなかった。
「今日は取り調べですか」
 聡子は気丈に問い正したが、三原刑事は困ったという顔を作って言った。
「いいえ、取調べだったらカツ丼は出てもお茶は出ませんよ」
「どういう話でしょうか」
 三原刑事が質問を始めた。
「今日、おいで頂いたのはご主人の片岡利治さんとは全く別の件です」
「電話で聞いています」
「米山幸雄という人を知っていますか」
 聡子は突然出てきた名前に動揺が顔に表れた。
「………」
「どうですか」
 とっくに警察は自分と米山の関係を掴んでいると感じた。
「はい」
「どういうご関係ですか」
「答える必要がありますか」
「ええ、調べれば分かることですが、話していただいた方が私たちの手が省けます」
 嫌味な言い方だった。
「昔の恋人です」
「今は」
「米山さんも結婚していますし、私も片岡と結婚しています」
「最近、逢われたことはありますか」
「………」
「どうですか。米山は一月の終わりにあなたに逢ったと言っていますが」
「そうですか」
「一月二十六日の水曜日、夜七時から十時位まで、MM21のホテルでいっしょだったと自分のアリバイを主張していますが、間違いありませんか」
 聡子は手帖を取り出し、一月二十六日前後の予定を確認した。もちろん、米山と遭ったことなどメモしているわけではなかった。
「どうなんですか」
 三原刑事が問い詰めた。聡子は、米山が言っている日にちが一日違いであることに気付いた。米山と逢ったのは、一月二十七の木曜日の夜である。
「いえ」
 と言いかけて止めてしまった。
「どうしましたか」
 三原刑事が追い討ちをかけてくる。
「はい、確かに二十六日の夜、米山と逢っていました。このことは秘密にしておいて欲しいのですが」
 聡子は懇願するような目を三原刑事に向けた。
「安心して下さい。でも、ご主人が拘置されているからといっても火遊びはほどほどにしておいた方がいいですよ」
 三原刑事の言い方にむかったとしたが聡子は黙っていた。背の高い、日高と名乗った刑事が聡子を玄関先まで送って出た時、家宅捜索の時にきた大川刑事が外出先から戻ってきてバッタリと顔を合わせた。聡子は黙って頭を下げたが、大川刑事が話しかけてきた。
「あの時はいろいろと。今日はまた何で」
 隣りにいた日高刑事が代わりに答えた。
「自分は沼津署からこちらに来ている日高といいます」
「十返舎さんのところの」
「はい、沼津で起きた事件についてお話を聞いていました」
 日高刑事はそう言うと自分はこれでと頭を下げて、県警本部内へ消えて行った。それを見届けて、大川刑事がしたり顔になって聡子に言った。
「ちょうどいい、ちょっと聞きたいことがあったんです」
「なんでしょうか」
 取調べのようなやりとりに聡子はうんざりしていたが、大川刑事のうむを言わせない表情に諦めた。
「もう、取調室は勘弁して欲しいのですが」
 と言うと、大川刑事は近くの喫茶店に聡子を連れて行った。
「大分絞られましたか」
 大川刑事の言葉に、聡子は言葉を返す気力を失っていた。
「ご主人の事件の捜査は大詰めを迎えています。横浜地検では、外為法違反でF通信を法人として起訴します。そして、取締役本部長と部長を同容疑で起訴することが決まっています」
「主人はどうなるんですか」
「今のところ起訴するか、起訴猶予にするか決まっていません」
「それで」
「ええと、一ヶ月程前のことなんですが。一月二十七日の木曜日です」
「はい」
「その日、ご主人は何時頃に帰宅されましたか」
 聡子は利治のアリバイを聞かれているのだと直感し、愕然とした。つい一時間前に元恋人のアリバイを聞かれ、証言してきたばかりだ。今度は夫のアリバイを聞かれている。それも、米山と逢っていて自分の帰宅が遅くなった夜のことである。その日利治が何時に帰宅したか知らない。
「どうされましたか」
 大川刑事の声に、やっと聡子は答えた。
「いえ別に。その日はいつもより早く、そう夕方の七時前には帰っていました」
「そうですか。身内の証言は決定的にはなりませんが、奥さんの証言は片岡利治に有利になると思いますよ」
「………」
「良かったですね」
 大川刑事は言うと席を立った。聡子は安堵した。しかし直ぐに、二つの嘘で辻褄を合わせたことに対する不安が広がっていった。

         八

 十返舎の席の脇に置いてある数名用の机に、沼津捜査本部の三原刑事と日吉刑事が十返舎を囲んでいた。
「米山幸雄の一月二十六日夜のアリバイですが、元恋人の片岡聡子という女が証言しました」
三原刑事が言うと、十返舎が質問した。
「元恋人ということだと信頼度はどうなんだ」
「米山の奥さんはN電気の専務の娘ですから、このことが奥さんや専務に知れたら大変です。にもかかわらず敢えて密会を明らかにしたわけです」
「そうか」
 十返舎は頷いたが、百パーセント米山のアリバイを認めたわけではなかった。
「それに、西野茂と接触した山上俊之の長岡温泉でのアリバイは間違いないと思います」
「ということは」
「はい、沼津の西野茂殺しとN電気の贈収賄事件との接点がなくなりました」
「そういうことになるか」
 十返舎は腕組みをして考え込んだ。
「警部、いろいろお世話になりましたが一旦沼津へ引き揚げようかと思います」
「そうか」
「西野茂殺しについて沼津の方でも捜査の進展がないようで、密室の謎が解けないようです。何かヒントはありませんか」
「いいヒントはないが、やはり現場百篇、足で稼げということかな。それに密室にこだわり過ぎないほうが解決は早いかもしれない。月並みで申し訳ないが、第一発見者を疑えということも」
 十返舎の言葉に対し、三原刑事の隣りにいた日高刑事は、もしかしたら警部は犯人が誰か分かっているのではないかと思った。一方、県安全防災局とN電気の贈収賄事件の捜査も、米山幸雄のアリバイの壁があって進展していなかった。大きな成果がないまま、沼津の捜査本部の三原刑事と日高刑事は帰って行った。

         九

 聡子の元へ、二十二日ぶりに利治が帰ってきた。外為法違反でF通信が法人として起訴、取締役本部長と部長が同容疑で起訴された。片岡利治は起訴猶予となった。
 聡子は利治の健康が気になったが、少し痩せたが顔がかえって精悍になったようで安心した。しかし、聡子が何を聞いても短い返事を返すだけで自分から話をするようなことはなかった。逮捕される前とは別人であった。そういう中で、一つだけ利治のほうから聡子に聞いたことがあった。
「一月二十七日のアリバイを聡子が証明してくれたんで、起訴猶予につながった。でも、あの日は職場の送別会とかで君は帰りが遅かった」
「………」
 聡子は黙っていた。
 片岡利治はF通信を辞めた。会社は懲戒解雇でなく依願退職にしてくれた。暫く休養すると言って埼玉の実家に帰ることになって、家を出る時再びアリバイのことを言った。
「前日の一月二十六日は、僕も君も帰宅は早かったはずだが」
 聡子は利治が、米山幸雄とのことを知っているのではないかと思い始めた。ただ誰にも確かめることはできない。利治が戻って来てから休んでいた派遣先のM電器で仕事をしてそんな疑念を忘れようとした。でも、疑念は広がるばかりであった。
「サトちゃん」
 宮司部長の低くて太い声が続いた。
「この資料、こことここが間違っている。直しておいて」
「はい」
 と聡子は資料を受取ると、目に涙が溢れてきた。
「どうした。叱っているわけじゃないから、泣かないでくれる。また、僕が虐めているようだから」
 宮司部長の言葉に涙の量が増えてきた。
「部長、相談したいことが」
「分かった。そこの会議室でいいかい」
 と言って、背の低い衝立で仕切られた会議室に入り、涙の止まらない聡子の話を部長の宮司は聞いた。
 宮司は神奈川県警に電話をかけて十返舎警部を呼び出してもらった。
「警部、M電気の宮司さんという方から電話ですが」
 島牧巡査の声に十返舎が電話に出ると、暫く会っていない大学同期の宮司の低くて太い声が聞こえた。
「十返舎か、元気か」
「おお、何とか。何か用か」
「うん、実は俺のところに派遣できてもらっている女性がいるんだが」
「お前、不倫でもして、その相談か。それだったら今打合せの最中なんで、後から電話するよ」
 十返舎の言い方に電話の相手の宮司は冗談がきついと思ったようであったが、話を続けた。
「愛妻家で知られる俺がそんなことはないよ。実は二つの事件でお前のところで事情を聞かれている片岡聡子についてなんだ」
「何、今その事件につての打合せ中だ」
「それは都合がいい。お前なら話やすい。今日、時間を取れるか」
「もちろんだ。今からでもこちらに来れるか」
「三十分位で行くよ。でも、取調室はごめんだよ」
 十返舎は宮司を応接室に案内すると、お茶とコーヒーのどっちが好いか聞いた。
「片岡聡子は取調室に連れていかれて、まるで犯人扱いだったと言っていたぞ」
 宮司は運ばれたコーヒーを口に運んで言った。
「それは済まない。で、片岡聡子がどうした」
 十返舎の問いに、宮司は聡子から聞いた話を出来るだけそのまま十返舎に伝えた。
「聡子が証明した米山幸雄のアリバイも、夫の片岡利治のアリバイも嘘ということだ」
 宮司の説明が終わると十返舎は確認した。
「聡子が米山と逢っていたのは二十七日だから、米山の二十六日のアリバイはない、そして早く帰宅したという片岡利治の二十七日のアリバイもない」
 心配そうに宮司が聞いた。
「聡子さんは何か罪になるのか」
「んー、まだ捜査段階のことだし、身内を庇ってのことだから特に大丈夫だ」
「そうか安心した。で、聡子さんはどうすればいい」
 安心した表情を見せ質問した。
「俺が立ち会うから、一度こちらに来てもらうように話してくれるか」
「分かった。直ぐに十返舎に連絡を入れるように言うよ。事件の前は、「便所の百ワット」と言われる位明るい子だった」
 宮司は肩に重く圧し掛かっていた重荷が取れたようで、事件が解決したら一度飲もうと十返舎と約束して帰って行った。十返舎は沼津捜査本部の三原刑事、捜査二課の新庄刑事に事情を連絡した。F通信の外為法違反事件は、すでに横浜地検の公判部に回っていた。捜査を担当した県警の大川刑事に話しをしたところ、片岡利治が起訴猶予となったのは、一月二十七日のアリバイとは余り関係がないところで決まったので、今さら蒸し返す必要はないし、蒸し返されても困るということだった。十返舎は無理やり大川刑事からつぎのことを聞きだした。
 片岡利治は人工衛星の姿勢制御装置の開発プロジェクトリーダで、今回のR共和国への輸出にどの程度関わっていたかが問題となった。本部長と部長は、片岡利治が中心的な役割を果たしたと部下に罪を押し付けようとした。一方、片岡利治は装置を開発したリーダは自分であるが、R共和国への輸出については関わっていないと主張した。経済産業省がF通信を外為法違反で神奈川県警に告発したとき、F通信ではR共和国の大使館員と善後策を話し合った。この会合は一月二十七日の夜行なわれ、F通信からは、三人が出席したと本部長、部長は供述したが、片岡利治は参加していないと言った。このため、片岡聡子に二十七日の片岡利治の行動を聞いたということであった。

         十

 一週間後、十返舎の元に三原刑事から、西野茂殺害容疑で川俣豊逮捕の電話連絡があった。二日後、横浜に裏づけ捜査に来た日高刑事は十返舎のところによって次のように話をした。
 日高刑事は沼津に戻ると、先ず死体発見現場となった江梨の崖に足を運んで、現場百篇と言われた十返舎の言葉を実践した。そして、三日目、夜の十二時近くに出かけ、ロープをつたわって岩場に下りた。既にヤリイカ釣りの時期は過ぎ、釣り人の姿も電気浮きもなかった。確かにそこからは死体発見現場の波打ち際は見ることが出来ない。ロープを引っぱって崖を上がっていき、道路に出る5メートルほど下のところで、張り出した岩から身を乗り出して下を除くと、確かに死体発見現場となった場所を見ることが出来た。空に出ている月は満月を少し欠けた位で、あたりを明るく照らし出している。一月二十六日、事件があった日は曇天で雪、明かりはどれだけあったであろうか。そして身を乗り出さなければ見ることは出来ない。
 そして、もう一つ十返舎からアドバイスを受けた第一発見者を疑えということを実践した。第一発見者である川俣豊と西野茂の接点が見つかった。西野茂の遺族に聞くと西野茂のヤリイカ用の釣り道具が見つからないという。二人は釣り仲間であった可能性が出てきた。川俣豊の身辺調査を丁寧に進めた結果、サラ金から三百万円の借金があり、加えて数人の知人から数十万円づつ借金をしていることが判明した。
 任意で捜査本部に川俣豊を呼んで事情を聞いたところ、当初は容疑を否定したものの、川俣豊の車の中から西野茂の釣り道具出てきたこと、自宅から借金のメモなどが出てきたこと、そして密室で犯行を行えるのは川俣豊しかいないことを突きつけられ、西野茂殺害と死体遺棄を自供した。
 一月二十六日夜八時に沼津市内の自宅を出て、あらかじめ携帯電話で釣りの誘いを入れておいた西野茂を沼津駅前で乗せて、江梨の崖に向かった。西野茂の釣り用の支度は一切あらかじめ車に積み込んであり、釣りの現場で着替えをするのはお互いよくしていることであった。途中の車の中で、西野茂から借りているお金の返済を求められ口論となった。海岸沿いのスペースで小用をたしているとき、ころがっていた石で頭を殴ると、出血はないものの直ぐに意識を失くした。RV車の荷物室に西野茂を乗せて江梨の現場まで行き、心音と呼吸を見たが既に死んでいるようで、道路脇から崖下に西野茂を放り投げた。
 その後、崖下に下りて確認したが西野茂を見ることは出来ず、明るくなって張り出した岩から身を乗り出して下を見ると波打ち際に西野茂の遺体を確認できた。
「十返舎さん、ほんとうにありがとうございました」
 と日高刑事が丁寧に礼を言い、十返舎が応えようとした時である。
「大変なことになりました」
 捜査二課の新庄刑事が駆け込んできた。
「どうした。落ち着け」
 十返舎の声に一瞬息を詰まらせて、一呼吸おいてやっと次の言葉が出た。
「ああ、済みません。県政界を巻き込んだ汚職事件に発展しそうです」
「どういうことだ」
「N電気の米山幸雄は一月二十六日夜、片岡聡子と密会していたのでもなく、西野茂を殺害していたのでもありません」
「おい、早く」
 十返舎が急かした。
「すみません。米山幸雄は専務の井上敏夫と県議会与党の大物議員と会っていたと思われます」
「議員から、入札予定価格をN電気に伝えるように安全防災局長に圧力をかけてもらった」
「そういうことだと思います」
「捜査二課は忙しくなるな」
 十返舎は言った。新庄刑事は体中に闘志をみなぎらせ、頭を下げると出て行った。
 その夜、十返舎は日高刑事を中華街の広東料理店に誘った。鶴居刑事と島牧巡査もいっしょである。前菜からスープ、肉料理に魚料理と進んだところで、十返舎はウエイターに何か小声で話しをした。しばらくして、白い料理服に白いキャップを被った女性がテーブルに来てキャップをとって挨拶した。
「いらっしゃいませ。お味はいかがでしょう」
 十返舎が立ち上がって、何かもぞもぞしながら言った。
「娘のひろ子です」
 鶴居刑事と島牧巡査は直ぐに誰であるか分かった。
「久しぶり、元気」
「はい」
「こちらは、沼津からいらっしゃった日高さんです」
「十返舎ひろ子です」
 十返舎は嬉しそうな顔をして話しだした。
「バレーでお兄ちゃんとも対戦したことがあるんだ。身長が190センチある」
「お父さん、ごめんなさい。まだ、料理を作らないと」
「そうか。じゃ、腕によりをかけてな」
「まかしといて」
 とひろ子は腕まくりをしながら厨房に下がった。
 十返舎は、日高刑事とひろ子を引き合わせたつもりであったが、日高刑事とひろ子がどう思ったかは今のところ分からない。

         十一

 その年の七月中旬になって、大きなニュースが報道された。
 県議会与党の大物議員・伊吹三郎と県安全防災局長・伊藤治一、所長・滝沢隆一、課長・山上俊之が収賄容疑で、N電気専務・井上敏夫、部長・米山幸雄が贈賄容疑で逮捕された。そして、米山幸雄は贈賄罪で起訴された後、殺人罪の容疑で再逮捕された。
 西野茂を殺害したとして、元会社員川俣豊の初公判が静岡地裁沼津支部で開かれた。川俣豊は起訴内容をほぼ認めた。殺害の動機について、検察側は金銭トラブルとしたが、川俣はN電気の米山幸雄から殺人を依頼されたと言い出した。殺人請負の約束は逮捕、起訴そして服役した後も家族の生活を全面的に見るというものであったが、米山幸雄が贈賄容疑で逮捕されたことで反故となった。このため、ほんとうのことを明らかにしたということであった。

         十二

 十返舎の元にM電器の宮司から、片岡聡子が離婚して倉敷に帰ることになったと連絡があった。
 聡子は新横浜新幹線ホームで博多行きのぞみの到着を待っていた。
 米山幸雄を追って倉敷から横浜に出てきて、三年余りの月日がたっていた。夫の片岡利治は離婚届けを郵送してきた。封筒の中には、署名捺印された届出用紙と慰謝料は請求しないと書いただけのメモが入っていた。
 西の空から、「ごーごー」という雷の音が聞こえてきた。梅雨明けを告げる雷鳴だった。

         おわり

四百字詰原稿用紙・71枚

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港町・本文

十返舎警部シリーズ 第二話
         港町
                                         ニョッキ ゲタ

         一

 加賀町警察書の薄暗い廊下の片隅をビルの間から差し込む冬の陽が照らし出している。婦人警官に挟まれて、こちらに歩いてくる女がその明かりの円に入った時、十返舎警部は以前何処かで会った女の様な気がした。
 警察署のある中華街は、旧正月を祝う春節のイベントでびっしりの人波が揺れていた。
 横浜に古くから住んでいる人は南京町ともいう横浜中華街の歴史は横浜開港、文明開化と共に始まる。1858年、アメリカ総領事ハリスが幕府と日米修好通商条約を締結、つづいて同年中にイギリス、フランス、ロシアそしてオランダと同様の条約を締結し、翌年の6月2日に横浜、長崎、函館が開港した。それまで小さな漁村であった横浜には全国から人が集まり、短期間に日本を代表する商業都市に生まれ変っていった。横浜にきた西洋人が日本人と取引をするとき仲介者となったのが中国人である。買弁(ばいべん)と呼ばれた中国人は西洋人商人のために商品の買い付けや取引の仲介、売買契約履行の保証まで活動範囲を広げ、漢字を使って日本人との意思疎通をはかるなど貿易を円滑に行うために重要な役割を担うようになってきた。こうした中国人の数が増えてきて、慣れない日本料理や西洋料理ではなく、中国料理を提供しようと一人の中国の料理人が独立して、中国人を対象に商売をしたのが中華街の始めと言われている。開港当時は中華料理店は二、三軒で、関東大震災後、現在の位置で中華街と呼ばれるようになるも、本格的な中華料理店は十数軒であったという。戦後いち早く復興に取組み、現在、中華料理店は200軒以上、広東料理が一番多く約100店で、他に上海、北京、四川、台湾、福建などの中国各地の料理店が集まっている世界一大きなチャイナタウンである。
 中華街には、霊獣の神を東西南北の門に配置するという四神相応観という思想にもとづく四つの門がある。山下公園側の日の出を迎える東の朝陽門には青龍神が、元町側の災厄を払い福を招く南の朱雀門には朱雀神が、根岸線石川町駅側の平和、平安を招く西の延平門には白虎神が、そして横浜スタジアム側の子孫の繁栄を招く北の玄武門には玄武神が祀られている。
 加賀町警察書は玄武門から入った北門通と延平門からの西門通がぶつかる三角地帯にある。海岸通の神奈川県警本部に戻るには、玄武門に出るのが近い。十返舎は署を出ると人並みに圧倒されたものの、春節を見物していこうと善隣門から中華街大通に向った。
 人波のざわつきの中、突然あたりの空気を打ち砕く爆竹の音が轟く。大通から入った通りに人波が押し寄せていく。爆竹をあたり構わずに鳴らす数名の若者に続いて、獅子舞が店頭に吊るされた御祝儀(採青)を貰って、大きな声で商売繁栄を祈って一軒一軒回っていく。
 十返舎は賑やかに繰る広げられる光景にしばしば足が止って、県警本部に戻った時には港の明かりが目立ち始めていた。ちょっと道草を食いすぎたかと思いながら席に着くと、島牧巡査が前に来て言った。
「警部、お疲れさまです」
「いや」
「春節はどうでしたか」
「どうって、人がいっぱい出ていたよ」
 十返舎のそっけない言い方に、悪戯っぽい目をした島牧巡査が続けた。
「1時間位前に、加賀町警察署に行っている鶴居刑事から電話がありました。20分程前に署を出ているので、そろそろ戻っているとはずだと」
「うーん、まいったな。島牧君にかかると直ぐにアリバイが崩れてしまいそうだ。それで用件は」
「はい、戻ったら電話を欲しいということでした」
 十返舎は加賀町署に出向いている鶴居刑事に電話を入れた。
「すまん、遅くなって」
 鶴居はその声に島牧巡査にやられたなと察しって、直ぐに用件に入った。
「警部、先ほど署の廊下で、婦人警官に挟まれた若い女とすれ違ったと思いますが」
「確かに。で、その女がなにか」
「ええ、こちらに捜査本部を置いている中村川の殺人事件の重要参考人の一人です。けれど、黙秘して何も喋らないので困っています」
「それで」
 鶴居が続けた。
「警部とすれ違ってから取調室に入ると、十返舎さんだったら話をすると言い出しました。警部は、その女をご存知ですか」
「実はその時、以前に何処かで会った様な気がしたが、それ以上は思い出せない」
「そうですか」
「最近、そんな若い女とは事件でも関係したことはないが」
 鶴居は電話の向こうの十返舎の困った顔を想像しながら続けた。
「そうですか。それで一度いっしょに女と会っていただけますか」
「もちろんだ」
 十返舎は答えながら、その女が誰であったか考え続けていた。
 翌朝、加賀町警察書に出向いた十返舎警部は、鶴居刑事から事件のあらましと捜査状況の説明を受けた。
 1月30日の午前5時半頃、西の橋近くの中村川に男が浮かんでいるのを通勤途中の会社員が見つけ警察に通報した。管轄の加賀町警察書では、川から引き上げられた男の遺体を司法解剖に回すと同時に、男の身元確認と男が浮いていた付近の捜索を行った。
 死んだのは、中華街広東料理店の従業員で中国籍の鮑宗仁、29才である。死因は、刃物により刺されたことによる失血死で、水を飲んでいないことから、刺されてた後川に投げ込まれたか、転落したと推定された。死亡推定時刻は、前日29日の午後11時から翌30日の午前1時頃で、水に浮かんでいた時間があって解剖から死亡時刻をそれ以上絞りこむのは難しかった。付近を捜索の結果、中村川車橋付近の川に沿った歩道に大量の血痕が見つかり、被害者はその場所で刺されたと思われた。犯行現場と死体発見現場は、約500メートル離れている。29日の満潮が20:45、30日の干潮が04:48で、車橋付近から西の橋付近まで流され、午前5時頃、干潮で潮が止ったところで発見されたと判断された。車橋付近は繁華街から少し離れたところで、今のところ犯行現場の目撃者は出てきていない。
 被害者の鮑宗仁は、新満飯店という中華街では中規模の広東料理店の副料理長で、三年前に来日している。料理長もしている社長の話では、中国で七年間の修行を積んだ腕前で、最近は料理の方は任せていたという。他に五人いる料理人や接客の従業員とも特に問題もなくやっていたという。家族はなく一人で山田町の賃貸マンションを借りて住んでいたと社長は言ったが、仲間の料理人は、半年位前から若い女と一緒に住んでいたと話した。
 その女の名前は、杉本ひろ子、19才で、住所は西区戸部町と直ぐに判明したが、鮑宗仁のマンションにも戸部町の住所にも姿はなかった。ようやく友達のアパートにいたところを発見、事情を聞こうとしたが何も喋らず困っていたところ、十返舎さんなら話をするということになったという。
 十返舎は名前を聞いて直ぐに誰であるか思い出した。鶴居とは取調室に入ると、鉄格子から差し込んだ朝陽が、机の前に座っている女の顔を照らし出した。
「ひろちゃん」
 十返舎は誰であるか直ぐに分かった。会うのは十数年ぶり、ひろ子がまだ小学校に入った頃以来である。
「おじさん」
 ひろ子は十返舎をそう呼ぶと途端に泣き出した。それまでの数日の間、鶴居刑事をはじめ、入れ代わり立ち代りの捜査員の取調べに、我慢に我慢を重ね堪えてきた堰が切れ涙がいっきょに溢れ出した。

         二

 十三年前の夏
 立秋を過ぎても連日35度越す暑い日が続いていた。一台の黒塗りのベンツが弥生町の横興ビルの前に停車し、運転手が降りて後部ドアを開け、男が上半身を車から出した時であった。パーン、パーン、パーンと三発の乾いた銃声が、蒸し暑い空気を切り裂いた。車から降りようとした黒スーツの男は、肩から血を噴出すとその場にうずくまった。そして、ベンツから十メートルほど前方に駐車していた宅配便の小型トラックの運転席から、宅配会社のユニホームを着た男が転げ落ちた。そして、白いジャンパー姿の男がミニバイクで、関内駅方面に走り去った。
 大通り公園をはさんで横興ビルとは反対側にある伊勢佐木警察署から、銃声を聞いて制服警察官が直ぐに現場に来た。二台の救急車が黒いスーツの男とユニホーム姿の男を搬送し、周辺一角に立入り禁止のテープが張られた。目撃者の話から、ミニバイクと白いジャンパー姿の男が手配され、コの字型に中村川と大岡川に囲まれた一帯に非常線を張り捜索した。
 黒スーツの男は、横興ビルに事務所を置く横興商事の専務、竹中義行、37才で、銃弾は心臓をはずれ重傷であるが命に別状はなく搬送先の病院に入院した。横興商事は表向きは貿易会社を装っているものの実体は暴力団で、北朝鮮から中国経由での大麻や覚醒剤の取引を資金源とし、竹中義行はナンバー2で、その取引を仕切る実力者である。竹中を狙った白いジャンパーの男は非常線の網にかからなかったが、現場に居合わせた横興商事の社員の話で、元社員の鬼塚匡、28才と断定、全国に指名手配された。
 宅配便の運転手は、引地晃一、37才で、搬送先の病院で死亡が確認された。銃弾は後頭部を貫通、即死の状態であった。たまたま、宅配便の品物を横興ビルに隣接するマンションに届け小型トラックに乗り込もうとしたとき、鬼塚が撃った銃弾で命を落とすことになった。
 伊勢佐木警察署に置かれた捜査本部で指揮をとることになった十返舎警部は、部下の三原刑事と南区宿町の斎場でとりおこなわれた通夜に出向いた。祭壇には、宅配会社や親戚の名前が木札に書かれた生花が並べられていたが、その中に、横興商事と書かれた木札をつけられた生花があった。葬儀は宅配会社が仕切っているようであるが、何も分らずに受取ってしまったと思われた。遺族席には、亡くなった引地晃一の奥さんと思われる女性が一番手前に座り、隣りには5才位の男の子がちょこんと座っていたが、3才位の女の子は母親の腰にしがみつき、隠れるところをさがしていた。
 十返舎は、横興商事が出した生花と幼い二人の子供を見て、抑えがたい怒りが腹の底から胸を駆け上がり、頭の中に充満するのを覚えた。隣にいる三原刑事は怒りで手足と口が震えていた。十返舎は受付に向かい、葬儀を仕切っている宅配会社の上司を呼んでもらうと、横興商事からの生花を取り外す様に進言、横興商事の人間が受付に来たら、焼香を遠慮してもらい、香典を受取らない様に言った。
「相手が暴力団ですと、面倒なことになりませんか」
 その上司は心配そうな目を向けた。
「亡くなった引地晃一さんが受取るなといっています。警察を信頼して下さい」
 十返舎が強い言葉で説得した。
 暫くして、恰幅の良い五十代の男と若い男が受付に来た。十返舎と三原刑事は少し離れたところで見ていた。受付では、若い男が差し出した香典に書かれた名前を見て言われたように応対した。
「何だと」
 大きな声が聞こえたが、直ぐに二人は帰って行った。三原刑事が十返舎に小さな声で言った。
「体が大きいのが、横興商事の社長です」
 十返舎は県警本部刑事部の全組織を挙げて、横興商事のような組織を壊滅させなければとの思いを固くした。
 指名手配された鬼塚匡の家族関係、交遊関係を調べていた十返舎は、追い詰められて最後には頼っていくのは、実の妹のところではないかと考えた。鬼塚匡は小さい時に両親が死んで、妹といっしょに伯父さんの家で育てられた。しかし、高校を出ると直ぐに伯父さんのところを追い出され、高校に入ったばかりの妹を学校に通わせながら自立していかなければならなくなった。最初は自動車販売会社に入ったものの上手くいかず、ブラブラしているところを横興商事に誘われた。会社に入って見ると実体は暴力団であるこがわかったが時すでに遅く、また働き次第で得られる多額の金に満足し、どっぷりと闇の世界に浸かっていった。しかし、この間に妹を高校卒業まで面倒を見て、その後は妹との距離をとっていたという。妹は結婚して女の子を設けたが、間もなく離婚、現在は6才になった女の子と二人で暮らしていて、名前を杉本智子といい西区戸部町のアパートに住んでいる。
 十返舎は三原刑事に同意を求める様に言った。
「鬼塚は妹のところへ来る」
 それは自分自身に同意を求めることでもあった。
 十返舎と三原刑事は杉本智子のアパートを訪ねた。智子は生保の外交員をしていたがその夜はたまたま早く帰っていた。不意の訪問をわびると、兄、鬼塚匡のことだと分っているらしく急いで二人を部屋に入れて言った。
「苗字も違いますし、殺人事件で指名手配の鬼塚が私の実の兄だとは、アパートの人も、会社の人も、誰も知りません」
 十返舎は杉本智子が言いたいことを理解した。
「分っています。ご迷惑をかけないようしますから」
「私は数年前に離婚していますが、その原因は兄なんです。いえ、兄が悪いんではないんですが」
 智子は涙をいっぱい溜めて続けた。
「主人の会社に、妻の実兄がヤクザだということが知れて」
「それで」
「会社は、主人が会社を辞めるか、ヤクザの義兄と縁を切るか、と主人に迫ったそうです。主人はヤクザの兄と縁を切るように私に求めましたが、私を育ててくれた兄を捨てることは出来ません。それで、娘を連れて離婚することにしました」
「そんなことがあったのですか」
「はい、今は娘と何とかやっていますので静かにしていたいのです」
 十返舎は困った。話を聞きにくくなってしまっていた。
「ところで、お兄さんから何か連絡がありましたか」
「いえ、何も」
「そうですか。それでは、何か連絡がありましたらここへお願いします」
 十返舎がここへ来たのは、杉本智子に鬼塚匡を誘い出す役、おとり役を頼むためであったが断念するしかなかった。

         *

 杉本智子のアパートの張込みは三日目を迎えていた。
 アパートは西区戸部町の岩亀稲荷のある商店街の一つ裏の通りの四つ角にある。
 岩亀楼は横浜開港直後に、今の横浜スタジアムがある場所にあった港崎町の遊郭である。横浜絵によれば江戸吉原を彷彿させ豪華な場所で、そこに絶世の美人といわれた喜遊という遊女がいたという。喜遊はアメリカ人を拒否、楼主と相容れず自害したという。その時に、『露をだに厭う大和の女郎花 降る亜米利加に袖は濡らさじ』と時世の歌を詠んだ喜遊をおまつりしてあるのが岩亀稲荷である。
 アパートはほぼ東西に沿った道路に面し二棟が並んで建っていて、2DKの部屋が3戸づつ1階と2階にある。杉本智子が借りているのは、道路に面したA棟の道路から見て2階の一番左201号室である。203号室の側面は四つ角のもう一つのほぼ南北に沿った道路にも面している。東西に沿った道路の反対側に、倉庫にしている建物と住宅が並んでいて、張込みは倉庫の2階を借りて行われていた。201号室の玄関に焦点を合わせた監視カメラを設置し一人がモニタを見て、一人が細く明けた窓ガラスの隙間から肉眼で監視していた。
 終戦記念日を過ぎても猛暑が続いて、二人一組で三交代で行う張込中の捜査員に疲労の色が濃くなっていた。十返舎と三原刑事は昼食を近くの蕎麦屋でと暖簾をくぐっても素麺しか喉にとおらなかった。午後一時から張込みを交代した。窓の隙間から外を見ても、人っ子一人通らなかったし、車も数分に一台位しか通らない。ギラギラと照りつける太陽が少し落ち着くのをみんな息をひそめて待っているようである。
 キー、ドーンという音が南北に沿う道路の方でした。窓の隙間から見ると、白いクラウンが停車、自転車が脇に倒れ、女と小さい子供が自転車から放り出され倒れている。車から年配の男が出てきたが何もせずに戻ると急発進し走り去った。十返舎は早くと三原刑事に声をかけ、2階から駆け下りると道路に出て、倒れている親子の元に走りよった。
「救急車だ」
 三原刑事が直ぐに救急車を呼んだ。
「戸部署に連絡、白いクラウン、ナンバーは××―××で手配」
 三原刑事が連絡をとっている間、十返舎は泣いている子供を抱き起こし、続いて母親の様子を見ようとした時、アパートの反対側の方でパーン、パーンと2発の銃声が響いた。
「しまった。ここを頼む」
 と十返舎は叫ぶと201号室に突進した。
 玄関脇に一人男が拳銃を手に握ったままうつ伏せになり、血の海となったキッチン奥の部屋に杉本智子が仰向けに倒れていた。そして、側に拳銃をだらりと垂らした手に握った鬼塚匡がどこを見るのでもなく立っていた。
「何をしている。救急車だ」
 十返舎は叫んだ。杉本智子を抱き起こすとかすかに唇が動いた。
「ひろ子をお願いします」
 十返舎は智子の瞼を静かに押さえた。

         *

 逮捕された鬼塚匡の供述から、その時の状況が判明した。
 鬼塚匡は警察から指名手配されるのと同時に、横興商事からも命を狙われた。昔の女のところなどに身を潜めていたが追い詰められた。本意ではなかったが妹の杉本智子に連絡すると、智子は逃走資金を用意してくれるといい、合わせて自分とアパートが見張られているので、道路の反対側から2階に上がる様に手はずしてくれるといった。約束をした日に裏から2階に上がり、金を受取って何度も礼を言って裏からでようとした時、入り口のドアが蹴破られ拳銃を持った男が入ってきた。銃口は鬼塚匡に向けられ、男が引き金に手をかけた時であった。智子が鬼塚の前に飛び出して撃たれ、その男を鬼塚が撃った。
 摘出された銃弾から杉本智子を撃ったのは死んだ横興商事の社員で、その男を撃ったのは鬼塚匡と判明した。鬼塚匡は殺人罪で起訴され、横興商事の社員は被疑者死亡で書類送検された。

         *

 十返舎警部は県警本部長宛に進退伺いを提出し、処分が決まるまで自宅謹慎した。合わせて、杉本智子の6才になる女の子、一人ぼっちになってしまった杉本ひろ子を預かることにした。
 十返舎の妻菜穂子は事情をすばやく理解すると、十返舎家の家族の一員として、ひろ子に接し、いずれは養子縁組の手続きをしようと夫婦は話し合った。ひろ子は母親が死んだことを分っているようで不憫でならなかったが、おじさん、おばさんと二人に懐いでくれた。ただ、そんな日々は長くは続かず、杉本智子と離婚した元夫、ひろ子の実の父親、杉本陽一がひろ子を引き取ると申し出てきた。杉本陽一は再婚していて夫婦でひろ子を迎えにきた。ひろ子はいっしょにいくのを嫌がったが、無理やり車に押し込んで連れていった。
 十返舎警部は刑事部総務課に配属替えとなり、捜査の現場から離れることになった。閑職であったがこの間も、横興商事のような暴力団が麻薬を海外と取引して資金を集め、銃器で一般市民を巻き込んだ事件を起し、なお会社組織の名のもと幹部が甘い汁を吸い続けていることに激しい怒りを覚え続けた。十返舎は組織犯罪を撲滅するため、刑事部に組織犯罪対策本部を新設し、組織犯罪分析、暴力団対策、銃器薬物対策そして国際捜査を一元的に管轄するという組織改革を県警幹部に上奏した。

         三

「ひろちゃん、随分と大人になったんだ。昨日、廊下ですれちがった時も以前に会った様な気がしたけどわからなかった」
 十返舎の言葉にひろ子は少し落ち着いて、
「おじさん」
 と十返舎を呼ぶとまた泣き出しそうになった。
「そうだな。話たくなかったら言わなくていいから、おじさんの言うことに答えてくれるかな」
「わかりました」
 ひろ子は頷くと涙をいっぱいに溜めた瞳を向けた。十返舎は時間をかけて閉ざされたひろ子の心を開いていこうと考えた。
「おじさんも、おじいさんと呼ばれる方が似合いそうな位年をとってしまったが、まだ、おじさんでいいかな」
 ひろ子はくすっと笑いを浮かべると、
「もちろんよ」
 と生意気な口の利き方をした。
「お父さんの家での生活はどうだった」
「どうって、継母に随分と虐められたわ。お父さんも庇ってくれなかった」
「そんな思いをしたのか。どうしようもなかったけど、あの時お父さんにひろちゃんを渡さなければよかった。ごめんね」
「いえ、おじさんが悪いんじゃないわ。それで、高校に入れてもらったけど家を出て一人暮らしをしたの」
「若い時から苦労したんだ」
「高校を出てからはアルバイトをしながら調理師の専門学校に通っているの」
 十返舎はひろ子の気持ちが少し和らいだのを見てとった。
「今回警察の人から聞かれて何も話をしなかったのはどうして」
「ごめんなさい。実は高校2年の時、学校の不良グループが恐喝で捕まった時、私も仲間だって嘘をついたの。それで、警察に呼ばれてお前もやっただろうと追求されたわ」
「ひろちゃんは恐喝なんかやっていなかったんだろ」
「ええ、だけど警察の人はひどいことを言ったわ」
「かまわないからどんなことを言われたか教えてくれる」
 ひろ子は苦しそうな表情を浮かべた。
「お前の血筋は人殺しだって、おじさんが服役中だろうって」
 十返舎はそういうことを言う警察の人間がいることを知っている。いや、状況次第で誰もが人を傷つけるようなことを平気で言ってしまう。
「それで警察には何もしゃべらないって」
「はいそうです。でも、おじさんだったら」
 十返舎はようやく本題に入る機会をとらえた。
「いよいよ事件についてなんだが、いいかな」
「はい」
「新満飯店の従業員の鮑宗仁が殺されたのは知っているね」
「ええ、鮑さんとは同じ部屋に住んでいましたから」
「鮑さんとは、同棲していたの」
「いえ、同じところに住んでいるのでそう思うのが普通だと思いますが違います」
「そのへんのところ話してくれる」
「ええ、鮑さんとは専門学校の現場実習で知合いました。学校では教室の他に実際のお店の厨房での実習があるんです」
「それは知りませんでした」
「半年位前に新満飯店に実習にいきました。鮑さんがいろいろと教えてくれたんです」
「それで」
 十返舎は話を先に促した。
「暫くして、鮑さんから電話があり会いました。誤解しないでと何度も断りながら、部屋に住んで同棲しているように見せて欲しいと頼まれました」
「ずいぶんと大胆なことに思うけど」
「鮑さんは山田町の賃貸マンションを借りていますが、3LDKの広いつくりで、家賃も相当するようです。私が二部屋を自由に使っていいといいます。それにお礼も月々払うと」
「理由はききましたか」
「もちろんです。理由を詮索しないことが条件だと」
「それでいっしょに住むようになった」
「はい、アルバイトをしながらの専門学校は結構きつかったこともありました」
「いっしょに住んでどうでしたか」
「ええ、最初は警戒をしていましたが、男女の関係はもちろん、ほとんど顔を合わせることもありませんでした」
 十返舎はひろ子がしっかりした大人に成長したのを感じとった。
「それで、アリバイということなんだが。鮑さんが殺された29日の午後11時から翌30日の午前1時頃まで何処で何をしていたか教えてくれる」
「あの日は学校を夜の9時過ぎに出て、関内駅近くのお店で友達と会って、12時過ぎに歩いてマンションに帰りました」
「お友達の名前とお店の名前を教えてくれる」
「はい、専門学校のお友達で島田裕子といいます。お店は関内のスタバです」
 十返舎はそれまで取調室の隅に置かれた机に向い静かにメモをとっていた鶴居刑事に、直ぐに裏を取るように合図をした。
「よく話してくれたね。ずいぶんと長い時間引き止めてしまったけど、ごめんね」
 十返舎が言うと、ようやく安心した表情を見せてひろ子が答えた。
「私が黙っていたから」
 ひろ子はもう山田町のマンションには戻らないという。鶴居刑事が連絡先を聞くと困った表情を見せてたが、しばらくビジネスホテルを利用して賃貸マンションを探すという。

         四

 十返舎は別の幾つかの事案を抱えていたが、杉本ひろ子のことが気になっていた。何故、鮑宗仁は偽装同棲をしていたのか、その答えはその日の夕方に公安からの連絡で明らかとなった。
 鮑宗仁は、中華人民共和国の反日運動組織の工作員で、主に日本国内の反中国、反共産の情報を組織に連絡する任務を負っているという。表向きは腕のいい広東料理の料理人として生活する一方、工作員という裏の顔を持っていたのである。工作員の顔をカモフラージュするために杉本ひろ子と偽装同棲をしていたと思われた。
 そして、もう一つ気になっていた杉本ひろ子のアリバイについて鶴居刑事から連絡が入った。ひろ子のアリバイの裏がとれないという。島田裕子はその時間は別の人と一緒でひろ子には会っていないという。関内近くのスタバでその日に働いていたアルバイト店員に聞いても覚えていないという。島田裕子に別の人が誰か名前を聞くと、その人に迷惑がかかるから教えたくないという。十返舎は杉本ひろ子の言うことを信じていた。とすると、島田裕子が嘘をついている。ただ、それ以上鶴居刑事に指示することは出来なかった。
 十返舎は一人で島田裕子に会いに行った。専門学校帰りの裕子と関内近くのスタバにはいると、
「まだ、警察が何か用があるんですか」
 と裕子はあからさまに不機嫌な表情を見せた。
「何度もすみません。杉本ひろ子さんがこの店であなたと会っていたというものですから」
「私は会っていません。お店の人に聞いてみたら」
「お店の人はお客様がたくさんいて分らないと言っています」
「だから私がひろ子といっしょにいたことになるの。ばかばかしい」
 裕子は立ち上がって帰ろうとしたが、十返舎は何とかもう少し手がかりを引き出せないか必死だった。
「すいません、ちょっと待って下さい。別の人と何処に居たかだけでも教えてもらえませんか」
「そんなことを言ったら相手が誰か分かってしまうんじゃないですか。警部さん、ずるいですよ」
 裕子は十返舎の意図を見抜いたことに満足して、わずかな隙が出来たことを十返舎は見逃さなかった。
「しまった、バレてしまいましたか。ついでにもう一つ。その人とはどういう関係なんですか」
「話しても大丈夫かな」
 とちょっと考える顔をして、得意げに続けた。
「中学や高校生だと援交って言うんだけど、今の年だと愛人というのかな」
「そう、妾という言い方もあるが少し古いかな」
「お妾さんだなんて、おじさんいやらしい」
 妙なことに二人の会話が弾んできた。十返舎は手がかりを掴もうとしていた。
「愛人になると幾ら位お金をもらえるの」
「私の場合だと月に五十万円」
「それはすごい。おじさんの給料より多い。月に何度くらいその男と会うの」
「警部さんも、そんなことに興味があるの。いやらしい」
「いや、君みたいに若くて可愛い娘と付き合えるなんて、その男が羨ましくて」
「警部さんの愛人にしてくれる」
「そうしたいが、お小遣いを上げられないからだめだね」
「そうさっきの質問だけど、月に二、三度、ホテルで会うわ。ラブホテルではなくてちゃんとしたホテルで美味しいディナーをご馳走になって、それから。いっしょに泊まることもあるし、あの男が先にかえることも」
「どんな話をするの」
 十返舎はいよいよ機がきたと思った。
「別にどんなといわれても。よく横浜の古い時代のことを教えてくれるわ。中華街の歴史とか、三塔の話とか、そうそう、ここはマッカーサーが泊まったこともあるって」
「マッカサーって、あの終戦のときにアメリカからきた」
「ホテルに架けられた写真で見たけど、ダーバンのサングラスが格好よかった」
 十返舎は、愛人である島田裕子がスポンサーといっしょにいくホテルの一つがホテル・ニューグランドであることを聞き出すことにやっと成功した。

         五

 十返舎は次の日ホテル・ニューグランドを訪ねた。
 1923年の関東大震災で、開港当時からのホテルがことごとく崩壊した後、横浜復興のシンボルとして建てられたのがホテル・ニューグランドである。1945年8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカサーは厚木飛行場に降り立つと、長後街道から国道16号線をジープで駆け抜け、最初の宿としたのがこのホテルである。同年5月29日の横浜大空襲では、このホテルをはじめ、横浜税関、横浜開港記念館、日本郵船ビルなど占領軍が使用を予定した建物が爆撃から外されたという。そして、返還後ホテルを常宿とした大仏次郎が山下公園を散歩した後にバーで、薬草リキュールのピコンにグレナディンシロップを加えソーダで割ったピコンソーダというカクテルを好んで飲んだという話は有名である。
 支配人室に十返舎は通された。支配人とは数十年の親交があった。
「置いてあったのを勝手に見たことにしてくれるか」
 支配人は自分の机に置いた宿泊者名簿をプリントアウトした紙を見た。
「迷惑はかけない。助かるよ」
 十返舎は支配人机の前に置かれた椅子に座ると、指で、名前、住所、連絡先に同宿者名がワープロで打たれたリストをなぞっていった。日本人の男女二名で一泊、住所が神奈川県と東京都の宿泊者を見つけると手帳にメモっていった。五組目を書き写して、記憶にある名前にぶつかった。「竹中義行」、13年前の事件で鬼塚匡に撃たれ重傷を負った横興商事の専務である。同伴者の名前は「裕子」とだけ書かれていた。
 十返舎はホテルからの足で、本町のオフィスビルに事務所を構える竹中義行が社長をしているという竹中貿易を訪ね、社長に面会を求めた。本町通りに面した6階の応接室に通された。竹中が1月29日の夜島田裕子といっしょだったと証言すれば、杉本ひろ子のアリバイの裏づけがないことがはっきりする。ひろ子のために動いているのが裏目となってしまう。竹中が一人で入ってきた。
「お待たせしました。十返舎さん、久しぶりです」
 愛想よく言うと立ち上がった十返舎に座る様に勧めた。
「ずいぶんと手広くやっているんだな」
 十返舎は皮肉を込めたつもりで言ったが、竹中は意に介せず堂々と続けた。
「あの事件の後会社が解散となって、今度はまともな仕事をと一から出直しました。もう、警察とは縁はないと思うんですが」
「それがほんとうだといいんだが」
「用件はなんでしょうか」
「竹中さん、愛人がいますよね」
「どうしてそんなことを。確かに囲っている女がいますが、ご覧のように「ひも」なんかじゃありません。ちゃんと手当てを出しています」
「先月の29日の夜ですが、島田裕子という愛人といっしょでしたか」
「さすが十返舎さん、そこまで調べがついているなら白状しますが、確かに裕子といっしょにホテル・ニューグランドに泊まりました。調べてもらえば分ります」
「朝までいっしょでしたか」
「何度もせがまれたて、年甲斐もなく朝まで」
 十返舎は別の質問をした。
「今はどんな仕事を」
「中華街で使う食材の輸入を中国とやっています」
「中華街のどういうところと取引があるのか教えてもらえるかね」
「それは勘弁して下さい。商売をやっていく大事なネタですから」
 十返舎はまた聞くことがあるかも知れないからと言って応接室を出た。
 オフィスビルから県警本部までは歩いて5,6分である。その短い間に十返舎は一つの仮説のもとに思考回路を回した。
 竹中義行が鮑宗仁の死に関わっていると仮定する。杉本ひろ子のアリバイが成立しないと、竹中義行のアリバイが成立する。杉本ひろ子のアリバイが成立すると竹中義行のアリバイは成り立たない。鍵を握っているのは島田裕子だ。竹中義行は中華街の料理店と取引している。新満飯店との取引、鮑宗仁との接点があったかも知れない。竹中には貿易会社という表向きの顔と13年前と変らない暴力団という裏の顔を持っているのではないか。としたら、偽装であっても同棲していた杉本ひろ子が危ない。
 13年前、ひろ子の母親智子を竹中の仲間から守りきれなかった後悔が思考回路の動きを止めた。しかし仮定だけで警察組織を動かすことが出来ないことを十返舎は一番良く分かっていた。

         六

 十返舎は県庁前の幅が36メートルある大通りの反対側歩道にあるプレートに立った。
 イギリス人ブルックが植栽したというヒマラヤスギ(ブルック松)が高く黒く茂っているほかは街路樹のイチョウは枝だけで、その場所からはキング、クィーン、ジャックの三塔を見ることが出来た。
 キングと愛称で呼ばれるのは、1928年に建設された神奈川県庁本庁舎に聳える49メートルの塔である。クィーンの愛称を持つのは、1934年に建設された横浜税関の51メートルの塔で、国の建物ということで県庁の塔より2メートル高くしたと言われている。そして、ジャックと呼ばれるのは、1917年に横浜開港50年を記念して建設され、待合所時代をしのぶ時計台は36メートルである。
 十返舎は気持ちに迷いが出るとよくここに立つ。答えは自分の中でとっくに決めているのに、キング、クィーン、ジャックのトランプに選択を委ねる。答えは決まっているのに、目をと閉じてカードを引く。
 十返舎は県警本部に戻ると、刑事部の組織犯罪対策本部の部長に面会した。年は十返舎より10才以上若く、十返舎の警察学校時代の教え子の一人である。
「先生」
 と部長が言うと、
「もう先生はいいよ。今日はちょっと頼みが会ってきた」
「どんなことでしょうか。組織犯罪対策本部は先生が作られた組織ですから何でも」
「実は、一月末に起きた中華街の中国人従業員が殺された事件に関係してなんだが、本町のオフィスビルに事務所を置く竹中貿易について調べてもらいたい。社長の竹中義行は、横興商事という名を借りた暴力団の幹部だった。一旦は解散したものの、竹中は新たな会社を興し、中国と食材の取引をやっているらしい」
「我々のところでも、竹中貿易について覚醒剤取締法違反の容疑で捜査を進めています」
「そうですか、それなら話が早い」
「竹中から暴力団への出についてはほぼ固めていますが、入りの方の解明がなかなか進展していません」
「そうですか、一つ馬力をかけてお願いします」
「わかりました」
 部長は十返舎の要望に絶対に応ようという思いを顔に表して答えた。
 つぎに自席に戻った十返舎は茶封筒を引出から取り出すと捜査一課長の前に立った。
「課長、これを預かってもらえますか」
 十返舎の言葉で、課長はそれが退職願であることを直ぐに理解した。
「十返舎さん、どの位の期間ですか。必ずお返ししますから」
「ありがとうございます」
 十返舎は深々と頭を下げると自席に戻った。
 十返舎は急いだ。自分が動いたことで杉本ひろ子はすでに見張られている可能性もあった。幸い、ひろ子の携帯電話と繋がり、加賀町警察署に鶴居刑事を訪ねる様に言って、十返舎も加賀町警察署に向った。ひろ子を警察署の裏口から出し、十返舎は表玄関に回り、別々にタクシーに乗って十返舎の自宅に向った。
「ひろちゃん」
「おばさん」
 十返舎の妻菜穂子とひろ子は名前を呼び合っただけで、しばらく抱き合っていた。ひろ子が無事に家に入ったことを確認してから、十返舎は自宅に戻った。
「まだ容疑の晴れていない重要参考人を匿っていいんですか」
 ひろ子が聞いた。
「退職願を預けてきた」
「そんな」
「ひろちゃんを信じてる」
「ありがとう」
 と言って、菜穂子の腕の中で泣き出してしまった。
「だってひろちゃんは二人の娘だもん」
 と菜穂子が言うと、泣き声が一段と大きくなった。

         七

 中村川中華街従業員殺人事件の捜査本部は、事件発生から一週間を経過しても犯人を特定するに至らず、長期戦の様相に苛立ちはじめていた。被害者と同棲していた杉本ひろ子はアリバイがないものの犯行を裏付ける物的証拠もなかった。被害者が中国の反日運動組織の工作員ということで、日本の反共右翼団体によって消されたという線と反日運動組織内部での何らかのトラブルで消されたという線が考えられたが、公安の調査は難航しているようであった。
 鶴井刑事は三度目になるが、新満飯店の従業員に一人一人会うことにした。職を賭して容疑者の杉本ひろ子を自宅に保護している十返舎警部のために、早く事件を解決しなければとの思いを強くしていた。
 一人の従業員がようやく口を開いた。事件のあった日の二、三日前、帰り支度をしていて、言い争う声を厨房のほうで聞いたという。副調理長は社長のことを裏切りものと罵っていたようで、社長はお前は融通が利かない男だとなじっていたという。
 鶴居刑事は話を聴き終わると十返舎警部のところに急いだ。
 その頃、十返舎警部の元に公安から一つ知らせが届けられた。新満飯店の社長が、数年前まで反日運動組織の工作員で、日本側神奈川地区のボスであったという。
 十返舎は鶴居刑事が県警本部に来ると、話しもそこそこに二人で新満飯店に社長を訪ねた。新満飯店の社長は、名前が陳富峯、56才、丸顔で小太りの男である。店の個室に二人を招き入れると、慇懃に話始めた。
「今日は何のご用ですか」
「こちらは本庁の十返舎警部です」
 と鶴居刑事が紹介すると、
「本庁の刑事さんがお出ましですか。それで」
 横柄な態度は中国人独特のものであろうか、何かの自信であろうか。鶴居刑事が我慢し平静を装って質問に入った。
「アリバイの確認ですが、鮑さんが死んだ時すなわち29日の午後11時から翌30日の午前1時頃まで何処で何をしていましたか」
「何度聞かれても同じです。広東料理店の社長仲間五人と、広東菜館で春節の相談をしていました」
「途中抜け出したりしたことは」
「中国人我慢強いと思ったら大間違いよ。何度も言って、あんた達も調べがついているんじゃないの。中国人を馬鹿にしたら怖いよ」
 陳富峯は大きな声を出した。鶴居刑事のペースにはまってきたとようである。
「すみません。中国の方はなかなか本当のことを言ってくれないので」
「そんなことないよ」
「竹中貿易と取引がありますか」
「中国から輸入した中華食材を買っているが」
「食材だけですか」
「他に何か」
 陳富峯の目に一瞬動揺が走ったのを隣りで聞いていた十返舎は見逃さなかった。
「例えば、大麻、覚醒剤、あるいはピストル」
「何を言うか。無礼だぞ」
 陳富峯は再び大きな声を出した。
「すみません。中国の方も白髪三千丈なんて言いますから」
 十返舎はこれ以上怒らせてはと思い鶴居刑事からバトンを引き継いだ。
「これもまだ若いのでお気に触ったらお許し下さい。横浜の中華街は南京町とも古くからの横浜人は言うんですが、中国の方は」
 十返舎の今までと方向転換した質問に、陳富峯が答えた。
「どうしてそんなことを。私たちは決して南京町とは言いません」
「それはどうしてですか」
「あなた方日本人が我々の同胞を虐殺した都市だからです」
「横浜という大都市で世界一のチャイナタウンを築きあげても、皆さんそういう考えをお持ちなんですか」
「皆かどうか分りません。優秀な日本の警察は既にお調べでしょうが、私も以前は反日組織の工作員でした。その時は反日主義に心酔していたようですが、今は違います」
 陳富峯は冷静になってきた。十返舎が続けた。
「今は、未来志向でということですね」
「そうです。じゃないと竹中貿易なんかと取引は出来ません」
「竹中貿易というのは表の顔で、本性はヤクザだということ知っていますか」
「まあ、そのへんは」
 十返舎をそれ以上は深入りせず、別の質問に切り換えた。
「事件のあった日の二、三日前、鮑さんと言い争っていたと、ちょっと聞いたんですが」
「そこまで調べられているんですね。私が反日運動に不熱心なもんで、あいつが私を責めて」
「それだけですか」
「そうですが。他に何を」
 陳富峯の機嫌がまた悪くなってくるのを見て、二人は一旦加賀町警察署に戻った。

         八

 二日後、その日十返舎は早く帰宅するように、妻の菜穂子から言われて家をでた。ひろ子の歓迎会をやるのですき焼きの支度をして待っているという。7時過ぎに帰宅しチャイムを鳴らしたが、菜穂子の返事はいつものように元気がない。
「お帰りなさい。あなた」
「ひろちゃんはどうした」
「それが、出て行ってまだ帰ってこないの」
「ほんとか。一人では外出しないように言っておいたのに」
「ごめんなさい。私が気をつければ」
 とまで言うと泣き出してしまった。
「泣いていても分らない。どういうことで」
 十返舎は優しく菜穂子の肩を抱いて言った。
「夕方だけど、友達の裕子さんに会いに行くって」
「裕子さんというのは島田裕子」
「ええ、そうみたい。ひろちゃんのアリバイのことでほんとうの事を教えてくれるって」
「それで」
「これで容疑が晴れるかも知れないって。あなたに相談してからと言ったんだけど、大丈夫、大丈夫って」
「罠かも知れないな」
 十返舎が呟くように言った時、居間に置いた電話のベルがけたたましく鳴った。
「もしもし十返舎ですが」
 電話の向こうは無言でこちらの様子をうかがっている。
 十返舎はもう一度声を張り上げた。
「十返舎ですが、どなたですか」
 ようやく相手の声が聞こえた。
「竹中です。先日お会いした竹中貿易の竹中です」
 相手は冷静な話しぶりだ。
「どういうご用件ですか」
「こちらに杉本ひろ子さんが来ています」
「なんだと」
 十返舎の怒鳴り声に対しても竹中は冷静だった。
「島田裕子もいっしょです。ひろ子さんが十返舎さんのところは堅苦しくて帰りたくないというもんで、私のところで暫く保護しておきます」
「ひろ子さんを電話に出してくれませんか」
「嫌って言っていますよ」
「そんなはずはない」
「十返舎さん、拉致とか監禁とか罪をでっちあげないで下さいよ。それに覚醒剤取締法違反とかも嫌ですよ」
「いま何処にいる」
「そんなことを教えて、ひろ子さんが拉致されたら大変だ。ねえ、ひろ子さん」
「ひろちゃんが居るんだったら、電話に出してくれ」
「それでは」
 電話は一方的に切られた。
 十返舎はどう動くか考えた。殺人事件の重要参考人でありながら、ひろ子をあずかったのは一個人である。一人で竹中の手からひろ子を取り返さなくてはならない。電話を黙って聞いていた菜穂子は夫の並々ならぬ気を感じとった。
「ごめんなさい。無理をしないで」
 と懇願するように言った。

         九

 新満飯店の従業員、以前、社長と鮑宗仁が言争いをしていたと話した男から十返舎の携帯電話にたれこみがあったのは、その夜遅くである。社長の電話を偶然聞いてしまった内容は断片的であるが次の様なものであったという。
 ・お前が殺ったのか
 ・これで終わりにしてくれ
 ・夜8時
 ・山下埠頭A突堤
 ・十返舎という警部が嗅ぎまわっている

         *

 倉庫の扉を照らすライトが、霧のような雨に濡れた道路とわずかに波打つ海に少しの明るさを提供していた。二つの男の影がボストンバッグのようなものと封筒のようなものを受け渡した時である。
「そこまでだ」
 十返舎の強い声が響いた。
「十返舎、やっぱり来たか」
 竹中義行が落ち着いた低い声を発した。
「覚醒剤取締法違反容疑で現行犯逮捕する、時間午後8時13分」
「待て、そんなこともあろうと十返舎さんご夫婦で可愛がっている杉本ひろ子がいっしょに来ている」
 コンテナの陰から男が二人の女を竹中の横に連れてきた。杉本ひろ子と島田裕子である。
「おじさんごめんなさい」
 ひろ子が言うと、黙っていろと小突いた竹中の手には拳銃が握られていた。
「十返舎さん、一つ取引をしよう。俺は暫く外国に行く。まず、裕子を連れて帰ってくれ。この男がひろ子を見張っている。俺が船に乗って10分経ったらひろ子を放す」
 十返舎は直ぐに答えが出せなかった。竹中は勝ち誇ったかのようたたみかけた。
「どうする十返舎さん、かわいいひろ子さんが死んでもいいのか。民間人の命より、刑事としての手柄をとったとマスコミの恰好の餌食になるぞ」
 十返舎には解決策がなかったし丸腰である。
「どうする、十返舎」
 と言って、銃口をひろ子に向けた時である。黒い影がひろ子と裕子の前に飛び出した。一瞬遅れて、パーンという音がして青白い閃光が辺りを明るくした。十返舎は竹中にとびかかると拳銃を握った腕をコンクリートに押し付けた。
 その時、数基の投光器で辺りは昼の様に明るくなった。十返舎のところに最初に来たのは鶴居刑事で、十返舎に代わって竹中を押さえ込むと手錠をかけ、制服警官に身柄を渡した。竹中の部下の男と新満飯店の社長それに島田裕子が連行されると、十返舎はひろ子の前に倒れている男のところに駆け寄った。
「しっかりしろ。早く救急車だ」
 十返舎の呼びかけに、男は薄く目を開けると残る最後の息で言った。
「ひろ子をお願いします」
 十返舎はその男が誰であるか直ぐに分かった。鬼塚匡の瞼を静かに押えた。
 十返舎が上に目を向けると、鶴居刑事をはじめ、捜査一課長、組織犯罪対策本部部長そして島牧巡査の顔が覗き込んでいた。
「どうしてここが」
 十返舎の怪訝そうな言い方に部長が答えた。
「十返舎さんの作った組織ですよ。凄腕が揃っていますから」

         十

 加賀町警察署に出向いていた鶴居刑事が事件の後始末を終えて本部に戻って来て、十返舎に事件の全容を報告した。
 新満飯店の社長、陳富峯は反日運動組織の工作員として活動するうち、反共右翼団体そして暴力団と親密となり組織を裏切った。竹中貿易が輸入する中華食材に紛れ込ませた覚醒剤を梱包から取り出し、竹中義行に渡して報酬を得ていた。鮑宗仁を殺したのは竹中義行で、陳と竹中の関係や覚醒剤の取引について秘密を知られ始末した。アリバイについては島田裕子とひろ子は関内そばのスタバで話していたのが事実で、竹中は別の女とホテル・ニューグランドに泊まって、一人でホテルを抜け出し、鮑宗仁を刺殺して、直ぐにホテルに戻った。拳銃を使用しなかったのは、鮑宗仁と同棲していた杉本ひろ子に疑いの目を向けるためである。
 竹中に撃たれて死んだ鬼塚匡は2ヶ月前に仮出所、13年前に自分の身代わりとなって杉本智子を死なせてしまった償いか、今度はその娘ひろ子の身代わりとなった。

         *

 その日十返舎は早く帰るように、妻の菜穂子から言われて家をでた。ひろ子の歓迎会と送別会をやるのですき焼きの支度をして待っているという。十返舎は鶴居刑事と島牧巡査を誘って帰宅したが、チャイムを鳴らしても誰も出てこない。先日、すき焼だと聞いて早く帰ったが、ひろ子が拉致された後であった。十返舎の頭には嫌な考えが横切ったが、リビングのスイッチに手をかけると吹っ飛んだ。明かるくなって、クラッカーが鳴って、「ハッピーバースディの歌」で迎えられた。
 鶴居と島牧も加わって、十返舎の誕生祝いとひろ子の歓迎会、送別会がすき焼きを囲んで賑やかに行われた。杉本ひろ子は十返舎夫妻の養女となることで手続きが進んでいた。ただ、ひろ子はもうすぐ二十歳になるからと独立して生活していく道を選んだ。十返舎ひろ子となる日はもう直ぐである。

         *

 中華街には中華街憲章というのがある。
第一章 礼節待人の中華街 私たちは横浜中華街への客人を礼節をもって迎えもてなすとともに、客人とともに研鑽し、成長発展していきます。
第二章 創意工夫の中華街
第三章 温故知新の中華街
第四章 先義後利の中華街
第五章 老少平安の中華街
第六章 桃紅柳緑の中華街
第七章 善隣友好の中華街 私たちは、横浜中華街の内部ではぐくまれてきた善隣友好の互助精神を外部にも発揮し、人類の平和と発展を大切にする意識をもって待ちづくりを進めていきます。
 港町は開港150年、十返舎は誰もが中華街を南京町と呼べる日が来ることを願った。

         おわり

四百字詰原稿用紙・73枚

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螺旋・本文

十返舎警部シリーズ 第一話
         螺旋
                                         ニョッキ ゲタ                                                                                 

         一

 横浜横須賀道路、通称『横横』の佐原ICを出て、京急野比駅の前を通過して右折すると直ぐに海岸通りにでる。冬の日差しにキラキラと輝く水面を左に見て進むと、細長い駐車場と一年を通して建てたままの海の家が数百メートルに渡って見えてくる。ここは、夏は三浦海岸海水浴場として賑わい、今はウィンドサーフィンのメッカとして多くの人を集めている。海の家が切れたところで道路は三方向に分かれる。一番右を行くと武方面へ、真ん中の道は三崎、油壺方面である。一番左の道は海岸線に沿って延びていて、金田漁港から剣崎に通じている。砂浜には数基の足場が組まれ、初冬には三浦大根がびっしりと掛けられて天日干にされ、沢庵漬けに出荷されるのを待っている。金田漁協前を過ぎると上りとなり、やがて緑いっぱいの葉っぱをつけた白い大根が覗く畑が広がる丘陵地帯が目に飛び込んでくる。剣崎への入り口を通り過ぎて下ると江奈湾から、毘沙門バイパスのトンネルに入る。
 市川章造はトンネルを出たところで、警察官にバイクを停車させられた。
「お急ぎのところすみません」
 バイクの前に立ち塞がった警察官に、ヘルメットのゴーグルを上げて市川はぶすっと応えた。
「何か違反をしましたか」
「いや、そういうことではなくて。この先のところで事件がありまして」
「どういう事件ですか」
「それはちょっと」
「それじゃ、どういう用件ですか」
「この道路はよく通りますか」
「どういう事件か教えてもらえなくても話す必要がありますか」
「自分は下端なんでちゃんと聞いていないんですが、集団自殺ということです」
「ここは時々ツーリングで使います。寒くて遠出できない季節には三浦半島は手軽なコースなんです」
「今日は、ここは初めてですか」
「ええ、そうですが」
「分かりました。お手数をおかけしました。気を付けて安全運転をお願いします」
 市川は警察官に敬礼されると、アクセルをふかして走り出した。畑の中で、十数人の警察の人間が白いワゴン車の周りでせわしく動いているのを見ながら、毘沙門湾を過ぎた坂を上ると、二基の風力発電のプロペラがゆっくりと回っているのが見えてくる。宮川公園の駐車場は、いつもと違って大勢の人がガヤガヤと騒々しく動いている。テレビ局の中継車が二、三台停まっている。公園の方では、どこかのテレビで見たことのあるレポータが海を背にカメラに向かってマイクを握っている。市川はいつもの様に公園でのんびりと休むことが出来ないとわかると、そのまま通り過ぎた。
 夕刊からは大きな活字が飛び出していた。
 『同時多発集団自殺』『全国五ヶ所で18人死亡』
 そして、夕方のニュース番組は、一斉に特番を組んで、同時多発集団自殺を報道している。
 集団自殺したのは、北海道苫小牧市で、男2人(51才、21才)と女3人(26才、26才、21才)の計5人、青森県鯵ヶ沢町で、男1人(38才)と女2人(39才、17才)の計3人、神奈川県三浦市で、男3人(53才、25才、19才)と女1人(21才)の計4人、広島県尾道市で、男1人(33才)と女2人(41才、18才)の計3人、佐賀県唐津市で、男1人(29才)と女2人(23才、16才)の計3人である。
 五箇所の事件現場は、主要道路からは離れているものの、地域の生活道路から少し農道や林道に入ったところで、比較的発見され易い場所であった。警察庁は各都道府県警察本部に対し、同種の事件車両の捜索を指示した。五箇所での事件で共通しているのは、死亡推定時刻が発見前夜の12時頃であること、死因が一酸化炭素中毒と推定されること、練炭七輪が車内に置かれていたこと、使われた車はレンタカーで白色のワンボックスカーまたはRV車であることなどである。加えて、死亡した18人全員が首から名札を掛け、そこには名前、住所、年令、連絡先が書かれていた。
各所管の警察がそれを元に身元確認と死因の特定、自殺の動機などの調査を進める一方、前代未聞の事件に警察庁はIT犯罪対策室に連絡チームを設置し、各県からの情報を一元化し分析をすすめ、インターネットの自殺サイトが何らかの役割を果たしたと思われることから、この点の捜査を担当し事件の解明にあたることになった。
 市川は、翌日の朝刊に目を通した。紙面の大半は同時多発集団自殺事件の続報である。昨日、遭遇した三浦市での事件では自殺した4人について、名前を伏して報道されていた。
 53才の男は、住所が千葉県浦安市、職業は会社員、上場企業の課長をしていて、家族は、奥さんと成人した長女、次女の二人いる。家族の話では、最近仕事上の問題で悩んでいたようだが自殺するような人ではないという。インターネットは仕事を持ち帰った時に利用していた様だという。死亡した日は、何時通りに出社し、帰りは用事があるからと千葉駅で同僚と別れたという話である。
 25才の男は、川崎市高津区のアパートに住むフリーターで、家族は山梨に両親と兄夫婦がいる。アルバイト先の仲間の話では、相当なネットおたくで、アルバイトの時以外はアパートに引篭もってパソコンに向っていたという。自殺の動機は、「彼ならありうる」というのが仲間の話であった。死亡した日にはアルバイトはなく、誰も彼を見た人は見つかっていない。
 19才の男は、東京都渋谷区に住む浪人生で、両親が歯科医をしている裕福な家庭で、高校生の妹との四人暮らしである。二回、大学歯学部の受験に失敗していて、この春位から家で暴力を振るう様になって、自分の部屋に立てこもり、二、三日部屋から出てこないで、パソコンに向っていることがあったという。両親は、必ずしも歯医者にならなくても別の道を探したら話していたが、本人にはそれが逆にプレシャーになっていたのかも知れないと涙を滲ました。死亡した日は、夕方に両親が住居に戻ると部屋に姿はなかったという。
 21才の女は、住所が横浜市中区で、職業は会社員、両親と弟二人の五人家族で暮らしている。家族や同僚の話では、自殺する動機は分からないと言い、死亡した日は、夕刻の6時過ぎに汐留のオフィスを同僚と一緒方に出て、新橋駅で別れたという。特に変ったことはなかったと話した。

         二

 警察庁IT犯罪対策室に連絡チームが設置された。
 連絡チームは先ず、5箇所の警察署に対して、自殺した18人のパソコン及び携帯電話に残されている電子メールの送信記録と受信記録の収集と提出を求めた。18人の内、5人の記録は自殺を覚悟したのか消去されていたが、13人分については、自殺サイトとのやり取りと思われるものが残っていて、相手のメールアドレスは三つに限定された。更に、サイトへのアクセスログが残っていた二、三のパソコンから、自殺サイトが浮かびあがってきた。メールアドレスとアクセスログから、裁判所に捜査令状を請求、プロバイダからサイト契約者の情報を入手した。
 自殺サイト『天国への道』を運営するのは、年が37才、住所が東京都八王子市、職業は大学で助手をしている独身の男であった。この男の事情聴取、『天国への道』の掲載情報、自殺者とのメールのやり取りから等から、同時多発集団自殺の仕組みが明らかになってきた。
 サイト運営の男は、『天国への道』に自殺者の募集と自殺サポータの募集を掲載し、以後、募集してきた人とのやり取りは、一対一のメールで行われた。従って、死ぬ日の夜まで18人はお互いに接点、面識はなかったことになる。
 自殺志願者に対しては、20万円の参加費用と称した金を振り込ませ、身辺の整理を周囲に気付かれずにしておく様に指示、Xデーの連絡を待たせた。
 自殺サポータは10万円の報酬で雇われ、レンタカーの手配、練炭コンロの準備、自殺志願者のピックアップを行い、全員が集まると、練炭に火を起こし自殺場所をカーナビに設定して、キーを自殺志願者の一人に渡して役割を終えるというものであった。
 自殺幇助教唆と自殺幇助の容疑で、自殺サイト『天国への道』の運営者が逮捕され、4人の自殺サポータが自殺幇助の容疑で逮捕された。

         三

 年が明け、立春を過ぎた頃、市川は一本の突然の電話を受けた。相手は、十数年前まで、近くに住んでいた根本という家族の絵美という娘さんからであった。子供同士が同じ年で同じ幼稚園、小学校ということもあって家族ぐるみのお付き合いをしていて、家族が仕事の関係で千葉の方へ引っ越されてからも交流が続いていた。暫くのご無沙汰を詫びる挨拶の後、重たい声が市川の耳に響いた。
「父が亡くなりました。市川さんには直ぐにお知らせしなければと思ったのですが、父の死を内密にするよう会社から言われまして、家族、親戚のごく限られた者で葬儀などを済ませました」
「ええ、ほんとうですか。どうして」
 市川は驚きを隠しきれなかった。
「ええ、先日四十九日の法要と納骨を済ませましたので、ご連絡いたしました」
「それで、どうして亡くなられたのですか」
「それが」
 暫くの沈黙の後、絵美が続けた。
「自殺です。去年の12月の同時多発集団自殺という事件で死んだ内の一人です」
「三浦半島ですか」
「そうです」
 市川は、その日に事件のあった直ぐ傍を通ったことを言いかけて飲みこむと、
「電話ではなんですから、一度お線香をあげに家にお伺いしたいのですが」
 と言うと、
「そうしていただけると父も喜ぶと思うのですが」
 絵美は困ったような言い方をした。
「なにか」
「先程も申しましたが、父が勤めていた会社から内密にするよう言われていまして、今でも家の者が四六時中見張られている様な気がします。私とか妹が外出すると、いつも誰かに尾行されているようで」
「そうですか。それは心配ですね」
「こんなお願いをするのはご迷惑かと思いますが」
「どんなことですか」
「はい、私共、母も妹も私も、父が自殺したとは思えないのです。それで、少しお話を聞いていただきたいのですが」
「わかりました」
「ありがとうございます。尾行されているといけませんので、仕事の帰りに少し雑踏をグルグル回ってから行くようにします」
 二日後の夜、7時に日本橋近くの市川がよく利用する日本料理店で会うことになった。
 市川には、根本絵美がこの半年位の間に随分と大人になった様に映った。父を失った深い悲しみを胸に秘め、毅然とした態度をとらなければという気持ちが良く分かった。
「絵美ちゃん」
 市川の言葉に涙をこらえて、
「市川さん、お忙しいのにすみません」
「いや、電話でお父さんが亡くなられたと聞いて驚きました。お母さんと妹さんはどうされていますか」
「はい、母は父の葬儀が済むと過労か悲しみのためか入院してしまいました」
「それは心配ですね」
「でも不思議なもので、これまで喧嘩ばかりしていた妹がいっしょに母を看病し、私を助けてくれます」
「それは良かった。で、お父さんが亡くなったことについて」
 市川の問いに、絵美が話し始めた。
「あの日、父は普段通り家を出ました。母が見送っていますが、特に変ったことはないと言っています」
「お父さんは、確か大手のガス器具のメーカーにお勤めでしたね」
「はい、タニイ工業のサービスセンターに勤めていました。勤務先が千葉市に転勤になったことで、十数年前に市川さんの家のご近所から引越しました」
「その日のことですが」
「いつもは夜7時過ぎには帰宅しますし、残業等で遅くなる時は必ず連絡がありましたが、その夜は何もないまま10時を過ぎてしまい、会社に連絡を入れましたが、定時に帰宅したという話でした。二、三の父の知合いの方に電話しましたが、父と連絡はとれません」
「それで」
「そのうち日付も変ってしまって、朝を待つことにしました」
「それは心配でしたね」
 絵美は続けた。
「朝8時30分になるのを待って会社に電話しましたが、まだ出社していませんでした。何かあったのかと、警察に行って捜索願を出しました」
「そうですか」
「昼過ぎでしょうか、会社の上司の部長さんから電話を頂きました。父が自殺したと」
「んー」
「それも、三浦半島で集団自殺したと」
 絵美の凛とした言葉に対して市川は言葉を失っていた。絵美は、その後の状況を含めて警察からの説明と会社の対応を話した。
 絵美の父である根本正は自殺サイト『天国への道』へアクセスし、20万円の参加費用を振り込んで、同時多発集団自殺に参加した。三浦半島で他の三人と練炭コンロを使って、一酸化炭素中毒で自殺した。死因は一酸化中毒であるが、根本正は睡眠薬も大量に服用していた。名前、住所、年令、連絡先が名札に書かれていたが、根本正の名札の連絡先には会社の上司の部長の名前と電話番号が書かれていた。
 池上秀男という部長は、警察から遺体を引き取るときから家族に付き添い、葬儀等の面倒を親身になってみたが、その中で、根本正の死を出来るだけ内密するよう家族に要請したという。理由は、亡くなった原因が自殺で、会社の対外的な対面を考えてということで、家族もそのことを考えて同意したという。
「「父は自殺するような人ではないのですが」、と部長さんに言うと、「自分もそう思う」、と言います。「仕事のことで、何か悩んでいるようところもあったのですが」と聞きましたが、「仕事は順調で思いあたらない」、との答えでした」
 絵美の話に、
「私も、お父さんが自殺するような人には思えません。お父さんを思う気持ちの他に何か気になるようなことがありますか」
 と市川は質問した。
「そう言われると、はっきりしたことはないのですが」
「なんでも構いませんよ」
「ええ、一つは父だけが睡眠薬を飲んでいるということ」
「それに対して警察はなにか」
「はい、4人のなかで一人だけ年をとっていて、自殺する気持ちを他の三人となかなか共有できなくて、睡眠薬を飲んで眠ってしまったと」
「そうですか。他には」
「自殺サイトに振り込んだ20万円ですが、父がどこからお金を用意したかということです。お金の管理は全くの母まかせで、ヘソクリ等する様な人ではありません」
「そうですか」
「それに、先日お話しました様に、いつも誰かに監視されているような気がすることです」
「ああ、そうでしたね。今日は大丈夫でしたか」
 ようやく、絵美は悪戯っぽい笑顔を見せると、
「完璧に巻いてきました」
 市川は少し安心して、
「絵美さんの気持ちは分かりました。たぶん警察に再捜査を申し入れても難しそうですね」
「ええ、それで市川さんに話を聞いてもらいました」
「どれだけ力になれるかわかりませんが、出来ることをしています」
「よろしくお願いします」
「そろそろ尾行に見つかっているかもわかりません。気をつけて帰ってください」
 市川は優しく言うと、絵美と別々に店をでた。

         四

 海岸通りに聳える本部庁舎の神奈川県警捜査一課で、十返舎警部は、もたもたした手つきでパソコン画面と睨めっこをしていたが、パソコンがうんともすんとも動かなくなって、
「島牧くん、すまん」
 と捜査一課内で一番のIT通の島牧巡査を呼んだ。
「警部、どうしました。フリーズしましたか」
「えっ、外は寒いけど部屋の中だから凍りついてはいないと思うんだが」
「いやだ、警部、フリーズというのはパソコンが全く動かなくなったこと、デッドロックとも言うんですよ」
「フリーズだか、デッドロックだか難しいね。警察庁のIT犯罪対策室が出している広報を見たいんだが」
「ちょっと席を代わってもらっていいですか」
 と島牧巡査は言うと、パソコンのキーボードとマウスを何やらカチャカチャ、カチカチやって、
「警部、これでいいですか」
 と、警察庁T犯罪対策室が出している年度上半期の『ネット犯罪検挙状況等について』という画面を見せた。
「ああ、これこれ。いつも助かっているよ」
 と言って再びパソコン画面を睨み始めた。そこには、ネット犯罪の検挙状況、相談状況が一般市民向けに掲載されていた。

 【警察庁広報資料】
 警察庁広報資料『平成19年度上半期のサイバー犯罪の検挙状況等について』から一部を引用。
 平成19年上半期のサイバー犯罪(情報技術を利用する犯罪)の検挙件数は1,808件で前年同期(1,802件)とほぼ同数。
 罪種は不正アクセス禁止法違反、コンピュータ・電磁的記録対象犯罪、ネットワーク利用犯罪に分類される。それぞれの主な検挙事例。
○ 不正アクセス禁止法違反
 被疑者(会社員・男・31歳)は、インターネット証券会社の他人の証券情報を見るため、総当りによりID・パスワードを検索するプログラムを自作し、使用して利用権者の識別符号を入手し、同会社のコンピュータに不正アクセス行為を行った。
 ○電子計算機使用詐欺
 被疑者(鉄筋業・男・36歳)らは、高速道路の正規の通行料支払いを免れるため、軽自動車向けのETC車載器を大型トラックに設置し、ETC使用料金算出・徴収の事務処理用電子計算機に虚偽の情報を与え、不実の電磁的記録を作り、財産上不法の利益を得た。
 ○電子計算機損壊等業務妨害
 ○詐欺
 被疑者(無職・男・40歳)は、消費者金融会社がインターネット上に提供する「借入れ申込みフォーム」により、他人に氏名や生年月日を入力して、返済の意思もないのに借り入れを申し込み、現金を騙しとった。
 ○著作権法違反
 被疑者(無職・男・43歳)は、著作権者であるアニメーション会社の承諾を得ずに、アニメーションを複製したDVD98枚を作成の上、インターネット・オークションに出品して落札者に販売し、著作権を侵害した。
 ○商標法違反
 被疑者(無職・男・37歳)らは、偽ブランドの鞄等をインターネット・オークションに出品して販売し、商標権を侵害した。
 ○わいせつ図画公然陳列幇助
 携帯用インターネット掲示板の管理者である被疑者(派遣社員・女・32歳)は、投稿されたわいせつ図画を放置して、わいせつ図画公然陳列を容易にさせた。児童買春・児童ポルノ法違反幇助でも検挙。
 ○特定電子メール送信適正化法違反
 被疑者(会社役員・男・47歳)らは、出会い系サイトの広告又は宣伝を行うため電子メールを送信する際、国外に設置した128台のパーソナルコンピュータを遠隔操作して送信し、自己の営業につき広告又は宣伝を行うための手段として、送信者情報を偽って約2ヶ月間で45億通の電子メールを送信した。
 ○ストーカー規制法違反
 被疑者(無職・男・34歳)は、被害者に対する好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的で、インターネットカフェから、被害者の勤務先にわいせつな画像を送信するなどした。
 ○侮辱
 被疑者(中学生・女)は、自己所有の携帯電話から、インターネット掲示板サイトを利用し、被害者(中学生)を誹謗する内容を書き込み、公然と侮辱した。
 ○携帯電話不正利用防止法違反
 ○薬事法違反
 被疑者(健康食品販売会社役員・女・71歳)らは、酒酔い状態を解消できるなどとうたった未承認薬品をホームページ上で広告、販売した。
 【ここまで】
 十返舎は、一通り読み終わると島牧巡査に話かけた。
「この資料は見ましたか」
「はい、IT関連で警部から何か言われたら、何でも応えられる様にといつも心がけていますから」
「それはすごい。何でも島牧くんが教えてくれるから、いつまでたってもIT初心者なんだよな」
「そんなことはありません」
「ここにいくつかの犯罪例が載っているが、よくも悪いことを思いつくね」
「そうですね。多分、摘発されているのは氷山の一角だと思います」
「被疑者の年令が一部を除き、三十代が多いようだが」
「そう思います」
「まだ、昨年暮れの同時多発集団自殺については触れられていないが、あの三浦半島の事案では、確か53才の男が入っていたと思うが」
「あの事件の前にも、ネットを介した集団自殺が発生していますが、53才というのは年令が高いほうだと思います」
「53才というと私と同じ年代、いつも島牧くんに世話になっている IT初心者の自分と違って」
 島牧巡査は笑いながら、
「警部、大丈夫ですよ。私の父親も同じ年代ですが警部といっしょですから。あっ、ごめんなさい」
「その通りだから。すると、自殺した53才の男のほうが我々とは違っていた」
 この時、十返舎は、自殺した53才の男の事件に関わるとは思ってもいなかった。

         五

 市川章造は根本絵美に出来るだけのことをしますと言ったものの、どうしたものか逡巡していた。十返舎という高校の同級生が神奈川県警にいることを念頭に安請け合いをしたが、絵美の父親が自殺ではないという具体的な証拠は何もなかった。そんな時、絵美から電話がかかってきた。
「何か進展がありましたか」
 絵美の問いに、市川はまだ何もしていない後ろめたさを覚えつつ応えた。
「すみません、まだ具体的には何も進展していません」
「こちらこそ、お忙しいところお手数をおかけします。電話しましたのは、今日の夕刊に出ていた事故のニュースについてです」
「といいますと。どこの新聞ですか」
「私が見ているのは毎朝新聞で、社会面です」
「ああ、それなら家も同じです。ちょっと待っていてください。新聞を持ってきますから」
 二、三分の間待たせて、市川は社会面を広げながら受話器を耳にあてた。
「お待たせしました。ええっと、どの記事かな」
「左下の方に、『榛名湖で一酸化炭素中毒死』という見出しがあると思いますが」
「ああ、わかりました。ちょっと、目を通しますので」
 その記事は、群馬県の榛名湖でワカサギ釣りをしていた男が、氷の上に張ったテントの中で死亡しているのが見つかったというものである。亡くなったのは、横浜市戸塚区に住む会社員、池上秀男(55才)で、前夜から伊香保温泉に宿泊し、早朝から一人榛名湖に来て、テント、火鉢、ドリルなどワカサギ釣り用具一式を借り、密閉されたテントの中で釣りをしていて、炭火の不完全燃焼による一酸化炭素中毒により死亡したものと思われるという短い記事であった。
「で、この事件が何か」
「そこに出ている池上秀男さんという方は、前に少しお話しましたが、父が亡くなった後、いろいろと面倒を見ていただいた、会社の部長さんです」
「ああ、そうですね。思い出しました」
「それはそれだけなのですが、父の死因と同じ一酸化炭素中毒ということが気になりました。そして、話が前後しますが」
「いえ、かまいません」
「今日、池上さんから私宛に手紙が届きました」
「どんなことが」
「はい、短いものですので、今、読んでみます。

根本絵美様
皆様、寒さ厳しき折、お元気でお過ごしですか。お母様の具合はいかがですか。
さて、絵美様におかれましては、お父様の死に疑問を抱かれ、なにか動かれているようですが、お父様の霊が静かに天国に昇られる様、静かに見守られるのがご家族の幸せになるのではと思います。
 皆様には受け入れがたいことかも知れませんが、お父様は自殺されました。
 ○月○日 池上秀男

 以上です」
 市川は、絵美が手紙を読み終えると、市川が言った。
「なんとなく、脅迫している様にもとれますね。絵美さんが私に相談されていることなど知っているようだ」
「ええ、それにこの手紙は父は自殺ではないということを敢えて言っているように思えてなりません」
「そうですね。手紙を貸してもらえますか」
「分かりました」
「後、お父さんの遺品の中に、日記とか手帳があったら、それもいっしょに。明日、知合いの警察の人間に話しをしてみます。絵美さんは、いつも通りにしていて下さい」
「わかりました。よろしくお願いします」
「では、夕方会社の方へ、手紙を受け取りに寄ることにします」
 市川は電話を一旦切ると、直ぐに十返舎に電話を入れ事情を話した。

         六

 関内の天麩羅屋の個室に、十返舎と市川は肩を並べて座った。今の季節、天麩羅の素材は意外と少ない。それでも、宍道湖で水揚げされた白魚をかき揚にしたもの、榛名湖のワカサギ、季節には少し早い蕗の薹などが出された。
 市川は、事の成り行きを掻い摘んで説明した。
 同時多発集団自殺で知合いの根本正という男が自殺、長女の根本絵美から父親は自殺したとは思えないと相談を受けた。理由は父親が自殺するような性格の人間ではないということの他に、三浦半島で死んだ四人の内、一人だけが睡眠薬を飲んでいたこと、自殺サイトに振り込んだ20万円の出どころが分からないこと、葬儀など父親の死が極端に秘密裏にされ、家族が今でも誰かに監視されているような気がすることなどである。
 市川は、新聞記事の切り抜き、一通の手紙のコピーそして一冊の手帳を十返舎の前に置いた。
 じっと聞いていた十返舎が口を開いた。
「あの事件については、直接の担当ではなかったが、捜査一課で検死を行い自殺として処理した。自殺幇助容疑の自殺サイト関係者は、警視庁が扱っている」
「それで、次にこの新聞記事なんだが」
「これは、ワカサギ釣りのテントの中で一酸化炭素中毒で死亡したという昨日の記事かな」
「そうだ。問題は死んだ池上秀男というのは、絵美さんのお父さん根本正の会社の上司だ。父親が死んだ後、親身になって世話をしてくれたと言っていた」
「この事故とどんな関係が」
 十返舎の問いに、市川は手紙を渡した。
「これは池上から根本絵美さん宛に昨日届いた。ちょっと読んでくれ」
 十返舎は手紙を読み終えるとちょっと考えた上呟いた。
「んー、何ともいえないが脅迫状のようにも受取れるな」
「それで、十返舎に相談したんだ」
「それで、この手帳は」
「絵美さんから借りてきた根本正の昨年の手帳だ。まだ中は見ていない。日記みたいなものは付けていなかったと言っていた」
「随分と用意がいいな。これでは、根本正の死について再捜査しないわけにはいかないな」
 十返舎は、市川の顔を見ながら、半分呆れ顔で言った。
「いや、すまん」
「これは中を見てもかまわないか」
「もちろん」
「生前は随分と忙しかったようだな。会議とか、訪問で予定がびっしりだ」
「近所に住んでいたときも、温厚で真面目な人だった。絵美さんは家の次男と同級生だ。絵美さんや入院してしまった奥さんの気持ちを晴らしてあげたい」
 市川の頼みに、十返舎は応えた。
「わかってるよ」
 十返舎は市川の頼みがなくても、根元正の死の真実を明らかにしなければならないと、とっくに胸の内で決めていた。
 捜査一課長に了解を貰うと、他の事案を抱えながらであるが、昨年の春に鎌倉署から転勤となり、十返舎の元で動いている滝沢刑事と二人で捜査を開始した。

         七

 その日の午後七時から横浜市戸塚区の斎場で、池上秀男の通夜が営まれた。十返舎と滝沢は黒のネクタイを島牧巡査に出してもらうと、地下鉄の関内から戸塚に向った。
「池上の事故死は、根本の自殺と何かつながりがあるのですかね」
 滝沢の問いに、十返舎が応えた。
「まだ、これからだ」
「ええ、自分が一つ気になっていることがあるんですが」
「どんなことですか」
「二人の死因です。自殺と事故死ですが二人共一酸化炭素中毒、しかも二人が勤務していたのはガス器具のメーカです」
「確かに滝沢さんに言われてみればそうです」
「それに、タニイ工業とガス器具のシェアを争っているP工業では、ガス湯沸器の不完全燃焼による一酸化炭素中毒が社会問題となっています」
「そうですね」
 会話はここまで、地下鉄が戸塚駅に着くと、二人は歩いて斎場に向った。
 斎場入り口から、タニイ工業代表取締役社長、役員一同、サービスセンタ一同、取引先と思われる会社名などの多数の花輪が、受付まで並んでいる。会社が取り仕切っている葬儀の様で、礼服に身を包んだ社員が要所に配置され弔問客を慇懃に案内している。十返舎はその中の一人に声をかけ警察手帳を見せて、受付に根本という人が来たら声をかけるように頼んだ。
 受付係りの合図を受け、女が焼香を済ませ、お清め所に寄って戻って来るのを待って、声をかけた。
「あの、根本絵美さんですか」
「いえ」
 女は曖昧な返事をした。十返舎は、この時女の顔に走った動揺を見逃さなかった。
「神奈川県警の十返舎といいますが」
「人違いです」
「それは失礼しました。済みませんでした」
「いえ、それでは」
 と言うと、女は出口に向って歩き始めた。
「滝沢さん」
「わかりました」
 滝沢はその女の後を追った。
 十返舎は、二、三人後を歩いてくる女に同じように声をかけた。
「あの、根本絵美さんですか」
「はい、根本ですが」
「神奈川県警の十返舎といいます」
「お名前は市川さんから聞いております。この度は無理なお話をしまして申し訳ありません」
「いえ、だいたいの話は市川から聞いているのですが、少しお話を聞かせてもらえますか」 
 十返舎はしばらく待つように頼むと、お焼香の列に並んだ。祭壇には、花輪と同じ様に社長、役員をはじめ取引先会社の名札がついた生花が溢れていた。遺族席には、五十前後の奥さんと思われる女性、二十才位の礼服の男性、高校の制服を着た男性等家族の他に、親族、会社の幹部と思われる人達が並んで座っていた。お焼香を済ませ待ってもらっていた根元絵美と歩きながら話はじめた時、携帯電話の呼び出し音が鳴った。滝沢からで、女は地下鉄の関内駅で降りると、常磐町にあるマンションに入ったという。郵便受けから部屋番号と佐橋という苗字が確認できたとの報告で、本部に戻るというものであった。
 改めて絵美から聞いた話は市川からの情報と違いはなかったが、証拠はないものの、父親は自殺ではないと強く思っていることがよくわかった。十返舎と別れる時に絵美はこんなことを言った。
「葬儀は大きければ良いというものではありませんが、多くの人に見送られる方が」
 十返舎は言葉に詰まったが、
「人数ではなくて、見送る人の心だと思います。今夜の葬儀の参列者は、ほとんどが取引先ですから」
 と訳のわからないことを言って絵美と別れ、滝沢が待つ県警本部に向った。

         八

 県警本部に戻った十返舎は滝沢刑事と夜遅くまで、同時多発集団自殺事件、特に根本正に関する捜査記録を入念に検討した。
 先ず、自殺の動機について、遺書めいたものは何も出てきておらず、根本正の家族は仕事のことで悩んでいたようだと言っているが、会社の上司である池上秀男や同僚は仕事は順調でトラブルは何もないと答えている。家族と会社で話に食い違いがあるものの明解な自殺の動機は不明のままとなっている。県警では、死亡の状況から自殺と断定したと記されていた。
「滝沢さん、この動機の点についてどう思いますか」
 十返舎は、立場上は部下でも、たたき上げの年上の滝沢刑事を先輩として接している。滝沢にとっては、数々の難事件を解決してきている十返舎警部は憧れの的で、今はいっしょに仕事を出来ることを誇りに思っている。
「警部、県警の判断は妥当だと思いますが」
「自分もそう思います。ただ」
「ただ、会社が根本正の死をひた隠しにしたりしたことを考え合わすと、池上も同僚も口裏を合わせているようにも思えます」
「滝沢さんもそう思いますか。別の角度から、動機の点を調べてみましょう」
 次は、自殺サイト『天国への道』との関係である。根本正の自宅にあるパソコンおよび会社で使用しているパソコンからは、自殺サイトへのアクセス記録は見つかっていないが、メールサービスを提供するプロバイダのログには、根本正のメールアドレスとサイト運営者が用意したメールアドレスとの間の送受信記録が残っており、自殺さサイトからの20万円の振込み指示、根本正からの振込み完了の連絡、サイトからの決行日の連絡や待ち合わせ場所の連絡の記録が残っていた。
「滝沢さん、このあたりは自分は苦手なんですが」
 という十返舎に対して、滝沢は申し訳ない顔をして、
「すみません。私も全く」
「そうですね。島牧巡査はまだ残っているかな」
 滝沢はあたりを見回して、帰り支度をしている島牧巡査を見つけると、
「島牧くん、ちょっと」
 と声をかけると、島牧巡査が二人のところへ来ると、
「はーい、何か。寒いのでおでんにでも誘って頂けるのですか」
「うん、分かった。おじさん二人と一緒でもよければ付き合うよ」
「まあ。うれしい」
 と笑顔で答えると、直ぐに真顔になった。
「ここのメールのやり取りのところなんだが」
 と十返舎は資料を示した。
「根本正が自殺とされた理由の一つが、ここにあるメールのやり取りなんだが」
「そうですね。根本正のメールアドレスと自殺サイトが用意したアドレスの間のメールのやり取りですね」
「何かおかしいところはありますか」
 十返舎の問いに、島牧巡査はちょっと考えた上で答えた。
「根本正に代わって、別の人が根本正のメールアドレスを使ってやり取りすることも」
「それは」
「はい、根本正のメールアドレスはメールのやり取りをすれば直ぐにわかります。後はパスワードが分かれば、根本に代わって」
「パスワードというと」
「警部も滝沢さんもメールを使う時にはパスワードを入れますよね」
「いや、そんなことは」
 十返舎の答えに、島牧巡査はちょっと怒った顔をして続けた。
「それは、最初にメールを使った時にパスワードを記憶させて置いたから、二度目から入れる必要がなくなっているんです」
「そうですか」
「ただ、他人が警部や滝沢刑事のパソコンを勝手に使って、メールのやり取りをすると、あたかも警部や滝沢さんがメールをやり取りしたと見えます」
「ということは、根本正のパソコンを誰かが勝手に使った」
「そういうこともありますし、以前はパスワードの扱いがルーズでした」
「例えば」
「そうですね。パスワードを生年月日にしていたり、パソコンの画面にパスワードを書いた紙を張っていたり、皆で同じパスワードを使ったり、それに何年も同じパスワードを使ったりしていて、何のためのパスワードか分からないことがありました」
「そう言われると頭が痛い」
「しかし、今は違います。パスワードの文字数を8文字以上と決めたり、3ヶ月に一度は変更しないといけないようにしたり、いろいろと対策がとられています」
「というと、誰かが根本に代わってメールをやりとりすることは不可能に」
「いえ、そんなことはありません。いたちごっこの様なことになりますが、いろいろとパスワードを盗み出す手はあります」
「そうですか。これ以上は頭がこんがらかってしまいそうです」
「はい、私もこれ以上のことは」
 十返舎は話をここまでにして、明日、警察庁IT犯罪対策室への同行を島牧巡査に依頼した。
「滝沢さん、今夜はこれ位にして、おでんに行きましょう。島牧さん」
 三人は、ライトアップされた三塔、キング、クイーン、ジャックを背に、コートの衿を立てて、野毛の入り口にあるおでん屋に向った。
 その店は、先代が戦後の闇市から屋台でおでん屋を創め、今では数階建てのビルにお店を構える横浜の隠れた名店である。一週間以上煮込んだと思われる汁の滲みこんだ大根は絶品である(作者注:ちょっと高い、おでんと焼酎は安くなければ)。

         九

 翌日十返舎と滝沢の二人は、早朝から事件の日の根本正の足取りについて捜査記録の読み直しを行った。
 その日の朝、根本正は普段と変った様子はなく、奥さんに見送られて出社している。仕事場の何人かの同僚の話しでは、会社ではいつもと同じ様に変った様子もなく仕事をしていたという。そして、退社時刻になって、同僚の一人と千葉駅に向かい、そこで別れたという。この時も特に変った様子はなかったという。
 そして、その後の行動は、自殺サイト『天国への道』の運営者で、自殺幇助教唆と自殺幇助の容疑で逮捕、起訴されている大学の助手をしていた男、角井康男(37才)の供述によるものである。この角井という男は三浦半島の集団自殺では、サポータの役割も果たしている。
 角井は、集団自殺した25才の男から事前に手に入れた免許証を使って、午後2時頃、横浜市内のレンタカー営業所で白いワンボックスカーを借りている。これは裏づけがとれていて、店員は提示された免許証を確認したが別人のものであるとは気付かなかったという。その後、保土ヶ谷にあるホームセンターで、携帯ガスコンロ、ガスボンベ、練炭火鉢、練炭を購入し、車に積み込んで約束の時刻になるのを待ったという。
 先ず、夜9時、品川駅で約束した根本正をピックアップし、横浜駅に向かった。二列目の座席を後ろ向きにして向かい合わせにしておいた三列目の座席に座った根本は、しばらくすると車を運転する角井に、睡眠薬を飲んでもいいかと聞くので、「お好きな様に」と答えたという。どの位の量を飲んだかは不明であるが、後の三人をまとめてピックアップする横浜駅東口に着いた時はウトウトとして、三人を紹介している時も寝ているようであったという。
 角井は、集団自殺志願者の4人を乗せたワンボックスカーを京浜急行の三浦海岸駅まで運転すると、キーを25才の男に渡し、自らは京浜急行で横浜駅へ行き、横浜線で八王子に戻ったという。取調べ段階では、練炭の火の起こし方とワンボックスカーを停める場所をカーナビにセットしたと供述していたが、裁判では、それを否定しているという。自殺幇助教唆の罪は明らかであるが、ただ車を運転して、自殺の道具を用意しておいただけで、自殺幇助の罪にあたるかどうか裁判所の判断が待たれているところである。
 一通り捜査記録を読み終わると、十返舎が口を開いた。
「滝沢さん、どこか引っかかるところはありますか」
「そうですね、自殺幇助の罪になるかどうかは興味がありますが」
「根本が千葉駅で同僚と別れたのが、確か」
「午後6時頃です」
「角井が根本を品川駅でピックアップしたのは午後9時ですね。千葉駅から品川駅まで、いろいろなルートがありますが、どんなにかかっても1時間です」
「すると残りの2時間、根本は何をしていたのか」
「滝沢さんだったら、死ぬ前に何をします」
「まだ、死のうと思ったことはないので。私だったら、死のうかどうか迷って、山手線を回っているかも知れません」
「この空白の2時間を調べる必要がありそうですね」
 十返舎の論理的な思考に感心して、滝沢は頷いた。
「分かりました。警部は、根本の手帳を借りてこられていると思いますが」
「これですが、その日の予定は、午前中は課会、午後は1時から4時まで、品質対策会議となっています。夜の欄には、KYと書いてあるだけですね」
「KYって何のことでしょうか」
 十返舎は、少し考えて言った。
「去年の流行語になったKYで空気を読めないということではないだろうし,それとも角井のK、康男のYでKYかな」
「そうかも知れませんね。でも、角井は自殺志願者に対して本名を明らかにしていたのでしょうか」
 時計を見ると、島牧巡査と約束していた時刻になっていた。三人は警察庁IT犯罪対策室に出向き、パスワードを盗んで他人になりすます方法について尋ねた。
 銀行のATMにカメラを取り付けて盗み見する方法は、よく知られている。パソコンを操作している人の肩越しから盗み見する方法、システム管理者に本人を装って電話をかけ「パスワード忘れちゃったので教えて」と言って聞き出すこと、それに一番厄介なのは、システムの開発する人や保守、管理する人は、その気になれば簡単に他人のパスワードを知ることが出来ることなどを教えてくれた。パスワードによるセキュリティの限界を克服するため、ここ数年の間に、指紋認証、静脈認証、虹彩認証など人間固有の特徴を利用した認証方法が普及してきているとの話であった。根本正の件についても、他人が根本のメールIDとパスワードを使って根本になりすまし、メールをやり取りした可能性は十分にありうるという話であった。

         十

 榛名湖での池上秀男が変死した事件について、渋川署は一酸化炭素中毒による事故死と断定、現在、最終的な捜査記録のまとめ中で、十返舎は、出来次第写しの送付を依頼した。また、根本絵美から預かった根本正の手帳からも、事件当日の夜の欄に記されたKYというアルファベットの他は、何も浮かんでこなかった。
 十返舎と滝沢は、根本正の自殺の動機、事故死または他殺の可能性、事件当日の空白の2時間、そしてKYが意味することの解明に取り掛かった。
 根本正の自宅のある千葉市郊外の住宅街は、ここ十数年の間に開発が進んだ東京のベットタウンである。ご近所の話では、根本正はご近所付き合いもよく、町内会の行事などにも進んで参加する明るい家庭であった。従って、ご近所とのトラブルは一切聞いたことがないという評判の一家であったという。
 家族の間に何のトラブルも見受けられない上、根本正の両親や兄弟、また奥さんの両親、兄弟との間にも何のトラブルもなかったようである。
 つぎに根本正が勤めていた会社の上司、同僚への聞き込みでも、人間関係のトラブルや仕事上のトラブルは何もなかったと口を揃えて話した。そんな中で、根本正が死んだ後、昨年の暮れに会社を退職した男から、会社の従業員からの話とは正反対の話が飛び出してきた。男は、相馬一貴(33才)で、千葉駅近くの珈琲店で話を聞くことが出来た。
「お忙しいところ済みません」
 十返舎と滝沢が話しを切り出すと、相馬は皮肉っぽく、口元に笑いを浮かべて言った。
「失業中ですから暇ですよ。何時間でも構いませんよ」
「そうですか。相馬さんは、昨年の暮れにタニイ工業を退職されていますが、どんな理由で」
「一身上の都合っていうやつです。会社の勤労に退職願にそう書くよう言われました」
「書くよう言われたというと」
「いや、一身上の都合というのは、自己都合で退職する場合すべてに当てはまる。会社都合というと、退職金などが自己都合に比べて数倍になりますので、どんなケースでも一身上の理由と書かせるのでしょう」
「今日は相馬さんが退職される前に亡くなった根本正さんについてお伺いしたいのですが」
「ええ、なんでもいいですよ」
「会社の人に聞きましたが、仕事上のトラブルや人間関係のトラブルは何もないと言っていましたが」
「それは。それは会社が緘口令を出して、口裏を合わせているからです」
「と言うと」
 十返舎の問いに、相馬は口をまげ笑いを浮かべて言った。
「実は会社を退職するとき、会社で知りえたことはすべて秘密裏にし、口外しないという誓約書を書かされています。違反したときは退職金を返納することになっています」
「大丈夫です。もちろん秘密にしますので安心して下さい」
「会社よりも十返舎さんを信用します。根本さんは私の上司でした」
「そうですか」
「刑事さんもご存知だと思いますが、昨年来社会問題にもなっているP工業によるガス湯沸かし器の事故です」
 【P工業の事故】
 P工業製のガス湯沸かし器による一酸化炭素中毒で、80年代から21名の人が死亡した。P工業は、82年頃には安全装置部品のハンダが割れる不具合を把握、接触不良を回避するために安全装置の働きを抑制する改造を協力業者に指導した。P工業は当初、改造は協力業者がかってにやったことと責任を回避していたが、昨年になって、ようやく事故を把握していたこと、協力業者の研修会で改造を説明したことを認めた。P工業は200億円を超える事故損失を計上、従業員やパートの解雇、役員の賞与カットなどが続いている。
 【ここまで】
 相馬は続けた。
「ガス湯沸かし器のメーカーはトップシェアを持つP工業、第二位のタニイ工業、他に二、三社あります」
「はい」
「今回のP工業の事故をキッカケに、経済産業省はP工業の指導をした他に、各メーカーに対し、同種事故の調査と報告を求めました」
「新聞で読んだことがあります。確かタニイ工業は一件も同様の事故はないと報告し、タニイ工業製ガス湯沸かし器の安全性をPRして、今年度はシェアトップを目指すとか出ていました」
 十返舎の話に対し、相馬は口をまげ笑いを浮かべた。
「それは真っ赤な嘘です。根本さんと自分達のサービスセンターというところは、お客様がタニイ製品をご使用いただいて、使い方が分からなかったり、故障が起きたり、不具合があったときにご相談いただき、故障不具合であれば修理をする部署です。ですから、P工業のガス湯沸かし器と同じ事故が、件数こそ少ないですが、タニイ工業の製品でも起きていることを一番良く知っています」
「本当ですか」
「ええ、本当です。ただ、違うのは」
「P工業との違いですか」
「タニイ工業では、事故が起きて製品の不具合ではないかとサービスセンターに話が持ち込まれると、多額の解決金を支払って、事故が外部に漏れるのを徹底的に防いできました」
「それでも漏れるのでは」
「いや、被害者は多額の現金を積まれると、100人中100人が会社の誠意を認めて納得します」
「そうですか。誠意がないとよくもめますが、誠意とはお金のことなんですね。ところで、相馬さんは会社を辞められたので、告発してもと思いますが」
「それが人としての正義でしょうが、自己都合で退職したのに、通常以上の退職金をもらっています。会社の誠意を認めたわけです」
「そのことに対し根本さんは」
 十返舎は、根本正の死の要因がそのへんにあると直感した。いっしょに話を聞いて、メモをとっている滝沢も同じであった。相馬はちょっと逡巡した後に口を開いた。
「根本さんも自分も、会社のこのやり方に反対していました。特に、経済産業省から調査、報告を求められた時には、事故を公表したほうが、同種の事故を防ぐ意味からも大切であると主張しました」
「それで」
「上司の池上部長やその上の担当役員の平林専務からは、公表するなという指示がおりてきました」
「そういう経緯がありましたか」
「その一ヶ月位後です。根本さんが亡くなったのは」
「そうですか」
「私は、人の道にも反する会社のやり方に我慢できずに退職しました」
「繰り返しになりますが、それなら内部告発すれば」
 相馬は、情けなさそうな顔になって呟いた。
「私も退職金の割増しに目が眩んでしまいましたので、勘弁して下さい」
「分かりました。良く話しをしてくれました。秘密は守りますから安心していて下さい」
 と十返舎が言うと、相馬は十返舎の顔を覗き込んで言った。
「根本さんは、本当に自殺したんですか」
「それを調べ直しています」
 十返舎と滝沢刑事は、相馬に礼を言って珈琲店を出た。

         十一

 二人は、千葉駅から総武・横須賀線逗子行きの電車に乗ると、車内はガラガラで4人掛けの席に向かいあって座ることができた。
「警部、お疲れ様です」
「いえ、滝沢さんこそお疲れさまです」
 二人はKIOSKで買った350mlの缶ビールのプルトップを空けると、どちらからとなく一寸だけ上にかかげた。
「今日は収穫がありましたね」
 と嬉しそうに言う滝沢に対して、十返舎もビールを一口喉に流し込んで言った。
「そうですね。根本の死について、会社でのトラブルが関係しているのは間違いなさそうです」
「これは、相馬が教えてくれたタニイ工業のガス湯沸かし器の事故のリストになります」
「相馬が覚えている範囲で、この他にも数件あったようですが、だいたいの日時と被害者の名前が分かりますので、これをもとにタニイ工業のガス湯沸かし器事故の調査をすることが出来ます」
「警部、それは分かるんですが、どんな容疑で調べるんですか」
 滝沢は困ったような表情を浮かべて聞いた。
「そうですね。既に事故の被害者に対して解決金が支払われて示談が成立していると考えられますので、難しそうですね」
 十返舎自身もこれをどう扱っていこうか困っていた。しばらくの沈黙の後、十返舎が続けた。
「検察の方と相談してみます。監督官庁である経産省による立ち入り調査という手もあります」
「はい、分かりました」
 横浜駅に着くと二人はそこで別れ、久しぶりに早い時間、といっても7時を回っていたが帰宅することにした。
 翌朝、十返舎が海岸通りの神奈川県警本部に出勤すると、捜査一課長に呼ばれた。
「おはよう」
「おはようございます。何か」
 昨日は早く帰って、ゆっくりと風呂に入り、久しぶりに菜穂子夫人の手料理でくつろいだだけに、気分爽快にいつもより元気の良い声で答えた。
「警部、今日は何かいいことがあったのですか」
「いえ、別に」
「そんなところ何なんだが、相馬一貴が死んだよ」
「ええ、ほんとうですか」
 滝沢刑事も十返舎の声を聞いて、課長席にきた。
「昨夜、9時過ぎに千葉市の自宅近くで乗用車にはねられた。即死で、はねた車は一旦停車したものの直ぐに逃げ去ったという。後続の車の運転手や歩行者ら二、三人の目撃者がいるが、本降りになった雨と暗闇で逃げた車のナンバーは分からず、検問をはって逃げた車を追っているということだ」
「千葉の交通事故が何故」
 十返舎の問いに課長が答えた。
「警部と滝沢刑事の連絡先が書いた紙を持っていたそうだ」
「それで千葉暑は連絡をしてくれたんですね」
「君たちと、そのひき逃げされた相馬という男とは」
「はい、今滝沢さんと二人であたっている同時多発集団自殺で死んだ根本正の件で聞き込みをかけていました。昨日、貴重な情報を聞き出すことが出来たばかりです」
 十返舎は、相馬は誰かに殺されたと思った。滝沢も同じであった。これからの捜査で重要な人物だけにがっかりと肩を落とした。
 地検と経産省に寄って、それから千葉署に行ってきますと言って、二人は飛び出して行った。
 タニイ工業のガス湯沸かし器の事故の調査は、経産省が監督官庁として行政調査を行い、検察はしばらくは調査を見守るということで落ち着いた。
 千葉署の交通課では、まだ逃げた車を特定出来ていなかった。十返舎は、故意に被害者をはねた可能性も考慮に入れての捜査を依頼して、捜査経過を見守ることにした。

         十二

 数日後、十返舎の元に相前後して、千葉署から相馬一貴ひき逃げ事故の犯人逮捕の連絡が、渋川署から池上秀男事故死の捜査記録の写しが、そして経産省からはタニイ工業に対する立ち入り調査の一報が届いた。
 千葉署からの連絡では、千葉市内の自動車修理工場に出されていた乗用車のウインカーランプのガラスが、事故現場から採取したガラス片と一致、車の持ち主を追求したところ事故を認めたので、ひき逃げと業務上過失致死の容疑で元暴力団員の男を逮捕、引き続き事故の裏づけ捜査を行っているというものであった。
 渋川署の資料は、司法解剖の結果、テントや練炭火鉢等を貸出した榛名湖の釣り具屋主人の調書、それに前日宿泊した伊香保温泉旅館の従業員の話で構成されていた。
 池上秀男の死亡原因は一酸化炭素中毒死、死亡推定時刻は午前11時前後である。
 釣り具屋の話では、その日の朝、8時ごろに池上は他の客二人と小屋に入ってきて、一人用のテント、練炭火鉢、ワカサギ釣りの道具一式を半日分借りた。いっしょに入ってきた二人も二人用のテント等を借りて、氷に穴を開けるドリルを持ってポイントまでいっしょに行き、それぞれ好きな場所に穴を開け、テントと練炭火鉢をセットした。換気に十分注意するように念を押して小屋に戻ったという。12時前に二人客が上がってきたので、もう一人はと聞くと、知合いではないので分らないという。12時半過ぎに二人客のテントなどの片付けと、一人客の様子を見に行くと、テントの中で池上が倒れているのを発見し、直ぐに救急と警察に連絡した。
 つり具屋を業務上過失致死で立件するかについては検討中であるという。
 つぎに旅館の女将と仲居の話から、前日に来館したときから、早朝榛名湖に出かけるまでの様子が判明した。前日に池上から二名で二泊の予約があり、池上は夕方の5時頃に、二人連れで車で来て、チェックインしたという。宿泊者カードには、池上秀男他一名、住所は東京都渋谷区○○と書かれていたが、該当する住所はなく、池上秀男という名前だけが正しいことになる。女の名前は分らない。夕食のときに給仕をした仲居によれば、夫婦でないことは明らかで、妙にベタベタとしていたという。翌朝は、早くに榛名湖に釣りに行きたいので朝食を早くとのリクエストがあり、6時半頃に食事をして、7時には二人で出かけたという。もう一泊の予定で荷物は部屋に残されていたが、池上のものだけであった。
 いっしょに泊まった女の身元は分かっていないが、旅館のロビーに設置された防犯カメラに池上と腕を組んでいる女が写っていた。間違いなくいっしょに泊まった女であるという従業員の証言がある。資料には、動画から切り出した斜め前と横顔が写った二枚の写真が添付されていた。
「旅館を出るときは二人で釣りに行くといっていたのが、榛名湖の釣り具屋にきた時は池上一人、女はどうしたんでしょう」
 十返舎は、二枚の写真を取り上げながら滝沢に向って言った。十返舎は滝沢刑事といっしょに仕事をするときはいつも滝沢の意見を先ず聞くようにしている。
「そうですね。寒いので車の中で待っていたのか、あるいは榛名湖に向うときに、JR渋川駅あたりで車から降りて電車で一人帰ったのか」
「いずれにしても気になりますが。この顔何処かで見たことありませんか」
 十返舎はもう一度写真を覗き込んで、滝沢に渡した。
「警部、この女は池上の通夜のときに、根本絵美と間違えて声をかけて女です」
「自分もそう思います。確か」
「通夜の後、関内常磐町のマンションに入っていった、郵便受けから佐橋という苗字ではないかと思われる女です」
 一つの手がかりを得た二人は、続いて経産省の立ち入り調査の資料の検討に入った。
 資料には、タニイ工業がガス湯沸かし器の事故を認め謝罪したこと、7件の事故の報告(発生時期、事故概要、簡単な事故原因、被害者の住所、氏名、示談書等)、詳細な事故報告と対策について1ヶ月以内に再度報告する予定であることが含まれていた。
「警部、明日、常磐町のマンションに行ってみましょう」
「それにタニイ工業ガス湯沸かし器事故の被害者と根本正および池上秀男の間に何かないか調べる必要があります」
「忙しくなりますね」
「それに、ひき逃げ事故の裏についても。課長に応援を頼みますので、滝沢さん、大変ですがよろしくお願いします」
 十返舎は、自殺あるいは事故死と断定、そして交通事故として捜査されている三つの事件、根本正の自殺、池上秀男の事故死、そして相馬一貴のひき逃げ事故死が、一つの螺旋のように繋がっているのではと考え始めていた。

         十三

 十返舎と滝沢は、関内常磐町のマンションを訪ねた。管理員の話では、住んでいたのは佐橋という名前の三十前後の女で、何でも関内の高級クラブのママで、午後になると美容室に出かけ、夕方には粋な着こなしの着物姿で出かけていたという。十返舎が訪問したいと管理員に言うと、一時間ほど前に出かけ、二、三日留守にするので、新聞を片付けておいてと頼まれたという。管理員は行き先は聞いておらず、また高級クラブの名前も知らなかった。十返舎と滝沢は、暗くなるのを待って、佐橋がママをしているという高級クラブを探すことにした。
 タニイ工業ガス湯沸かし器事故の被害者の遺族に会って話しを聞いていた鶴居刑事から、報告が県警本部に戻った十返舎に入った。
 被害者の遺族は、既に示談が成立しいて、今後事件を封印する旨の誓約書を書いていることから、口が固く、事件について話を引き出すことは容易ではなかった。そんな中で、タニイ工業の対応が明らかになってきた。事件が起きたとき、まず、サービスセンターの根本正が対応窓口となり、示談の交渉になると池上秀男が顧問弁護士を伴ってあたり、最終的な決着のときは、専務の平林光行が出てきたという。解決金の決め方は、アタッシュケースに詰め込んだ100万円単位の束を面前に積み上げ、被害者遺族が唖然としている間に、示談書に実印を押させてしまうといったやり方であったという。解決金の金額も相応のもので、後から不満に思うようなことはなく、タニイ工業の誠意が十分に伝わるものであったという。
 鶴居刑事は続けて、
「ちょっと気になることがあるので、うろ覚えなものですみません」
「どんなことですか」
 十返舎は、長い間自分の右腕となって働いている鶴居刑事を信頼している。何か掴んだと直感した。
「解決金の額なんですが。三年前の事故の被害者遺族から見せてもらった示談書には、3,000万円とあるんですが、昨日見せてもらった経産省の資料には、4,000万円となっていたような気がするんで」
「今、資料を出しましたので、被害者の名前を言ってもらえますか」
「はい、細井勇三です」
「経産省の資料には、4,000万円となっています」
「本当ですか。誰かが中抜きした」
「多分、部長の池上秀男か、専務の平林光行」
「他の6件の事故についても、調べましょうか」
「頼む」
 十返舎は鶴居刑事に言うと、鶴居が続けた。
「分りました。それにもう一つ、気になる名前が出て来ました。
「まさか、佐橋という名前では」
 十返舎はかまをかけたつもりで言ったのだが、鶴居が反応した。
「警部、そのまさかです」
「ほんとうですか」
「ええ、二年前の事故です。横浜市神奈川区白楽のアパートに住んでいた大学生の久保田哲、当時21才が、タニイ工業製ガス湯沸かし器によると思われる一酸化炭素中毒で亡くなっています。経産省の資料にも出ていると思いますので」
「ああ、ありました。埼玉県所沢に母親が住んでいて、示談書に判を押しています」
「ええ、それで所沢に行って母親に話しを聞いたところ、久保田哲の上にはお姉さんがいるそうで、哲の大学の学費や生活費は姉が面倒を見ていたそうです。母親が、積まれた現金に目が眩み、池上や平林の言いなりになって示談書に判を押したことに対し、母親は姉から厳しく叱られたそうです」
 鶴居の話のちょっとした途切れに、十返舎は待ちきれないように言った。
「その姉の苗字が佐橋」
「そうです。佐橋洋子といいます。離婚していますが、結婚していたときの姓を使っているそうです」
「ガス湯沸かし器事故の被害者遺族の一人でしたか」
「母親に示談書を見せてもらおうとしましたが、佐橋洋子が昨年の秋頃に来て持っていっているそうです」
「解決金の金額は」
「母親ははっきりしたことは言いませんでした」
「分りました。そうすると解決金の金額というと、後5件になりますか。鶴居さん、お疲れでしょうがよろしくお願いします」
 十返舎と鶴居の長い電話のやり取りはようやく終わった。いっしょに聞いていた滝沢も思いがけない進展に思わず、
「根本正の手帖に書かれたKYは、久保田洋子」
 と言って十返舎の顔を見ると、大きく頷く自信に満ちた目が光っていた。

         十四

 佐橋洋子がママをしている高級クラブは直ぐに見つかった。従業員の話では、暫く旅行に行くからと行く先は言わずに後を頼んでいったという。チーママから聞いた番号に電話したが、電波の届かないところとの機械的なアナウンスで繋がらなかった。
 翌日、県警本部では十返舎と滝沢それに鶴居が集まって、鶴居刑事が持ち帰ったタニイ工業ガス湯沸かし器事故の被害者遺族が受取った解決金の額と経産省から入手したデータを電卓で叩いていた。
「7件の内、遺族が受取った金額がはっきりした6件について、合計で1億3千万円の開きがあります」
 鶴居が電卓を見せて言った。
「根本正は、このからくりを知ってしまった」
 十返舎が呟くように言ったとき、
「警部、根本さんという方からお電話です」
 と島牧巡査の声が聞こえた。
 根本絵美は、同時多発集団自殺という前代未聞の事件で、自殺幇助教唆および自殺幇助の罪で起訴された角井康男の初公判を東京地裁で傍聴した。
「十返舎さんですか」
 絵美の声は上ずっていた。
「十返舎ですが、どうかしましたか」
「いえ、お忙しいところすみません。今、東京地裁に来ています」
「今日は、同時多発集団自殺事件の角井康男の初公判でしたね」
「ええ、それで」
「何かありましたか」
「裁判を傍聴するのは初めてで良く分からないのですが」
「大丈夫です。何でも言って下さい」
 十返舎の言葉に安心した絵美は裁判での出来事を話した。
「まず検事さんが、角井康男が自殺サイトを運営、18人の自殺志願者を募集し、集団自殺を遂行させる手順を同サイトを通じて募集したサポータに教唆、三浦海岸での集団自殺では自らサポータの役割を担ったと、起訴状を読み上げました」
 絵美は、少し間をおいて続けた。
「その後、罪状認否というのですか、裁判官が検察の起訴事実を認めるかどうか、被告の角井康男に聞くと、「一部事実とことなります」と」
「一部と言うと」
 十返舎が話しを促した。
「その後の裁判官の質問に対して、父のことを話し出しました」
「どんなことですか」
「はい、三浦半島の事件では当初5人の自殺志願者がいたそうです。最初に品川駅で父の根本正ともう一人の男をピックアップ、横浜駅へ着くと、その男は「気が変った。これでなかったことにしてくれ」と、200万円の札束の入った封筒を渡したそうです」
 十返舎は絵美の話に聞き入った。
「その時お父さんは」
「途中で睡眠薬を飲んだらしく、ぐっすりと眠り込んでいたという話です」
「それで、法廷は」
「弁護士は角井の話をやめさせようとしていましたが、裁判官が検事と何か話して閉廷を告げました。満員の傍聴席はざわめいていました」
「それは、もし横浜駅で降りたという男が、お父さんに無理やりあるいは騙して睡眠薬を飲ませ、その後に起きる集団自殺の一人として死ぬことを予期していたら、角井康男は自殺幇助の罪だけではなく、嘱託殺人の罪に問われることになるかも知れません」
「それで傍聴席がざわめいていたのですね」
「お父さんは自殺ではないという絵美さんの言うことが証明されるかもわかりません」
「そうですか。よろしくお願いします」
 絵美の言葉に答えようとしていた十返舎に島牧巡査が「課長が呼んでいます。地検から連絡」と書いたメモ帳を見せた。
「失礼しました。角井について調べ直すことになりそうです」
「ありがとうございます」
「まだ悪い奴は捕まっていません。ご家族を含め周囲には十分注意して下さい」
 十返舎は電話を切ると、いっしょに聞いていた滝沢、鶴居と課長席に急いだ。

         十五

 宮崎のフェニックスカントリークラブ・ハイビスカスコースのアウト1番ホールのティグランドには、タニイ工業の平林専務、宮崎支店の支店長に女性二人のパーティがスタート順を決めるくじ引きをしていた。平林は、前日開催されたタニイ工業九州支社の販売会議に出席した後、宮崎支店がセットしたゴルフコンペに参加した。女の内一人は、会議の後、平林に合流した佐橋洋子、もう一人は、西橘通りにあるクラブのママである。
「支店長、混合ダブルスといことで一つ握りましょうか」
「はい、組合せは」
「僕とママのペア対、支店長に、えー、ニシタチのママだ」
「ママが二人ですね。そうだ、専務。どちらかが「ママ」と一回言ったら、一ペナというのはどうですか」
「賛成だ。それでいい、ママ」
「専務、一ペナです」
「もう始まっているのか」
 くじ引きでオナーになった支店長がティグランドに上がり、洋子が平林と二人になった時、
「専務、ダブルスとは別に私たちで握りません」
 と誘った。
「今度は何が欲しいんだ」
「私が勝ったら、そうね、横浜の港の見えるマンション」
「俺が勝ったら」
「何が欲しい。私の肉一ポンドでどう」
「何かブェニスの商人みたいだな」
 洋子が手を差し出して握手、ティショット三番目の平林がティグランドに上がっていった。続いて、洋子がティショットを打ち終わると、4人は南国の春の太陽が降り注ぐフェアウェイを第二打地点に向った。
 勝負の結果は、ダブルスは支店長ニシタチ組の勝ち、平林と洋子の戦いは平林の勝ちとなった。コンペのパーティが終わると、洋子はゴルフ場に乗ってきたレンタカーで、少しお酒の入った平林をドライブに誘った。サボテン公園の近くを少し山の方へ入った高台の原っぱに夕日を背に車を停めた。遠く日向灘を望む南の海はキラキラと輝いていた。
 洋子は助手席の平林にしなだれかかるようにして、甘い声を出した。
「負けちゃった。私のどこの肉が欲しい」
「何処って。全部」
「約束は一ポンドよ。全部だと、100ポンド以上になっちゃうけど」
「お釣りはマンションで払うよ」
「ほんと。うれしい。昨日の夜、やっと二人になれたので、マンションのお礼を先払いしておこうと思っていたのに、直ぐに寝てしまって。寂しかったわ」
「すまない、すまない。例の事故の件でいろいろと忙しくて」
 洋子は、脇のバッグから魔法瓶を出すと、
「クラブハウスでコーヒーを入れてもらったの。飲む」
「うん、もらおうか」
 平林は、洋子から手渡された魔法瓶の中ふたに入った熱いコーヒーを啜った。
「事故って、もともとはP工業の製品のガス湯沸し器でのことですか」
「もうばれちゃったけど、うちの製品でも事故が起きていたんだ。だけど隠してきた」
「平林さんも関係していたの」
「まあ、でもどうしてそんな事を聞くの」
 平林は生あくびを始めた。
「解決金は全部でいくら掠め取ったの」
「どうしてそんなことを」
 洋子には、平林の目がトロンとしてきた様に見えた。
「一酸化炭素中毒で死ぬのって苦しいの」
「………」
 平林は頭をうなだれ、かすかに寝息をたて始めていた。
 洋子は車から降りると、トランクに隠しておいたジャバラのホース取出し、マフラーに繋いでガムテープで固定した。ホースの一方の端を後部座席の窓ガラスに挟み込んだ。そして窓ガラスの隙間をガムテープでしっかりと目張りをし、後部ドアをロックした。前に回り、運転席のドアを開けて、キーに手をかけた時であった。平林の右腕が洋子の首に巻きついてきた。
「お前にやられるような男じゃない」
 と言った声を遠くに聞いた様な気がした。
 どの位の時間が経過したか。何十年もたっているようで、数分しかたっていないようでもあった。
「佐橋さん、洋子さん」
 十返舎の呼びかける声に洋子が目を開くと、夕日の最後の光が大海原に輝いた後、海は漆黒の闇となった。
 平林専務の行く先を会社から聞き出した十返舎は、滝沢と共に宮崎に飛んだ。ゴルフの後ドライブに出かけたという二人の乗るレンタカーを宮崎県警の協力で見つけだすことが出来、殺人を未遂で済ますことが出来た。

         十六

 逮捕、起訴された平林光行と佐橋洋子の供述と裏付け捜査の結果、事件の全貌が明らかになった。
 二年前、横浜市神奈川区白楽のアパートに住んでいた大学生の久保田哲が、タニイ工業製ガス湯沸かし器による一酸化炭素中毒で亡くなったことから始まっていた。タニイ工業では、当初サービスセンターの根本正が対応、示談交渉は部長の池上秀男と最終的には専務の平林光行があたり、埼玉県所沢に住む母親に示談書に判を押させた。それを後から知った久保田哲の姉の佐橋洋子は、形振り構わず金で解決しようとしたタニイ工業に激怒したが後の祭りであった。
 昨年の夏、P工業製のガス湯沸かし器による一酸化炭素中毒事故が社会問題となったとき、経産省からの同種事故の調査に対して、タニイ工業は一件も同様の事故はないと報告し、タニイ工業製ガス湯沸かし器の安全性をPRして、今年度はシェアトップを目指すというニュースが流れた。
 これを知った佐橋洋子は、タニイ工業の窓口となった根本正に会って、何故事故を公表しないのかと迫った。根本正は部長や専務に事故の公表を具申しているが却下されていること、被害者遺族に支払われた解決金と社内決済の額に差があることを調べているので少し時間が欲しいと話をした。
 集団自殺のあった日の七時頃に、佐橋洋子が根本正に会うと、根本は、平林と池上による解決金の横領は間違いないという証拠を掴んだといい、これから平林と池上に会うということであった。
 平林と池上は共謀して、ガス湯沸かし器事故の被害者遺族への解決金を横領することを計画、稟議書へ添付する示談書を改ざんし、7件で計1億5千万円を着服した。昨年の秋このことを部下の根本正に知られると、根元正を自殺に見せかけて殺すことを計画した。IT戦略本部の本部長を兼務していた平林は情報システム管理者から、根本正のIDとパスワードを聞き出すと池上に伝え、池上は自殺サイト「天国への道」へアクセス、自分のIDと根本正のIDで自殺志願し、別々に20万円づつの参加費用を振り込んだ。
 根本は、佐橋と別れた後に品川駅で池上と会い、二人は迎えに来た自殺サイト「天国への道」の運営者である角井康男の運転するワンボックスカーに乗り込んだと思われる。横浜駅に着いた時、根本が眠っていて、もう一人の男、池上が200万円の札束の入った封筒を渡して降りたというのは角井の供述である。角井康男は、嘱託殺人の罪で再逮捕、起訴された。
 佐橋洋子は、根本正が殺されたと直感し、弟の死を無駄にするどころか食い物にして私腹を肥やしている平林と池上を許すことが出来なかった。洋子は関内の高級クラブでママをしていたが、タニイ工業が接待に使う銀座のクラブにホステスとして勤め、平林と池上が洋子に興味を示すと二人を自分のクラブの客として迎えた。
 池上が洋子を温泉旅行に誘ってきた。伊香保温泉の夜は飲みすぎて気分が悪いと池上から逃れた。最初から池上に抱かれるつもりはなかった。つぎの朝早く、ワカサギの穴釣りに二人で出かけたが、まだ気分が悪いと車の中で待った。テントの設営が終わり釣りを始めた頃、コーヒーを入れた魔法瓶を持って池上のところ行き、狭いテントに入ってコーヒーを池上に飲ませた。池上がうとうとし始めた時、テントの換気口となっている布製の蓋を閉め、車から自分のバッグを取り出し路線バスで渋川駅に行った。一酸化炭素中毒で池上が死ぬかどうかは半分賭けであったが、運よく目的を達することが出来た。
 平林光行は、根本の部下で会社を辞めた相馬一貴に警察が接触しているのを知ると、知り合いの暴力団組員に相馬を脅す様に頼んだ。組員から頼まれた元暴力団員は、車で相馬を追いかけ、すんでのところで急ブレーキを踏んで脅しをかけるつもりで、殺す気はなかったということであるが、折から振り出した雨に急ブレーキで車がスリップ、撥ねて死亡させてしまった。元暴力団は、殺人の罪で逮捕、起訴された。
 今度は平林が洋子を宮崎のゴルフへ誘ってきた。洋子はレンタカーを借り、ジャバラのホースにガムテープをトランクに隠して殺害の機会を待った。平林に睡眠薬を飲ませ、排気ガスを車内に引き込む準備をしてキーに手をかけた時、平林の腕が洋子の首を絞めた。平林は、佐橋洋子がガス湯沸かし器事故で死んだ久保田哲の姉であることを知っていて、洋子が池上秀男を殺したのではと疑っていた。今度は、自分の番ではと用心、洋子の動き次第で逆に殺してしまおうと考えていたという。
 平林光行に対し無期懲役の判決が、佐橋洋子に懲役3年執行猶予付きの判決が出たのは、木枯らしが吹き始めたその年の初冬であった。

         十七

 関内の天麩羅屋の個室には、市川章造と根本絵美、それに十返舎と滝沢の姿があった。お花見の季節も近くなると、天麩羅の材料も賑やかになる。海のものでは、キス、穴子にギンポウが、山のものでは蕗の薹、新筍にタラの芽がてんぷら鍋で踊るようになる。
「警部、ひとつ分らないことが」
「なんだ、かんだ、一つ先は御茶ノ水」
 警部は、旧友と若い女性といっしょで、一杯のジョッキでごきげんであった。
「今度の事件では他人がかってにIDを使っていますが、直ぐに分ってしまうのではと思うのですが」
 滝沢が聞くと、十返舎が答えた。
「それは。署に帰って島牧君に聞いてくれるか」
 滝沢も少し酔いが回ってしつこくなっていた。
「警部は分らないのですか」
 と言った時、
「あっ、いいですか」
 と絵美が助け舟を出してくれた。
「本人が朝と夕の二度位しかメールを使用しないのであれば、その間にメールを受信し、受信したメールを削除、また送信したメールはその都度削除すれば、本人が気付くことはほとんどないのではと思います」
 絵美の明快な説明に頷きながら、市川が口を挟んだ。
「絵美さんは、IT企業でお客様の研修教育を担当しておられる。十返舎、いつまでもIT音痴と言っていないで、絵美さんのところで勉強したら」
 十返舎は、
「このタラの芽、ホクホクしていて、美味い」
 と市川の言うことに聞こえないふりをした。

                   おわり

四百字詰原稿用紙換算・111枚

 

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射干・本文

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射干

 横須賀線の側道から化粧坂への道を少し入ったところに「しゃがの家」はあった。

 化粧坂という名の由来にはいくつかの説がある。戦で討ち取った敵方の武将の首をせんだんの枝にさし、ここで化粧をして首実検をしたという説、付近に娼家があって女たちが化粧をしていたからという説、それに、そのあたりに生茂る樹木の様子を「木生え」、「気勢」といったのが訛ったという説などである。

 「暫くの間お休みいたします。店主」と書かれた半紙を見て引き返そうとした時、野田敬は脇の塀から出てきた二人連れの男たちに声をかけられた。

「ちょっとすみません」

 時計は七時を回ったばかりとはいえ、八月も終わりに近づくと辺りは暗闇に包まれ顔は良く見えなかった。

「なにか」

「鎌倉署捜査課の滝沢といいます。こちらは、川井です」

「警察の方が何か」

 野田が無愛想に言うと、

「お時間はとらせませんから。実は今朝方こちらの店のご主人が事件で重体となっています」

「えっ、ほんとうですか」

「ええ、それでちょっとお話をうかがいたくて。暗い中での立話もなんなんで、駅の方へちょっと行ったところに喫茶店がありますので」

 鎌倉駅近くの珈琲店のテーブルに座ると、滝沢は野田の顔を覗き込んで、

「写真家の野田先生ですよね」

「そうですが」

「暗かったので大変失礼しました。先生の写真はいろんなところで見ますし、いろんな行事で先生のお顔もよく見ます」

「それはどうも。写真に興味はありますか」

「ええ、確か先生は写真教室も主宰されているとか。今は無理ですが定年退職したら是非教室に入りたいと思っていました」

「是非どうぞ」

「写真のことをもっと伺いたいのですが。事件に関連して少しお話を」

 滝沢刑事は、事件について次の様に話した。

 今朝早く、犬と散歩をしていた近くに住む男性が、小動岬の神社脇の小道から、フラフラと倒れそうに歩いて来るずぶぬれの中年の男を見つけた。男は倒れこむと、「女がいる。助けてくれ」とやっとの息で言うと、ぐったりとなった。男性は119番通報し、倒れた男は市内の病院に搬送され、警察と消防は直ちに岬の神社周辺と岩場の捜索を行った。

 病院に運ばれた男は、大量の睡眠薬を飲んでいて昏睡状態が続いている。身元は確認中であるが、所持品から扇ガ谷に「しゃがの家」という料理店を開いている奥津一寿と判明した。家族、親類に連絡をとるべく、所持品やお店に付随している住居内を調べているが、まだ手がかりが得られていない。それで、奥津一寿のことを知っている人が来ないかと店の脇で張っていたという。

 また、神社と岩場の捜索では何も発見出来ず、小動岬の防波堤内と腰越漁港の防波堤内にダイバーを使って潜水捜査を行っているが何も見つかっていない。また、七里ガ浜は離岸流が大きいことから沖へ流されたことも考えられたため、県警にヘリコプターを要請し空からの捜索も行っている。

 滝沢刑事の話が一段落すると、野田が言った。

「小動岬ですか」

「ええ、小動岬の神社脇で奥津一寿は倒れ込み、「女がいる。助けてくれ」と言ったそうです」

 滝沢が真面目に答えると、野田はちょっと笑って、

「滝沢さんは、太宰治を読んだことがありますか」

「いえ、名前は聞いたことはありますが、はずかしいことに本を読むまでは」

「そうですか。実は私もああいう難しい本は苦手で。実は、小動岬は太宰治が心中を図った場所の一つです」

「そうなんですか」

「ええ、昭和初め頃ですが、三日前に知り合ったカフェの女給と小動岬で睡眠薬の一種のカルチモンという薬物で心中を図りましたが、女給だけが死に本人は助かっています。太宰治は自殺幇助の容疑で調べられていますが、取調べにあたった検事が遠い親戚ということで起訴されずに済んでいます」

「先生は鎌倉のことは何でも知っているのですね。勉強になります。それで、本題の奥津一寿あるいは「しゃがの家」のことで知っていることがありましたら教えていただきたいのですが」

 滝沢はやっと本題にはいることができた。

「ああ、そうですね。順番はバラバラになると思いますが。「しゃがの家」がオープンしたのは、今年の一月中旬だと思います。開店して間もなく、仕事の仲間数人で入ったのですが、北海道直送という魚介類に、鎌倉野菜を使った料理は絶品でした。料理の腕も超一流と見ました。どこで料理の勉強をしたのかと聞いてみましたが」

「がと言いますと」

 滝沢が熱心に聞いている。

「ええ、あまり言いたくないようでした。以前は東京にある有名ホテルの料理長をしていたようです」

「扇ガ谷でお店を開く前は」

「それも、余り言いたくないようでしたが、魚介類を北海道の以前の知り合いから直送してもらっていると言っていましたので、もしかしたら北海道の何処かで、このようなお店をやっていたのかも知れません」

「お店は一人でやっていたのですか」

 滝沢が質問した。

「いえ、もう一人、三十歳前後の綺麗な女性が接客をしていました」

「奥さんですか」

「一度酔った時に聞いて見たのですが、二人とも笑っていました。いわくありげでしたが、それ以上詮索するのは野暮ですから」

「そうですね。その女性のことを何て呼んでいましたか」

「ええーと、確か「じゅんこさん」と呼んでいたような気がします」

「今日行方不明になっているのは、じゅんこと呼ばれていた女ですかね。断定は出来ませんが」

 滝沢は更に質問を続けた。

「お店には普通のお客さんの他に、変わった人が来ていた様なことはありませんでしたか」

「ええ、特には思い出せません」

「そうですか。他に何か気になるようなことはありましたか」

「いえ別に」

「そうですか。何か思い出したら連絡して下さい。長い時間を取らせてすみませんでした」

「いや、大丈夫ですよ」
珈琲店を出た所で野田は滝沢達と別れた。

 「しゃがの家」の主人は意識が戻らないまま翌日の早朝に死亡した。身元は北海道苫小牧の取引先の水産会社に問い合わせた結果、住所が苫小牧市の奥津一寿、四十七歳と判明した。数年前に離婚し、男の子が一人いるが、現在は奥津一寿の実家で育てられているという。奥津一寿の兄という奥津貞男が遺体を引取って行った。警察は、奥津一寿は睡眠薬を大量に飲んで入水、岩場に打ち上げられて一時的に意識を回復し助けを求めたものの搬送先の病院で死亡、自殺として処理された。無理心中と推測されたが、名前を「じゅんこ」という「しゃがの家」で働いていた女の行方は不明のままで、それ以上のことは分からず時間が経過、年が変わった。
         ・

「先生、これは」

 大きな声を出したのは、写真家の野田敬の助手をしている木下弘美である。

「おい、二日酔いで頭がガンガンするんだ。大きな声をだすなよ」

 と野田は頭を抱えた。

「先生、これを見て下さい。この女、「しゃがの家」にいた「じゅんこさん」じゃないかしら」

 弘美は2L版の一枚の写真を野田に見せた。

「どれ、似ているな」

 その顔は、どこかのお寺の参道を戻ってくる参拝客の中にあった。

「これは何処のお寺かな。鎌倉には、こういうところはないと思うんだが」

「そうですね。私も知りません」

「今回の写真展のテーマは「鎌倉を歩く」だから。誰ですか。これを出してきたのは」

 「しゃがの家」の「じゅんこさん」に似た女が映っていなければ直ぐに没にするのだが、野田は誰が何処で撮ったかが気になり始めていたし、好奇心旺盛な助手の弘美も同様であった。

「ええと、初級クラスの庄川孝一さんです。撮影場所は常楽寺、撮影時期は今年の三月下旬となっています」

 弘美の説明に対し、

「写真展には没だけど、今度の教室のときに聞いてみよう」

 と言って、野田はガンガンする頭を抱えて、間近になった写真展の準備を続けた。

 野田が写真教室で庄川に会えたのは、四月中旬の鎌倉まつりの日であった。

 鎌倉まつりは、鎌倉市観光協会の主催で、毎年四月の第二日曜日から第三日曜日の間、さまざまな行事が繰り広げられる。若宮大路でのパレード、鶴岡八幡宮舞殿での静の舞、武田流宗家による流鏑馬が行われ、ミス鎌倉のお披露目も目玉の一つとなっている。静の舞は、源義経の愛妾静御前が源頼朝の所望で舞ったという故事に由来している。今年改修なった舞殿は当時はなく、八幡宮若宮回廊で舞ったと伝えられている。また、流鏑馬は九月の鶴岡八幡宮の例大祭でも、小笠原流宗家による流鏑馬神事が行われる。

 野田はこの日は大忙しであった。写真教室の生徒の面倒を見て、観光協会から依頼された写真の撮影、ミス鎌倉の写真撮影等などで、中々、庄川と話をすることが出来なかった。結局、その日はダメで、話が出来たのは、つぎの五月の教室の時であった。

「庄川さん」

 ファインダーを覗いていた庄川に、弘美が声をかけた。

「なんですか」

「先生が、ちょっとお話があると」

「何かな、写真展に出展する写真が十枚の中にないのであきらめてくれということかな」

「そんなことはありませんよ。ええーと、フラワーセンターの蓮と雪の円覚寺三門の二枚が選定されていますから大丈夫ですよ」

 二人は、木陰で煙草を吸っている野田の元へきた。

「先生、お連れしました」

「いいフレーミングは出来ましたか。三分割法を守っていますか」

「ええ、まあ」

「実はこの写真なんですが」

 野田は上着の内ポケットから一枚の2L版の写真を取り出すと、庄川に渡した。

「やっぱりバレましたか」

 と手のひらでおでこをひとつ叩いた。

「バレたというと」

 野田の問いに、庄川はすまなそうな笑いを浮かべて言った。

「実は、この写真はこの春に信州で撮ったものです。今回のテーマは「鎌倉を歩く」ですので、小鎌倉と言われている信州の塩田平を歩いた時に常楽寺というお寺で撮ったものをいたずら心で出してしまいました。鎌倉にも、建長寺、円覚寺と合わせて鎌倉三名鐘と言われる鎌倉一古い銅造梵鐘がある同じ名前の常楽寺というお寺がありましたので」

「ああ、やはりそうですか」

「すいみません。決して先生を試そうなんて思ったわけではありませんから」

「ああ、それは大丈夫ですよ」

 庄川は言い訳をするように小鎌倉について説明した。

         ・

 塩田平の歴史は鎌倉の歴史と共にある。源頼朝は幕府を鎌倉の大倉に開くと、全国の枢要の地に腹心の地頭をおき、幕府の権限が直接およぶようにした。信濃では、塩田平に頼朝の信頼が最も厚かった椎宗忠久を任命した。源氏三代の後、北条氏も信濃を重要視、宗家につぐ家柄である北条重時を信濃国守護に任命した。この頃から塩田平は「信州の学海」という名で知れ渡るようになる。別所に創建された安楽寺の開山、樵谷椎仙という高僧は、鎌倉の建長寺の開山、蘭渓道隆と中国でいっしょに学んだ親友であったということからも鎌倉との繋がりを推測できる。その後、幕府の連署という要職にあった北条氏一門の義政が引退して塩田に館を構え、信濃の政治・文化・宗教の一大中心地として、鎌倉幕府の滅亡まで繁栄を誇った。従って、塩田平には、鎌倉文化を色濃く映す中禅寺、塩田北条氏の菩提寺である龍光院、他に常楽寺、安楽寺、前山寺などの名刹が多く、まさに小鎌倉といわれる雰囲気を持っている。
         ・

「庄川さんは、博学なのに悪戯好きなんですね」

 弘美が口を挟んだ。

「実はこの写真に写っているこの女なんですが」

 野田は、参拝客の一人を指して言うと、三人はいっしょに覗きこんだ。

「これは、先生方と一度ご一緒させていただいた、化粧坂の「しゃがの家」の奥さんじゃないですか」

 庄川が驚いた様に言うと、

「庄川さんにもそう見えますか」

「ええ、ただそのときは気が付きませんでした。それで、この方が「しゃがの家」の女だったら」

 庄川の質問に、今度は野田が答える番であった。

「昨年の夏、「しゃがの家」のご主人は無理心中を図って亡くなりました。相手は、「じゅんこさん」と呼ばれていた女と思われていますが行方不明となっています」

「そうですか。それで、あの店は取り壊されて原っぱになっているのですね」

「ええ、その「じゅんこさん」が写っているのを木下が見つけてびっくりしたわけです。正確な撮影日はわかりますか」

「ええと、三月二十八日だと思います」

「それに、この写真の電子ファイルを貸していただけか。もう少し、拡大して見たいと思いますので」

「分かりました。木下さんに届けておきます」

「ちょうど良い光線が当たってきました。今がチャンスですよ」

 野田はまず庄川に教示すると、生徒たちの三脚が並ぶ方に歩いて行き、

「いい、光があたってきましたよ。今ですよ」

 と大きな声をかけた。

 野田は二の鳥居斜めにある鎌倉署に入っていった。

 鶴岡八幡宮には三つの鳥居がある。一の鳥居は若宮大路の下馬と海岸の間に立つ石造明神鳥居で国指定重要文化財である。二の鳥居はJR鎌倉駅から若宮大路へ出て少し八幡宮方向にいったところにあり、三の鳥居は境内の入り口に立つ。この鳥居の先には太鼓橋があり、右に源氏池、左に平家池を見てすすみ、流鏑馬の馬場を横切って、舞殿、若宮、本宮に向かうことになる。二の鳥居と三の鳥居の間約五百メートルにある参道が段葛である。源頼朝は、都市計画の要としての若宮大路と同時に北条政子の安産を祈願、中央部を盛り土し両脇を葛石で固め造営したと言われている。当初は、今の海岸橋まであり、周辺がぬかるみであったため参道を高くしたこと、二の鳥居の道幅を三の鳥居の道幅より広くして、遠近法を使って参道を長く見せたことなどが知られている。
「野田さん、今日は何か」

 若い婦人警官が声をかけた。

「滝沢刑事はいますか」

「はい、滝沢さんはこの春の移動で転勤になっていますが。どうしましょうか」

「ええっと。では、川井刑事はいますか」

「少しお待ち下さい」

 と言って、奥に入っていくと、直ぐに川井刑事といっしょに戻ってきた。

「ご無沙汰しています。あの時はお世話になりました。今日は何か」

「ええ、ちょっと。滝沢さんにお話したいことがあってきたのですが、転勤になってしまってということで」

 都機川が、川井に話したほうが良いか迷っていると、

「お役に立てるかどうか分かりませんが、私がお話をお聞きして」

 と言いながら、衝立で仕切られただけの応接室に野田を案内した。

「滝沢さんは、この春の移動で、神奈川県警本部の捜査一課に転勤になりました」

「そうですか。今日来たのは、この写真なんですが」

 と言って、一枚の2L版の写真をテーブルの上に置いた。滝沢は、ちょっと見せていただきますと手にとり眺めていたが、

「これが何か、お寺と参拝客が写っていますが」

「ああそうですね。川井さんは知らないですね。この女性は、去年の八月の事件で亡くなった奥津一寿のお店「しゃがの家」に居た「じゅんこさん」ではないかと思いまして」

 川井はもう一度写真を覗き込むと、

「小動岬の心中事件で行方不明となっている人ですか」

「ええ、確証はないのですが、「しゃがの家」にいったことのある人はみんな同一人物だというもんで」

 川井はちょっと困った顔をして、

「あの事件はもう捜査を終わっていまして」

 野田は、川井の立場を直ぐに理解した。

「毎日、いろいろな事件が起きて大変ですね。滝沢さんと連絡をとれますか」

 と聞くと、川井はほっとした表情を浮かべて、滝沢刑事に電話をつないでくれた。

「滝沢ですが」

 電話の向こうから、少ししわがれた声が聞こえた。

「鎌倉の野田です。ご栄転だそうで」

「いや、定年までの最後の職場になりそうです」

「県警本部の捜査一課と聞きましたが、そちらに都機川警部という人がいませんか」

「ええ、こちらに来て都機川警部の下で仕事をやらせてもらっていますが。都機川警部をご存知ですか」

「はい、都機川とは同じ大学の同じ研究室で、いっしょに卒業研究をやりました」

「そうでしたか。私も憧れの警部といっしょに仕事が出来て嬉しくてたまんないです」

「ええと、今日鎌倉署に来たのは、昨年の小動岬の心中事件で行方不明になった女の人が写った写真を見つけたもので」

「それはどうも。ん、川井君も捜査が終わっている事件で困ったのでしょう。一度お話をお伺いしたいと思いますので。ええっと、警部も誘ってみますから夕方がいいですね」

 野田は、川井刑事にこれ以上気にすることはないと気遣いの言葉をかけて鎌倉署を後にした。

 都機川は、五月晴れに恵まれた日、東京駅8時40分発あさま409号長野行きの新幹線で上田に向かっていた。隣の席には、三十数年連れ添っている妻の菜穂子が座っている。上野駅を出た頃には、都機川の大好物のカツサンドをもそもそとテーブルの上に取り出し、ホットコーヒーを買おうと社内販売を待ちかまえていた。

 一週間程前に関内の天麩羅屋で、都機川は、写真家の野田敬と部下の滝沢刑事と会って、鎌倉小動岬の心中事件の経緯を聞き、そのとき行方不明となっている女の人が映った写真を見せてもらった。滝沢とも話したが、今の時点で警察が事件として心中事件を再捜査することは難しかった。生来の感と長年の経験から、奥深い事件性を感じ取った都機川は、先ずは個人的に調査をすることにした。野田も納得し、滝沢が裏で調査を支援することになった。

 都機川が信州の鎌倉と言われている塩田平に行くと言うと、鎌倉彫の教室に通っている妻の菜穂子は、「鎌倉」という響きに直ぐに反応して一緒に行くと言い出した。
         ・

 鎌倉彫のはじまりは源頼朝の時代に見ることができる。鎌倉新様式を築いた運慶の孫の康運が、宋の仏師が持ち込んだ彫漆工芸をまねて仏具を作ったのがはじめと言われている。その後鎌倉仏師によって広まり、建長寺の須弥壇や円覚寺の前机は鎌倉彫の原型とされている。以後、茶道で使う茶入、香合、香盆などの茶道具として作られ、江戸時代には調度品なども数多く作られるようになった。

 明治時代になると仏像製作から工芸品作りへ大きく転換し、茶托、お盆、菓子皿などの実用品が中心となって今日に至っている。現在、鎌倉仏師の流れを継ぐ三橋家と後藤家は伝統を引き継ぎ、鎌倉彫は1979年に国の伝統工芸品に指定されている。
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 二人が朝食代わりのカツサンドを食べ終わると間もなく、あさま409号は、10時07分に上田駅に到着した。ここで、上田電鉄別所線の10時32分発別所温泉駅行に乗り換えると、10時51分に塩田町駅に到着した。塩田町から別所温泉までは、全国遊歩道百選に選ばれている認定コースがあり、歩き疲れれば、シャトルバスに乗ることが出来るようになっている。
 二人はまずは徒歩でと塩田町の駅を出発した。

 十五分位歩いて訪れたのは、「無言館」である。太平洋戦争の時、学徒動員で戦場に散った画学生の遺作の絵画、書簡や愛用したイーゼルなどが展示されている。都機川も妻の菜穂子も戦後生まれであるが、志半ばであったことに、展示品を見て胸が締め付けられる思いであった。

 ここを出て少しの勾配の道を十分歩くと、国重要文化財の三重塔がある「前山寺」に着く。二層と三層に廻廊・勾欄がなく未完成とされているが、その美しさから未完成の完成塔と言われている。社務所に寄って、菜穂子はご朱印帳への押印・記入をお願いし、その後で都機川は写真を取り出して聞いた。

「ちょっと人探しをしているんですが、ここに映っている人知りませんか」

 社務所の人は、丁寧に写真を見てから、

「すみません。私は見たことはありませんが。ここ映っているお寺は別所温泉の「常楽寺」だと思いますが」

「そうですか。お世話かけました」

 都機川は丁寧にお礼を言って、三重塔をぐるりと回ると、帰り際に押印・記帳されたご朱印帳を受取り、次の寺院に向かった。

 あじさいの道を通り、塩田城跡の碑を眺めて、少し行くと「龍光院」の細く、長い参道がある。「龍光院」は、塩田北条氏の菩提寺である。すぐ横には、北条国時の墓がある。境内には人影はなく、ポンプのついた井戸を見つけた都機川は、菜穂子にハンドルを押してもらい冷たい水で顔を洗い生き返った。

 お昼にしようということで、「龍光院」参道脇にある「塩田の館」というそば屋にはいると、先ずは生ビールを二つ注文した。店の外観は、庄屋の家といった風で、あんこ、野沢菜、切干大根、季節によってかぼちゃ、なすなどが入ったおやきと、皿に小分けした手打ち蕎麦を盛った皿そばが素朴な味わいがあると評判である。皿そばと野沢菜のおやきを食べて暫く休んだ二人は、別所温泉に向かって歩き始めた。

 つぎに訪れたのは「中禅寺」である。ここには、平泉中尊寺の金色堂と同様の「方三間の阿弥陀堂形式」を伝える国重要文化財の薬師堂があり、合わせて薬師如来像、神将像は国指定重要文化財である。ここでも、入り口の茶店で、菜穂子がご朱印帳への押印・記帳、都機川は写真を見せての聞き込みを行ったが不調であった。

 つぎの「満願寺」までの丘陵地帯からは、塩田平とそれに続く上田市を一望できる。「満願寺」には塩田最古の十王像が安置されている。ここでも、菜穂子はご朱印帳への押印・記帳を順調に増やしたが、都機川の聞き込みは成果を得られないままであった。
 少し広い通りに出ると、上田電鉄別所線終点の別所温泉駅の駅舎が見えた。二人は、送迎バスで予約していた旅館「中竹屋」にチェックインした。荷物を置いて身軽になった二人は、温泉街近くの「安楽寺」、「常楽寺」、「北向観音」を回ることにした。後一月程で夏至、五時を過ぎていたが、まだ十分に日差しが残っている。
 「安楽寺」は信州最古の禅寺で、八角三重塔は国宝である。「常楽寺」は北向観音の本坊で、本堂裏には国重要文化財「石造多宝塔」がある。「北向観音」は北向きにお堂が建てられ南面の「善光寺」と向き合っている。善光寺で未来往生、北向観音で現世利益を祈願しなければ片詣と言われている。ただ、ここでも菜穂子のご朱印帳への押印・記帳は増えるものの、都機川の聞き込みは全く手がかりを得られなかった。
 都機川にとってようやく光が見えたのは、食事処での夕食の時であった。お給仕の仲居さんに写真を見せると、

「みんなに聞いてきます」

 と写真を持って出ていった。二人が馬刺しに箸を伸ばしていると、仲居とは違う着物をきた女性が静かに都機川達の前に座ると、

「お食事中、お邪魔いたします。若おかみの夏美と申します。只今、仲居がお借りしたこの写真に映っている女性ですが」

 都機川は箸を置くと、身をのりだした。

「心あたりがありますか」

「はい、この方は旅館「ふきや」の若おかみの順子さんだと思います。多分、お客様を常楽寺にご案内したときの写真では」

 都機川は胸の高鳴りを覚えた。塩田町駅から、五時間をかけての歩きの疲れが吹っ飛んだ。
「今も、その旅館「ふきや」にいるのですか」

「ええ、今日の午後も別所温泉の「若おかみ会」で顔を合わせました。実は、順子さんとは、小学校から高校までの同級生なんです」

「ほんとうですか」

「順子さんに連絡をとってみますか」

「いや、ちょっと待って下さい。私は、神奈川県警の都機川と言います。これは、妻の菜穂子です。事件ということではないので、このように妻といっしょに旅行をしながら調査をしている次第です」

「そうでしたか」

 どいしたら良いかと言う目を夏美は都機川に向けた。

「せっかくの心のこもったお料理ですので、まず、頂きたいと思います。その後、お時間があるようでしたら、もう少しお話を伺えますか」

 都機川の問いに、

「ええ、お食事を終わって、少しおくつろぎになったらお声をおかけ下さい」

「ありがとうございます。それと、順子さんには何も知らせないようにして下さるとたすかるのですが」

 都機川は膳に向き直ると、再び馬刺しに箸をつけた。黙って聞いていた菜穂子が、

「これから、お話を聞くのなら、余り飲みすぎてはいけませんね」

 と言うと、自分の泡の消えたグラスのビールを飲みほした。

 夕食の後、一時間程して部屋に来た若おかみ夏美は、順子について知っていることは何でもと言って、都機川たちに話してくれた。

         ・

 順子の本名は中原順子、年令は三十二才、別所温泉でも一、二の老舗旅館「ふきや」の長女で、現在は若おかみをしている。昨年の夏の終わりに旅館に戻ってきて、それから美人若おかみとして評判になっている。生まれたのは、夏美と同じ年で、幼稚園、小学校、中学校は塩田町で、高校は上田市内に上田電鉄で電車通学し、この間ずーっと夏美といっしょで姉妹の様にしていたという。高校を出ると、夏美が地元の女子短大に進んだのに対し、順子は東京の女子大に進み、卒業後は超一流ホテルに就職して営業企画の仕事に就いていた。この間は夏美が東京に出たときに会ったり、順子が別所温泉に戻って来たときに会ったりしていたが、突然、連絡がとれなくなったという。数年が過ぎて、順子から夏美に連絡が入ったのは昨年の正月で、鎌倉で「しゃがの家」というお店を開いているから、鎌倉の方へ遊びに来たら寄って下さいというものであった。夏美は、一度は順子に会いに行こうと思っていたが時間が過ぎてしまい、昨年の夏の終わりに順子が別所温泉に戻って来て再会した。連絡がとれなくなっていた数年間のこと、鎌倉のお店のことなどについては、順子は余り話したがらないので良く分からないという。
         ・

 都機川は、翌朝、夏美から順子に連絡をとってもらうと、快く会ってくれるということで、十時前に「ふきや」を訪れた。若おかみの順子は、都機川を静かな洋風の応接室に通した。

「朝のお忙しいときに時間をとらせてすみません」

 都機川の挨拶に対し以外な言葉がかえってきた。

「いえ、どなたかにお話しなければと思っていました。自分から話をする勇気がありませんでした」

 順子は涙ぐんでいるように、何か動揺しているようにも見えた。都機川は戸惑った。

「先ずこの写真なんですが。見ていただけますか」

「はい。この写真は私が庄川さんに頼んで撮ってもらいました」

「えっ。ほんとうですか。いきさつを教えてもらえます」

 順子がどういう順序で話したらいいか、ちょっと考えていると、それを察した都機川が助け舟を出した。

「どういう順序でも、どういうことからでも構いませんよ。順子さんがお話になりたいことからで大丈夫です」

 少し気が楽になったのか順子が話し始めた。

「奥津は自殺ではありません。まして、私が無理心中の相手でもありません。奥津は誰かに殺されたんです」

「と言うと」

「私は、奥津が小動岬で見つかった朝の前日に家を出ています」

「何か事情が」

「ええ、奥津から身を隠す様に言われました。その日の一ヶ月前位からお店にやくざ風の男が来たり、お店を閉めた後に誰かに呼び出されて出かけたりして、奥津は誰かに脅されている様でした。奥津に聞きましたが何も心配することはないと言って、何も話してはくれませんでした」

「それが」

「家を出る前日に、突然、ここに居ては危険なので別所温泉の実家に帰って待っていてくれと、奥津に言われました。必ず連絡するから、何があっても出て来てはいけないと厳しい言い方でした」

「家を出てどうされましたか」

「誰かに後をつかれている様な気がして、ラッシュアワーの横須賀線に乗ったり、わざと人混みを通ったりました。二、三泊、東京のホテルに泊まってから帰った方が良いとの奥津のアドバイスがありましたので、その日は横浜みなとみらいのホテルに泊まりました」

「奥津さんが小動岬で重体で見つかったというニュースは、いつ、何処で知りましたか」

「はい、ホテルで、テレビの朝のニュースで見ました。直ぐにでも駆けつけたかったのですが、何があっても出て来てはいけないという奥津の言葉に躊躇しました。つぎの日に奥津が亡くなったこともホテルのテレビのニュースで知りました。そして、無理心中の相手として私の捜索が行われていることも」

「その時、警察に来て頂ければ良かったのですが」

「奥津の言葉もありましたし、出て行けば自殺幇助の罪で疑われ、誰にも見つからないようにしていましたのでアリバイもありません」

「それから」

「結局、ホテルに二泊した後に実家に帰り、それから一歩も別所温泉と塩田平を出ていません」

「先程の写真のことですが」

「今年の三月頃、私どもの「ふきや」に庄川様が御泊りになりました。お部屋にご挨拶に伺った時はお互いに驚きました。庄川様は、「しゃがの家」に鎌倉の写真家の野田先生とお見えになっていて良くお顔を覚えていました」

「庄川さんは偶然に写っていたと言ったようですが」

「こちらに戻ってきてから、ずーっと、奥津は自殺ではない、自分が心中の相手ではないということを分かってもらいたいと思っていました。奥津の事件の犯人を捕まえてもらいたいと思っていました。それで、私の写っている写真を見てもらえば、自殺として処理されてしまった奥津の事件をもう一度捜査してもらえるのでは考え、庄川様に頼みました」

「そうですか。庄川さんも役者ですね。事情はわかりました」

「遠回しなやり方をして申し訳ありません」

「いえかまいません。奥津さんは心中ではなく殺されたとすると犯人は。何か心あたりはありますか」

「先程も言いましたが、お店に来たやくざ風の男とか、奥津を呼び出した人ですが、誰かということまでは分かりません」

「そうですか。大変不仕付けなことをお伺いしますが。奥津さんとのご関係は」

「正式に結婚はしていません。私はここ信州の鎌倉と言われる塩田平で生まれ育ちました。苫小牧から本州に向かうフェリーで、どこで暮らそうか相談した時、鎌倉に住みたいと言った私の希望を奥津はかなえてくれました。ただ、それもわずか半年余りで終わってしまいましたが」

 順子の目には大きな涙が溢れていた。都機川は、今の話を上申書として整理して送るので確認して署名捺印して欲しいと順子に頼み、必ず捜査を再開して奥津殺害の犯人を捕まえると約束して、「ふきや」を後にした。

 安曇野で田舎暮らしをはじめた実姉の家によるという妻の菜穂子と別れ、都機川はその日の内に神奈川県警本部に帰った。滝沢刑事が非番にも関わらず待っていてくれて、都機川が机に着くと、声をかけてきた。

「お疲れさまです。新婚旅行はいかがでした」

 都機川は、島牧巡査におみやげの「雷鳥の里」を渡して、

「久しぶりに休みを貰って、二人で温泉にゆっくりと入らせてもらったよ」

 と答えた。

「で、何か手がかりはありましたか」

「大有りだった。「しゃがの家」のじゅんこさんと言う女に会うことが出来た。本名を中原順子といい、別所温泉の老舗旅館「ふきや」の若おかみだ」

「それはすごい収穫でした」

 滝沢の言葉に都機川は続けた。

「例の写真は、鎌倉の野田がやっている写真教室の生徒の」

「庄川さんですか」

「そう、その庄川さんが偶然に撮ったのではなく、順子さんが頼んで撮ってもらい、自分が生きていることを誰かに、多分、奥津の事件を捜査している警察に知らせたかったということの様だ」

「それなら直接、我々に連絡してくれればいいのに」

 滝沢の不満そうな言い方に、

「順子さんは、奥津から身を隠す様に言われていて、また、警察に出頭すれば、自殺幇助で取り調べを受けることになるのを嫌がったということだ」

「そうですか」

「滝沢さん、我々は大きなミスをおかしたと思うんだ」

「と、言いますと」

 都機川は、鎌倉署から借りた、奥津一寿の事件に関する捜査記録を取り出すと、

「小動岬、太宰治、無理心中という一連の意識があって、奥津が心中したものと決め付けてしまったのではないか」

「でも、奥津は近所の人に見つけられた時、心中相手の女を助けてくれと」

「いや、ここの第一発見者の調書には、こう書いてある。「女がいる。助けてくれ」とやっとの息で言ったと」

「ああ、そうですか。第一発見者も太宰治の心中の件を知っていれば」

「そうだ。この奥津が言ったのは、「女に殺られた、自分を助けてくれ」ということで、その第一発見者のニューアンスも加わって、我々は心中と思い込んでしまった」

「分かりました。で、殺人事件と分かった、いや、その可能性が出てきた以上、捜査のやり直しをしなければ」

 滝沢は、自分の思い込みがミスジャッジをしたことに責任を感じているようで、

「警部、これからどうしましょう」

 と心配そうに都機川の顔を覗きこんだ。

「これから、中原順子の上申書を作成、署名捺印してもらう。それを添えて、再捜査を課長に進言する」

「自分はどうすれば」

「多分、私と滝沢さんの二人だけの体制になると思うので、現在手持ちとなっている事案を整理しておいてくれ」

「分かりました」

 滝沢は再び真実を追究出来ることに一安心したようである。都機川は、上申書の原案の作成に取り掛かかった。

 こうして小動岬殺人事件の捜査が再開された。

 都機川と滝沢が、写真の提供者である庄川孝一に会って写真撮影の経緯を確認すると、例によって手のひらでおでこをひとつ叩いて、

「分かちゃいましたか。すみません、その通りです」

 と言って中原順子の話を裏付けた。

 写真家の野田敬と助手の木下弘美に会って、「しゃがの家」のことについて改めて尋ねると、

「そういえば、ご主人が亡くなる一ヶ月位前ですが、お店のカウンター席の隅で、ずーっと黙って座っていた男がいました。先生覚えていません」

 弘美の問いかけに、

「んー、ちょっと覚えていないが」

 野田が応えると、都機川が弘美に問いかけた。

「どんな男でした」

「そんなに良く見ていた訳ではないので。歳は四十位かな。私達が店を出る時もまだ座っていて。外に送りに出たじゅんこさんに「誰なの」と聞くと、「ん、ちょっとした知合い」と言った様な気がします。もう、一年位前のことなので」

 自信なさそうに弘美が話した。

 横浜に戻る横須賀線のなかで、都機川は滝沢に、

「なかなか難しそうだな」

 と言って、見えてこない事件の構図に考えを巡らしていた。

 二人が県警本部に戻ると、捜査一課長が呼んでいるというので席に行くと、

「確か、警部が追いかけている事件の被害者の姓は奥津で、苫小牧が実家とか聞いているが」

「そうですが。何かありました」

「先程、テレビのニュースで、苫小牧で男の子が行方不明になったという事件が流れていた。まだ、何もしていないが気になったので」

「ありがとうございます。早速、調べてみます」

 と礼を言って二人は自席に戻った。

 都機川は苫小牧警察署に電話して、清川刑事を呼び出してもらった。小樽署で「まむしの清」と言われた清川は苫小牧署に移動になっても直ぐに同じ「まむしの清」と呼ばれていた。電話にでた清川の大きな声が都機川の耳に響いた。

「先生、ご無沙汰しています。お元気ですか」

 清川が都機川のことを先生と呼ぶのは、警察学校のとき講師として教えを受けたからで、以来、信頼の厚い師弟関係が続いている。都機川は構わず用件を切り出した。

「今テレビのニュースで流れている苫小牧での幼児行方不明の事件なんだが」

「ええ、警察、消防それに自治団の協力で全力を挙げて捜索しているところですが」

「実は我々のところで扱っている殺人事件の被害者の苗字が奥津といって、苫小牧に住所を置いていたことがあるのでちょっと気になって。分かっていることを教えてくれないか」

「分かりました。行方不明になったのは、苫小牧市明野新町の奥津俊夫さんの孫の大樹君三才で、昨日の三時過ぎから自宅近くのあけの公園で友達二、三人と遊んだ後、友達は自宅に戻ったが大樹君は暗くなっても戻らず、捜索願いが出たという次第です」
「大樹君の家族は」

「おじいちゃんの俊夫さんにおばあちゃんと大樹君の三人暮らしです。両親は離婚、父親は既に亡くなっていて名前は奥津一寿です。昨年、鎌倉の方で自殺しています。離婚の後、夫が自分の祖父母に大樹君を預けていました」

「間違いなく、我々が追っている事件の被害者と同一人物だ」

 都機川は突然の展開に驚きを隠せなかった。

「分かれた奥さんの方なんですが。何でも、札幌に居るという話ですが。まだ、居所が分かっていません」

「他に分かっていることは」

「昨夜の今日ですので特にはありません。また、身代金の要求とかもありませんので事故と事件の両面から捜査を進めます」

 この時、滝沢がメモ書きを都機川に見せた。別所温泉の「ふきや」の若おかみ夏美から電話が入っているもので、ちょっと待ってくれるように頼んだ。

「清川刑事、分かりました。進展があったら連絡を頼みます。いっしょに仕事をすることになるかも知れないな」

 と言って電話を切ると、電話の回線を切り換えた。あわてたような夏美の声が聞こえた。

「順子さんの行方が分からなくなりました」

十一

「どういうことですか」

 都機川は挨拶も抜きに聞いた。

「先程、「ふきや」さんから連絡があって、順子さんを知らないかと」

「それで」

「昨夜、仕事を終えた後一人自室に戻った後、今朝、起きてこないので見に行くと、姿が見えなかったそうです」

「順子さんに何か変った様子は」

「特に聞いていませんが。「ふきや」さんに聞いてみたらいかがでしょう」

「そうですね。夏子さんは、順子さんのことで何か気になることは」

「ええ、特には。ああそう、都機川さんが見えられた時に言えばよかったのですが、順子さんのプライバシーに関することでしたし」

「どんなことですか」

「去年こちらに戻ってから一度だけ聞いたことなのですが、順子さんには、三歳か四歳になる男の子がいると言っていました」

「そうですか。で、今その男の子は何処に」

「なんでも苫小牧のほうに。それ以上はつっこんで聞きませんでしたのでわかりません」

「ありがとうございます。また、何か思い出したり気付いたことがあったら連絡して下さい。それに、夏子さんは順子さんの親友のようですので連絡があったら教えて下さい」

都機川は丁寧に礼を言って電話を切ると、

「鎌倉、信州鎌倉、苫小牧で何かが」

 と呟くと、順子の実家、順子が若おかみをしている別所温泉「ふきや」に電話を入れた。応対にでた順子の父親、「ふきや」の主人の話によると、行方が分からなくなった経緯は夏子の話と同じで、ただ、父親、母親宛に迷惑をかけることを詫びる短い走り書きがあったという。父親は順子の行き先の心あたりに連絡をとっているが、まだ見つかっていないという。順子さんに男の子がいるのではと問いかけたが、父親は驚いた様に全く知らないと返答した。

 都機川は、直ぐに上田警察暑に電話を入れ、「ふきや」の若おかみ順子の足取り調査を依頼した。上田電鉄別所線の上り上田行きの最終は、別所温泉駅23:06発上田行き、電車を利用したのであれば、温泉一といわれる美人若おかみだから誰かみているはず、タクシーを利用したのであれば、数十台しかない別所温泉では直ぐに分かるはずと考え、結果をまつことにした。

 続いて、再び苫小牧署の清川刑事に電話をいれた都機川は、鎌倉で殺された奥津一寿と行方不明となっている大樹君の家族関係を少し遡って調べておくように依頼した。

十二

 都機川警部と滝沢刑事は、羽田発九時、JAL1011便で新千歳空港に向う。空港駅からは、エアポート快速を南千歳で乗換え、苫小牧行きに乗ると、正午前には苫小牧駅に着くことができた。
「警部、お久しぶりです」
 苫小牧署の清川刑事が迎えに来てくれていた。
「元気そうだな。で、大樹君の行方は」

 都機川の問いに、

「まだ」

 と短く答えると、三人を乗せたパトカーは苫小牧署に向かった。

 都機川達は署長への挨拶を済ませると、大樹君の捜索状況についての説明を受けた。大樹君は行方不明となった一昨日の夕方から、昨日そして今日と三日目になるが、まだ見つかっていない。付近の山狩、用水路の捜索を行っているが手がかりはない。一方、公園付近の聞き込みでは、大樹君が車に乗るところを見たという情報が寄せられ、さらに聞き込みを続けているということである。

 都機川が清川に電話で頼んでいた家族関係についての調査ではいくつかの新事実が明らかになってきた。

 現在、苫小牧でいっしょ暮らしている奥津俊夫夫婦は、大樹君の祖父母、父親は奥津一寿で昨年の夏に鎌倉で自殺している。二年前に離婚した前妻の名前は、石塚一子といい、別の男と札幌に住んでいることが分かった。捜査員が面会して大樹君の行方不明を告げると、今はもう離婚して縁が切れているとつれない態度を示した。自分の子供が行方不明なのにと不思議に思った捜査員が問い正すと、大樹君は一子の子供ではないと言って、自分は関係ないとそれ以上の説明を拒否した。

 この点について祖父母の奥津俊夫に聞くと、大樹君を預かった経緯を含め話してくれたという。

 奥津俊夫は地元の高校を卒業すると東京へ出て調理学校に通い、東京の有名ホテルに入って修行を積み、フランスにも留学して料理人としての頭角を現わした。この時期に大樹君の実の母親である中原順子という女性と知り会い相思相愛の仲になったという。しかし、今度は中原順子がバリ島にあるグループホテル勤務のとなって、少しづつ距離が出来てきたとき、奥津一寿は小樽一の高級ホテルで北海道のホテル王と言われた片山泰三が経営するインターコンチネンタルホテル小樽から、総料理長としての招聘を受けた。この時の条件が片山泰三の妾であった石塚一子との結婚であった。奥津一寿は条件を飲んでホテルの総料理長に就職、一子と結婚したが、こんな結婚がうまくいく筈もなく、結婚当初から一子は外で遊び放題で家庭という体もなさなかった様であったという。

 数年後、バリ島勤務から戻った中原順子は一寿と再会、大樹君を出産したが、片山泰三の意向もあって、一寿と一子の子供として育てられることになった。浮気相手の子供を育てることになった一子の大樹君に対する虐待は酷いもので、見かねた自分達が大樹君を引き取って育てることになったという。

 その後、一寿は一子と離婚してホテルも辞めて北海道を後にした。その後どうしていたかは両親も分からなかった様であるが、亡くなる数ヶ月前にはもう直ぐ大樹君を引き取ると言ってきたという。

 奥津俊夫夫婦からの話は以上で、大樹君をことのほか可愛がって育てていただけに、今回の行方不明に憔悴しきっているという。

 ここまでの説明を聞いた都機川は、

「少し分かって来た様に思います。で、中原順子は北海道のどこかに来ているな」

 と言うと、清川刑事がすかさず反応した。

「警部、中原順子の顔写真はありますか」

「長野県の上田署から手に入ると思う」

「分かりました。多分、小樽、札幌、苫小牧を結ぶ線上では」

「そうだな。その辺りを中心に頼む」

 清川の手配が終わるのを待って、奥津一寿の兄、奥津貞男から聞いたことの説明に移った。

十三

 奥津貞男は、奥津一寿とは八ツ年上の二人兄弟で、苫小牧から車で二時間程のところにある占冠村で酪農を営んでいる。奥津一寿の結婚、離婚、自殺について概ね祖父母と同じ話をしたが、一寿と一子の離婚についてより突っ込んだことを教えてくれたという。
 離婚の原因を、一寿は、一子が暴力団関係の男と関係が出来たこと、一寿の子である大樹君を引き取ったものの虐待を繰り返していたことであると主張した。一方、一子の方では、一寿が中原順子と関係を持ち子供を作ったことにあると主張、家庭裁判所での調停では、親権を一寿が持ち、双方の慰謝料請求を認めないことで決着した。しかし、一子は、内縁の夫である暴力団関係の男を後ろ盾に執拗に金を要求していたという。

 その後のことについては部分的にしか聞いていないとしながら、苦々しい表情で説明を加えたという。一寿の自殺で一子を受取人としてかけていた生命保険二千万円が一子の手元に入ったという。そして、その後暫くして一子は、祖父母のところに預けられている大樹君を引き取りたいと言って、親権回復の申請を家庭裁判所に提出した。家裁の調査で過去の虐待が露見し、さらに家裁が実の母親である中原順子に問い合わせたところ、大樹君を引き取りたいとの意向があったことから申請は却下されたということである。何故、一子が大樹君を引き取ると言い出したかのか良く分からないという。

 説明が終わりかけた時である。

「都機川警部、洞爺湖温泉の旅館から電話が入っています」

 都機川が立ち上がると、制服の警官が電話の所に案内した。

「もしもし、ここは苫小牧署で、わたしは神奈川県警の都機川ですが」

 電話の向こうからは少し緊張した雰囲気が伝わった。

「私は洞爺湖温泉にある大和旅館の主をしています今井と言います」

「はい、どのようなことで」

「私共の旅館に昨日からお泊りの女性の方ですが、昼過ぎにお出かけになった後、従業員が部屋の掃除をしにいくと、机の上に手紙とメモ書きがありました」
「ええっと、先ずその女性の名前ですが」

「すみません。宿帳には中島幸子とあります。住所は、横浜市○○となっています」
「わかりました。それで、そのメモには何と」

「書いてある通り読みますと、「私が夕方までに戻らない時は、神奈川県警の都機川警部に届けて下さい」とあり、いっしょにあった封筒には神奈川県警、都機川警部殿と書いてあります」

「それで、連絡を頂いたのですね」

「はい、洞爺湖の駐在さんに話しをすると、神奈川県警に連絡をとり警部が苫小牧署にいることを突き止めてくれました。さすが、警察ですね」

「ところで、その女性はどんな顔立ち、髪形、背格好でした」

「そうですね、三十前後の美しい方で、髪は中くらいかと思いますが、そう、背はすらっとしていました」

「今井さんのところでは、インターネットを使えますか。写真を送りたいのでメールアドレスを教えてもらえますか」

 都機川は教えてもらったアドレスに上田署から取り寄せた中原順子の写真を送るように清川に頼んだ。

「もしもし、今井さん、今写真を送りましたから、ちょっと見てもらえます」

 暫く電話口で待つと、

「お待たせしました。お泊りになっている中島幸子さんに間違いありません」

「そうですか。ありがとうございます」

 都機川はちょっと待ってもらって、清川に聞いた。

「ここから洞爺湖までどの位かかる」

「そうですね。私が運転すれば小一時間で」

 答えを聞くと、電話に再び出て、

「これから、そちらにいきます。もし、中島さんが戻ってくるようでしたら引き止めておいてください」

 と洞爺湖温泉の旅館の主に頼んだ。手紙をFAXしてもらおうかとも考えたが、大樹君の命にも関わることも考えられ、内容が漏れることを恐れて現場に急行することにした。清川刑事が運転する車は、苫小牧署の警官と都機川と滝沢刑事を乗せて、赤色灯をつけ、けたたましいサイレンを鳴らして、夕闇が迫る林間道路を洞爺湖に向かって疾走した。

十四

 都機川警部殿

 先日別所温泉でお会いした時にすべてをお話しておけば、ご迷惑をおかけすることもなかったかと思います。心からお詫び申しあげます。

 まず緊急に迫った事態からお話しますと、一昨日の夕方、ある男から電話があり、今、大樹といっしょにいる、亡くなった奥津と石塚一子との離婚の原因は私にあるのだから、慰謝料三千万円を払えというもので、金を用意し、洞爺湖温泉に来るようにと指示してきました。父と母には、一寿さんとのこと大樹のことを以前から話しておきましたので、父はその日の内に三千万円を用意し、従業員などに気付かれないよう車で東京まで送ってくれました。多分、警部からの問合せに対して、父は何も知らないと対応したと思います。そして、私は昨日の午後にここ洞爺湖温泉の旅館に入り、男からの連絡を待っていました。

 昨夜は、テレビで報道される大樹のニュースに一睡も出来ませんでしたが、今朝の八時過ぎに再び男から携帯電話に連絡があり、お金を持って札幌駅に来るように言われました。そこで改めて指示するというもので、お金と交換に大樹を引き渡すと言っていました。私はもしものことを思い、この手紙を残した次第です。

 男が誰かはっきりとは分かりませんが、離婚の慰謝料と言っていたこと、また、私が大樹の親権を持てば、大樹を受取人とした奥津の生命保険金三千万円が手にはいるのだから、それを担保にお金は簡単に用意できるだろうと言っていた事を考えると、石塚一子の内縁の男ではないかと思います。

 電話の男は、大樹を預かっているのは誘拐でもなんでもないが、決して警察には連絡するな、大樹の命は保障しないと言っていました。私の携帯電話の番号は、×××―××××―××××です。もしかしたら相手から監視されている状況で電話に出れるかどうか分かりませんが、一度電話を頂ければ、その電話番号に時々発信しますので、私の居場所を突き止めて頂くことが出来るのではないでしょうか。

 このような事態になってしまった経緯、鎌倉でお店を開いた経緯については、大樹と二人で元気でお会いすることが出来たらお話します。

 「警部、助けて下さい」    中原順子

十五

 中原順子はキャスター付のバッグを脇において、札幌すすき野でも最も人通りの多いショッピング街の角で、大樹が来てくれるのを祈って待っていた。一時間ほど前には都機川からの電話が携帯にあり、携帯電話をハンドバックに入れたまま折り返しの無言の電話を入れた。もう一度、電話を入れようとした時だった。一人の男が順子に近づいてきて言った